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第2版  作者: 八雲 辰毘古
旅立ち篇
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6.見つめる眼

 風が甘やかな(かお)りを運んでいる。

 頰を優しくさする風で、目が覚めた。

 あたりは不思議と明るい。

 見れば、一羽のカラスが飛んでいる。悲しげに鳴きながら、黄ばみつつある空に哀愁(あいしゅう)()えているのだった。


 アデリナは上体を起こすと、傍らで横たわっている娘のような少年に声をかけた。

「おい、ルゥ」

 揺さぶっても中々目覚めない。

「おい、ルート!」

 名前を呼ばれ、ルートは目を覚ました。その目覚め方は、まるで夢の名残りをまだ引きずっているかのようだった。


「むにゃ?」

「なに寝ぼけてんだよ。もう夕暮れだぞ」


 言いながら、アデリナは既視感を覚えた。

 そういえばこれとよく似た光景を見た気がする……もっとも、それは昨日のことだった。にもかかわらず、さながら幼き日々を思い起こすかのように遠く感じられた。

 淋しくない、と言えばウソになる。

 けれども、心のどこかに爽やかな風が吹き込んでいた。それは月日をいくら重ねても手に入らないような、途方もない達成感とともに、伸びた髪を愛でるような、不思議な気持ちだった。


「ううん、ここは……?」

「バッカ忘れてどーすんだよ。母さんの墓参りしていたのが、突然お前が〈不入(いらず)の森〉に向かって、それからこの本を……あれ?」

「どしたの?」

「文字が消えてる」


 ふたりの手元にあった本を開いても、もうそこに一文字も残されていなかった。ルートはそれをちらと見やると、小首を傾げた。


「これも魔術だったのかなぁ」

 少し考えてから、彼は言った。

「その本に書かれた茨文字は、意味を盗まれないための保護の魔術だったはず……その役目が終わったなら、消えてしまうのは納得できる」

「そう……だな」

 でもアデリナは名残り惜しさを感じた。

 白紙になってしまった本を、まるで幼児期にさんざん使いまわした玩具を懐かしむように、撫でていた。


 ねえリナ、とルートが言った。何事かとアデリナが振り向くと、彼はこうべを垂れて、ごめんと謝った。


「いきなりなんだよ」

「ボクの勝手なことで……その、何か大切なものを壊してしまったような気がして」

「なんだ、そんなことかよ」


 気にするだけ野暮だぜ、と彼女は笑った。

 でも、と言いかけるルートを留めて、彼女はつづける。


「いいんだよ、これで。アタシたちはいつかこうしなきゃならなかった。それが、たまたまいまだっただけなんだ」

「そう、だったらいいんだけど」

「もう過ぎたことだ。昔のことをふりかえってウジウジするところまで、母さんそっくりだったか?」

「んもう、リナのバカっ」

「バカって言った方がバカなんですぅ」


 ふんだ、へんだ、と言い合って、ふたりは立ち上がった。しかしそのとき、彼らは自分の身体が自分のものではないかのような違和感を覚えた。その正体はすぐに判明した。

 背丈が伸びているのである。

 わっ、と均衡を崩して尻もちをついたアデリナ。その背丈は、ルートよりもやや高く、大人びて見えた。

 対するルートもローブの裾が足りないことに気がつき、むき出しになった足首を、茫然(ぼうぜん)と見つめている。


「どういうことだろう」

「まさか……魔術の仕掛けはまだあったっていうのかよ……」


 ようよう、身体の使い方を心得たアデリナは、再度立ち上がる。違和感はつかの間で、すぐに馴染んだものの、困惑は隠せない。

 と、そのとき。

 ひょう、と風が髪をさすった。

 背筋が凍るような心地がする。

 振り返ると、がさりと音が立った。誰だッ! とアデリナは直感的に声を張るやいなや、その跡を素早く追いかけようとした。けれども身体が間に合わず、そのまま音の正体を逃してしまう。


「ルゥ、イヤな予感がする」

「奇遇だね、ボクもそう思うよ」


 急ごう、と彼は言った。

 アデリナも頷く。

 何かが始まろうとしていたのだ。



   *  *  *



 〈不入(いらず)の森〉は、もうかつて言われていたような薄暗い、不吉な森ではなくなっていた。黄昏(たそがれ)の斜陽が差し込み、むせるような苔の臭いや、虫や鳥のさえずりがそこかしこに響いている。いつの間に、とアデリナがけげんに思っていると、ルートがある仮説を立ててこれを説明しようとした。

 すなわち、いまやルートの首に掛けられた銀のペンタクル──これを時の変化から護るために鬱蒼(うっそう)と閉ざされたかの森は、魔術の触媒となっていたのではないか、と。


