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第2版  作者: 八雲 辰毘古
イドラの魔女篇
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3-14.記憶のいばら(4)

 悲鳴が上がるよりも早く、影は動いた。

 まるで大きな日陰にすっぽりと包まれるかのように、業魔はあっけなくニースを取り込んだのだ。


「ニース!」


 そう叫んだのは誰だったのか。

 影はますます大きく膨らみ始める。まるで突然湧水の源が掘り当てられたかのように。また、表面に張り付いた水滴のように、どこまでも盛り上がってゆく。


「いったいなんだ」とシュヴィリエールは言う。「あの量の業魔は、いったいどこから来た?」

「いや、ちがう」とアデリナ。「あれは()()んじゃない。もともとここに()()()モノだ」

「どういうことだ……」

「あら、説明しないとわからないの?」


 と、突然割って入った声があった。

 振り向けば、ヴェラステラがいた。

 レアンドルは、いつの間にいた《魔女》を見るなり攻撃しようとした。しかし無駄だった。すかさず彼女は煉鋼(れんこう)の刃でレアンドルの首元に切っ先を向けたのだ。


「おあいにくサマ。あんたみたいなオトコには反吐が出るほどお付き合いしてきたから、考えていることなんてお見通しよ」

「くそっ……」レアンドルは冷や汗が伝うのを感じる。

「できればその矜持(プライド)に充ち満ちたハナをへし折ってやりたいけど、いまは優先順位がちがうの。あんたを傷つける手間も惜しいわ。残念だったわね?」

「ヴェラ! なにしに来た!」


 アデリナが叫ぶと、ヴェラステラは嬉しそうに笑った。ただし、ぞっとするような凄みのある笑い方で。


「あら、思い出したのね、リナ。ひどいわ。せっかくフェール伯からの頂き物を、お粗末にしてくれちゃって……」と、言いかけて、彼女は首を振った。「まあいいわ。説教は後回し。思ったよりも事態はひどくなっているから、連携おねがい」

「は?」

「返事は!」

「は、はい!」


 そういうと、ヴェラステラは、緑と青の星石(ステライト)を取り出して、投げナイフの要領で投げつけた。風と水の属性がまじりあう。途端、巨大な霜柱が現れて、業魔の塊の根元が凍り付いた。

 そしてすかさず煉鋼の刃を振りかざして、間合いを詰めた。心臓を一突きする要領で、業魔の塊を粉砕する。


「その子をこの屋敷から遠ざけて!」


 アデリナたちは、なにがなんだかわからないまま、言われたとおりにした。

 大男のビランがニースを背負う。そしてヴェラステラに背中を預けて、逃げようとする。

 だが、アデリナだけは振り返って、言った。


「ヴェラ! カテリナさんたちを!」


 だが、言い切る前に呆然とした。

 ヴェラステラの向かい側には、カテリナとオルグが立っていたのである。

 そのひとみは、紅い。全身から放たれる気も、もうただならぬ様子である。


「どうやら遅かったみたいね……」とヴェラステラは苦く言い放つ。「そこのふたり、もうダメよ。業魔に呑まれたわ」


 そう言うと、ヴェラステラは、煉鋼の刃を構えなおした。


「永劫に囚われた澱みは、冥府(よみ)に返さなきゃいけない。それがわたしたちの務め」


 だが、ヴェラステラが〈針〉の構えから、飛び出そうとしたその瞬間であった。

 オルグが突然、毛皮を取り出し、身にまとった。それはからだにまとわりついた途端に皮膚(ひふ)に結びつき、緻密(ちみつ)繊維(せんい)を放出しながらけものの姿に塗り替えて行く。

 ヴェラステラの表情が、凍り付いた。


「まさか……獣人族の生き残りに遭うなんてね……」


 それは、熊であった。しかし、理性が崩壊したような凶暴なひとみと、人間の二倍もある猛々しい背丈が、尋常のけものとは一線を画していることを直感させる。

 まさしく、魔獣そのものだった。


魔熊(まゆう):ビョルニル……」シュヴィリエールは無意識につぶやいていた。


 その爪は鋭利なナイフよりも鋭くて強靭(きょうじん)、その体躯は大男でも太刀打ちできず、その牙はあらゆる頭蓋(ずがい)をかみ砕く。()えた熊よりも人間そのものへの憎しみが強く、ひとの恐怖をあおって殺す残虐な性質を持つ……と、魔獣の生態を教わる際に聞いていた。

