3-15.物静かに語る
「くそっ! 逃がしちまった!」
アデリナはそう毒づくと、木の根元にどさりと腰を下ろした。あたりはマツやブナの樹々が立ち並び、薄暗い黄昏の光に包まれようとしている。ヴェラステラがあとからやってくると、アデリナは、「なあ」と声をかけた。
「そろそろ教えてくれ。業魔ってなんだ? あんたたちは何をしようとしている? そして《魔女》っていったい何なんだ?」
「あんた質問はひとつずつにしてくんない? 言われなくてもちゃんと説明するってーの」
ヴェラステラは、ほつれた毛先を整えながら、答えた。
「……わるい」
「いや、別にいいけど」
うつむいたアデリナを見て、彼女はけげんな顔をする。
「どうにもわからないわ。決めたんだったらさっさと割り切ればいいのに。確かに過去はなかったことにはできないけれども、《記憶》に縛られるのは、愚の骨頂よ」
「……あんたにはわからないよ。過去を悪いものだと切り捨てられる、あんたたちには」
そう、たしかに自分が《魔女》であり、親友シュヴィリエールの因縁の相手であったことは変えることのできない事実だった。貴族社会の生活には慣れなかったし、レアンドル一同のようなそりの合わない人々もいた。
苦しい日々だった。
不器用な自分には信じがたい苦痛でもあった。
しかし、すべての日々が苦しかったかというと、そうではない。ニースやシュヴィリエールと笑った時間があり、グリンダの悪口を言い合い、鬱憤を晴らしたこともあったのだ。それらの記憶は、散らかった部屋の片隅に置かれた小物入れのように、小さくて愛おしい断片だったのだ。
「過ぎても割り切れないのが人情ってもんだろ……」
「ふうん。残念だけど、わたしはもう、そんなこと忘れちゃった。だから、わからない」
アデリナは顔を上げた。
燃え盛るような青い目が、向いている。
「へえ、業魔を抑制するなんて。大したものね」
「ここであんたを憎んだってなにも解決しない。そんなことぐらいアタシにだってわかる」
「……合格。話がわかる奴って助かるわぁ」
しかし、ヴェラステラは、あたりを見回して、
「でも、いま、ここで、てわけにはいかない。移動しましょう。話はそれからでもできる」
「どこ行くんだ?」
「屋根のあるところ」
そう言ってスタスタ行ってしまうので、アデリナは立ち上がるしかなかった。
深い森を抜けると、冠の都から見て西側の街道に出る。中央から琥珀港へと向かうこの大路は、〈ギルド大路〉と呼称されているが、それは文字通りギルドの商品が往来するからだった。街道のわきには、タケダカソウの原っぱも見える。もう枯れて横倒れになっているが、どこか懐かしさを感じさせる、牧歌の光景だった。
丘の上から、石を敷いた街道を見下ろすのは、〈暗森〉に入る直前以来だ。
だが、あのころ隣りにいた人物は、どこか遠くにいる。
代わりにいるのは自分と敵対した《魔女》だ。
皮肉だな、と思う。運命のいたずらは自分にも他人にも読めない。魔法の心得があるなら、別かもしれないが……
「ここからしばらく歩くわ。ついてきて」
「えッ、街道を行くのか?」
「どうせこんな時間だし、城門も閉まる頃合いだから、頭巾かぶってればそんなに気にされないわよ」
苦笑するヴェラステラ。そのまま外套の頭巾を被る。
だがアデリナには、そんなものはない。
「いいから、さっさと行くわよ」
丘を下り、そそくさと街道をゆく。すでに禍々しいほどの真っ赤な夕日が垂れていて、行き交う人々はまばらだ。じっさい、冬は旅をするにも向いてない時分でもあった。西方はあまり雪の降らない温暖な地域ではあったが、それでも寒さと魔獣の前に、交通量は減る。
ぽつり、ぽつりと駆け足になる旅人や、隊商にけげんな目で見られながらも、彼女たちは進む。途中怪しげな男たちに絡まれたり、親切そうな行商人に案内を申し出られたりしたが、ヴェラステラは丁重に断った。自衛手段として刃を見せることはなくはなかったが、アデリナから見て、じつにあっけないほど普通の振舞いに見えた。
「……なによ」と、ヴェラステラ。
「いや、なんつうか、思ったよりも普通だな、て」
「なにが?」
「アタシと会うときは、いつも殺伐としてるから」
「……次言ったらただじゃ置かないわよ」