「ボクたちの記憶──身体に刻まれた時間が、お母さんの魔術であの森に封じ込められていたんだとすれば、さっきの背丈が伸びていることの説明にもなるんじゃないかな……」

「いやまあ、そうなんだけど、結局なんで母さんがこうしたのかは、わからないまんまじゃねえかよ」

「せっかちにならないでよ。ボクだってお手上げだ。何かよくないことが起きていることしかわからないんだから」


 周囲を警戒しながら、彼らは歩を進める。

 しかしふたりが気にしていた人物は、ついぞ現れることなく時が経過した。そのうち彼らは自らの足元と方角に意識を向けるようになったため、警戒も緩んできたのだった。


 しかしそのときだった。

 自らの周囲に異変が近づいたのは。


「リナ……っ!」


 最初に気づいたのは、ルートだった。

 彼はアデリナに注意を促すと、近くに転がっていた石を拾い上げる。一方アデリナはというと、すでに拾っていた木の枝を、剣のように握って、構えた。

 その装備は、これから現れるもののことを考えれば、あまりにも貧弱であった。


 黒ずんだ毛むくじゃらの四本足、人間ひとり分と同じぐらいの体躯(たいく)、そして頭蓋(ずがい)を噛み砕けそうな鋭い、しかし腐蝕のある牙……それが四、五匹。


「魔獣:グリムガンド……」


 ルートがつぶやいたその名前こそは、建国神話において名が知られ、《魔女》によって使役される魔狼であった。


「なんでこんなところに……!」

「知らねえよ、でもどうすりゃ良いんだ。これって絶体絶命ってヤツじゃんかよ」


 乱暴に言葉を投げるアデリナだったが、その眼は必死に逃げ道を探していた。

 まだ包囲は完成していない。

 しかし走って逃れられるのだろうか?

 ぱっと脳裡に浮かんだ悲惨な結末を振り払って、アデリナは懸命に考える。けれどもちがう道を思い浮かべることができなかった。


 死ぬのはイヤだ、と思った。

 すると彼女は、ルートが自分の手を握っていることに気づいた。


「まだだよ。まだ諦めるには早すぎる」


 そう言ってはいたものの、彼の手は(ふる)えていた。

 だから、アデリナはあえて笑ってみせた。


「バカやろ、おめーがビビってどうすんだよ。心配しなくても、ルゥはアタシが護る」


 にじり寄る魔狼たち。

 はちきれそうなばかりの緊張が、弾けると思った瞬間、ふたりは目をつむり、おのれの運命を覚悟した。

 しかし決定的な瞬間は来なかった。

 恐る恐る目を開くと、グリムガンドが硬直したように動きを止めているのを見た。


「なんだ……?」


 と、言いかけた途端である。


 伏せろッ、と怒号が(ひび)き、アデリナがとっさにルートとともに大地に伏す。すると、(はげ)しい風が横に一閃したかのように吹きすさび、空を断つ音が耳に(とどろ)いた。

 ぐしゃり、と後からイヤな音もする。

 見上げると、魔狼たちの肉体が切断され、黒々とした血液が流れ落ちている。そしてすぐに足音が駆けつけたかと思うと、ふたりを抱き起こす手が差し伸べられた。


「大丈夫かい、ふたりとも」


 この声には聞き覚えがあった。

 見上げると、そこにはガーランドがいたのだった。


「ガーランドさん?!」

「どうしてこんな」

「話はあとだ。まだ仕損じたヤツがいる」


 王都仕込みの赤いコートをひるがえし、彼は身構える。その視線の先には、手負いの魔獣が醜く歪んだ目つきで、こちらの心を射抜かんと見据えていた。

 対するガーランドは、口の中で詠唱しながら、人差し指と中指を立てて、円を描くように手首を回転させていた。


「〈星霊〉よ、我が呼びかけに応えよ。なんじ風精(ジルフェ)御名(みな)に掛けて、我、エルレーヌの契約に基づきこれを要請する……」


 指先の軌道に風が乗り、円月輪(チャクラム)の形状を取って行く。気の変動を察知したのか、魔狼の動きが俊敏になった。あわよくばこれを避けて、ガーランドの喉笛(のどぶえ)を噛み切ろうとスキをうかがっている。

 ぱっとガーランドが真空の刃を投げた。右だ。グリムガンドは気の流れを直感し、素早く反対側に()り出した。

 だが、刃の軌道は曲線を描いた。

 追尾するように魔狼の跡を追い、その首を鋭く斬り落としたのだった。


 確実にとどめを刺したことを認めると、ガーランドは振り向いた。その表情は険しい。よく観察すると、服装もズタズタで、すっかりくたびれているようにも見えた。


「急いで戻ろう。事情は歩きながら話すけれども、ここにいては危ない」


 その真剣さに気圧(けお)されて、ふたりはガーランドの言葉に従った。


 だが、三人が森を抜けようと歩き出したあとのことである。

 魔狼の()(がら)が生み出した、黒ずんだ血の池にひとつの革靴が踏み込んだ。ぺちゃ、と(みにく)い音を立てるのを察知したその人物は、たいそうな不快感を眉に示した。


「まったく……使えないわね、この下僕ども……せっかくの新品が血で汚れちゃったじゃないの」


 怒りをにじませて独りごちると、いったん(かが)み、靴に掛かった血を指でぬぐい取ろうとする。

 こびりついた血を、にちゃにちゃと指で(もてあそ)ぶ。粘り気のある糸を、指先に引かせているうちに、彼女は、くすくすと鈴の鳴るような声で笑い出した。


「待っててお義姉(ねえ)さま、もうじき夜になりますからね……」


 見上げた空に掛かった黄昏(たそがれ)は、紫色の闇を引き連れていた。

 ──月の出は近い。

 そう遠くないうちに、凍てつく氷のような光が、地平線に輝こうとしていたのだった。

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