 おそらく、目の前のものは、ちがうだろう。

 しかしそれに近い脅威であるはずだ。


「これは、しょうじきやばいわよ」とヴェラステラ。

「どうするんだ」とアデリナが問う。

「ムリね。わたしだって本調子じゃないし、あんな奴の一撃、食らうだけで即死モノよ。生きてるだけで感謝しなさいって感じ」

「無責任な。《魔女》のくせに魔獣一匹すら制御できないのか」と、レアンドル。


 ヴェラステラは苛立たしげに振り向いた。


「ひとつだけ、いいかしら。そんな言説、どこのどいつが言い出したの?」

「さあな。そいつはおれの専門外だ」

「なら口を慎みなさい。いい加減にしないとその首()ねるわよ」


 これにはレアンドルも黙らざるを得なかった。


「まあ、たしかにできなくはないけどね。でも、それは野生動物にエサをやって誘導する程度のこと。それはコツさえ憶えれば誰だってできる……」と、言って、なにか言いかけたアデリナを制する。「んで、魔獣がなにをエサにするかって、そりゃ業魔しかないワケ。人間の執念や感情、衝動。それを使いこなせる魔法を体得してしまったのが、わたしたち《魔女》。わかりやすい原理でしょう?」


 つまり彼女はこう言っていた。

 逃げるしかない、と。


「じゃあどうすればいいんだよ!」とアデリナ。

「あら、簡単よ」と、ヴェラステラは、細長いガラスの管を取り出した。その中には仕切りがあって、赤い粉末と、青い粉末が分けられている。「これを使うの」

「なんだそれ」

「こないだあなたの顔にやけどを作ったモノよ」

「げっ」

「これで目くらましして、ひっかきまわして、おさらばといこうじゃない」


 そう言ってヴェラステラは、ガラス管を投げつけた。


 割れた管から熱と水の属性がぶつかり合い、激しい蒸気に変化する。冬の気温に応じて爆発的に広がった熱気は、白い煙幕となって、あたり一面の視界を奪う。

 そのあいだに彼らは駆けだした。

 庭園から門までの距離は、ビラン、レアンドル、シュヴィリエールにとってはラクな道筋であった。しかし、殿(しんがり)を務めたヴェラステラは、その直前のアデリナとともに、魔熊の俊敏さの餌食になった。巨体に見合わず、それはヴェラステラとアデリナのふたりをはるかに上回る速度で回り込んだのだ。

 ふと、ヴェラステラは気配を察して、爪の一振りを煉鋼の刃で防いだ。がきん、という痛ましい音が鳴る。かろうじて刃は耐えたが、反動で手がしびれてしまう。


 風が強く吹く。

 薄れつつある蒸気の霧の中、熊の影が見えた。

 分断されていたのだった。


「うわ、マジでないわー」


 ヴェラステラは刻印の入ったほおを引きつらせると、ふところからまだ余っている星石(ステライト)を取り出す。おそるおそる相手方をうかがうと、その赤いまなこは、アデリナを向いていた。


「あんたさ、なんか恨みでも買う体質なの?」

「いや……そのつもりじゃなかったんだけど」

「気を付けたほうがいいわよ。あいつ、あんたを狙っている」


 ホントは使いたくなかったんだけど……と言って、彼女は、赤と緑の星石(ステライト)を取り出した。人差し指から薬指のあいだに挟まったその貴石たちは、わずかな緊張ののち、投げられる。

 そのときさまざまなことが同時に起こった。

 魔熊と化したオルグが猛突進を開始し、

 シュヴィリエールがレアンドルから取り返した細剣で、その背中を追いかけ、

 ヴェラステラが星石を投げつけた。


 途端、炎の壁が現出した。


 まるで空気そのものが発火したかのように、魔獣の全身が燃え盛る。苦しみと憎しみの唸り声が上がり、火の塊は暴走する。シュヴィリエールはとっさにこれを避けたが、火炎はあちこちに飛び火し、庭園、屋敷を少しずつ火の舌でなめ始めたのだった。

 たちまち、大火事になった。魔獣は鼻をつまみたくなるような醜悪な臭いを振りまきながら、カテリナを連れて逃げ出した。あとを追うアデリナ。それを止めようとして、ヴェラステラとシュヴィリエールが駆けだす。


 しかし、シュヴィリエールは、レアンドルに引き留められた。


「ニースはどうする」


 その問いに、彼女は留まらざるを得なかった。

 いますぐにでも施術師に診てもらわなければならない。


 ぐっとこぶしを握り締めた。魔獣の暴走やヴェラステラの介入がなくても、いずれはそうなったかもしれない。しかし、さよならもないまま別れるのも後味の悪い話だった。


「……元気で、な」


 そう、誰にも聞かれないようにつぶやくと、シュヴィリエールは王都への道を急いだ。近隣から声が集まる。事情を知ったクナート家の御者が、ひとを呼んだらしかった。

 そしてこの火事は、《魔女》への恐怖をより一層高めるきっかけになったのだった。

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