やがてふたりは、日没ギリギリにギルド宿場に入ることに成功した。どういうわけか、彼女はギルドに顔が利くらしい。特にもめることなく柵の内側に通してもらえた。しかも馬小屋などではない、立派なしつらえの旅籠の一室に入ることまで許された。聖王国の国家官僚でもない限り、これは破格の待遇と言わざるを得ない。
その後わざわざ部屋まで温かいスープと固いライス麦のパンを持ってきてもらった。スープはぬるく、パンには雑味が多くて素朴な味であったが、それでもおいしくいただいた。むしろこのような待遇に驚いてばかりで、ろくに味など気にしていられなかったというのが正しいかもしれない。
食べ終わると、ヴェラステラが口を開いた。
「そういえば、あわただしかったから、本題をすっかりうっちゃっていたわね。ようやく屋根の下だし、少しぐらいは答えてやってもいいわよ?」
アデリナはむしろ戸惑った。
そこで、あえてこう言ってみた。
「なあ、なんであんたは《魔女》なんかやっているんだ? いや、そういうわけじゃないんだけど……」見る見るうちに表情が消えるヴェラステラを見て、アデリナは取り繕った。「じゃなくて、あんなに普通に溶け込めるなら、どうして《魔女》なんかいちいち名乗って、戦う必要があるんだっていうか……」
アデリナは言ってから、ばつが悪そうに口をふさいだ。ここで自分たちが《魔女》のちからを持つことは公言するべきではなかった。
ヴェラステラはため息を吐いた。
「別にいいわよ。ここにいるひとたち、みんなわたしの知り合いだし」
「え」
「まあ、それもこれも、今夜じゅうには語りつくせない内容だわ。気になるのはわかるけど、もう少しガマンしてね」
「ええ……」
「んー、じゃあ、わかりやすいことから教えてあげる。わたしは……いや、わたしたちは、〈イドラの魔女〉とは別の結社──衆だったの。それからいろいろあって、〈イドラの魔女〉と手を結び、わたしはめでたく〈氷月の乙女〉になったってわけ」
「その結社っていうのは……ひょっとして、蕃国と関係あるのか?」
ヴェラステラは眉をひそめる。
「あんた妙なところ鋭いのね。間抜けのくせに」
「うっせ」
立ち上がりかけたアデリナを鼻で笑い、つづける。
「まあ、そうよ。ついでに言うと、わたしはそこの斎王──平たく言うと、神官の長? だったわけだけど」
「はあ?」
「あんたいちいち反応がしゃくに障るわね……」
それから、彼女は要点をかいつまんで、話を進めた。ヴェラステラは、聖王国から見て南東に位置する「蕃国」──正式名称を「火羅蕃国」というらしい。アデリナはただ聖王国側から見た呼び名しか知らなかったのだ──の生まれで、そこの戦乱と政変によって没落したらしい。
聖王国に逃げ込んだヴェラステラ一同は、その後離散しながらも党をなし、やがてギルドや魔女結社に居場所を見出したのだ、と。
「もともと獣人の血を引くと言われる蕃国の民族は、その血ゆえに忌み嫌われる。数百年前の〈大統一戦争〉や、〈魔女戦争〉のときだって、獣人の血統は魔物扱いで抹殺対象だったわ。でも、ごく一部の純血種を除いて、化身の能力は残っちゃいない。だから濡れ衣にもほどがあった。この国でわたしたちは、初めから《魔女》としてしか、生きることを許されなかった……」
ヴェラステラは静かに語った。
けれども怒りに充ち満ちた静けさだった。
「そうか……ごめん。そんなこと、ちっとも知らなかった」
「知らなかった? ええ、そうでしょうとも。騎士学校は自分たちにとって都合のいい歴史しか教えないし、それ以外では教導会の説教だけよ。知る機会なんてあるわけないじゃない。
いい? 国家ってのはそういうものよ。従うものには優しく、歯向かうものは徹底的に叩き潰す。辺境の村にいたあなたですら、わたしたちの祖国のことは遠い歴史の名残りか、山の向こうの他所事にしか感じない。この世界のゆがみは、そういうところにあるのよ……」
ヴェラステラは、そこまで言うと、椅子の背もたれに寄りかかり、天井を仰いだ。しかしそれもつかの間、すぐにからだを起こすと、真摯な面持ちで、言った。
「寝なさい。明日は朝から面白いものを見せてあげるわ」
ろうそく明かりに照らされる彼女の横顔は、ぞっとするほど生き生きとしていたのだった。