3ー12.記憶のいばら(2)
そのあまりの変貌ぶりに、ふたりは絶句していた。だが、つかの間であった。アデリナはこちらに気がつくと、紅く変わったひとみを睨むように向けた。
「シュヴィリエール……わかったんだ……わかったんだよ……」
泪ながらに話しかけるその様子に、シュヴィリエールのみならず、レアンドルまでゾッとした。後退らなかっただけでも良かったかもしれない。
アデリナは、彼らのその反応を見て、自分と彼らのあいだに決定的な亀裂が生まれたことに気がついた。
──あのときと、同じだ。
思い出された記憶。それは生々しいほど我が身に再現されていた。
あのとき、〈暗森〉の深奥で、ルートが花開かせた力を振るったとき──アデリナは記憶を失った。しかしそれは対価であり、代償であったのだ。想念をかたちにする力、届かないねがいを実現する奇跡にすがるとき、魔法使いは誰かの《記憶》から少しずつ掻き消えてゆく……理解されず、したがって称賛も名誉もなく、ただ畏怖の目で見られ、揉み消されてしまうのだ。
ゆえに魔法使いは孤独だった。
魔法に触れたものの末路は、歴史の異端として切り捨てられるだけだった。
その全てを知っていて、ルートは《魔女》になったのだ。甦った記憶をもとに、アデリナはそう結論づけた。彼が《魔女》の側に走ったことはきちんと憶えている。でも、ルートは《魔女》として何をするつもりなのだろう?
確かめたい、と思った。ならば進まなければならない。この二ヶ月で作った思い出をすべてなかったことにして。
泪を拭いた。チュニックの袖が汚れるが、気にしない。鮮やかな色の、上品な衣服はもう必要なかった。
アデリナは念じて、業魔の奔流を止めた。黒々とした氾濫が次第に低くなる。そして溢れたインクのような染みがあたり一面に残された。
その多くが黒ずんでいた。この二ヶ月間で築き上げられた思い出のすべてが、業魔の汚泥の中に沈んでしまったのだ。だが、それらは偽りとは言わないまでも、夢のようなものだった。夢のように美しく、ゆえに覚めた途端になにもかもが虚しくなるような……
「お別れだ、シュヴィリエール」と、アデリナは勇気を出して言った。「アタシは《魔女》の血を引いている。これ以上ここにはいられない」
シュヴィリエールは下唇を噛んだ。隣でレアンドルがけげんな表情をしていたが、あえて無視した。
「……なんとなく、わかっていたさ。〈姫御子〉に、〈氷月の乙女〉……これほどの使い手たちに略称で呼ばれるような人間が、《魔女》の関係者でないわけがない、と。だが、だからといってここを去ることはないじゃないか。魔女の騎士団だっている。マースハイム卿はきみをあらためて歓迎してくれるはずだぞ」
アデリナは首を振った。絶望的な憂いを帯びた紅いひとみが、こちらを見据える。
「ダメだ。アタシは……アタシはそれ以上にここにいてはいけない人間なんだよ。特に、シュヴィリエール、お前のそばには」
「どういうことだ」
「お前の父さんを殺したのは、アタシの父さんだからだ」
シュヴィリエールは息を呑んだ。それから慄えた声でつづける。
「まさか……お前が、メリッサ村の……」
アデリナはうなずいた。
「アタシの名前はアデリナ・シュステイム。女王家から離反し、《魔女》と結ばれた聖刻騎士の──そして、追手となった聖刻騎士:クナリエールを殺した裏切りの騎士ラストフの、その娘だよ。
あんたの家の不名誉は、アタシの親が招いたことなんだ」
つかの間の沈黙。シュヴィリエールは予期せぬ真実に混乱していた。
ぎりり、と食いしばった下唇が、噛み切れそうだ。
だが、間もなくすらりと引き抜かれた細剣が、視界の端に入ってきた。
「まあ、そこまで言うならわかっていたと思うけど」と、言ったのはレアンドルだ。「きみが《魔女》である以上は、そしてシュヴィリエールの友情をそこまで踏みにじるつもりなら、おれは騎士として、全力で貴様を打ち倒すことになる。いいのか?」
「レアンドル……よせッ! アデリィはただ記憶が戻った衝撃が抜けきっていないだけ……」
「同情でもしたか?」
冷酷な響きに、シュヴィリエールは血の気が引いた。
レアンドルの青いひとみは、ガラス細工のようになにひとつ感情を映していなかった。
「《魔女》に魅せられ、堕落する人間は歴史上多くいた。その多くは我欲や欲情に身を任せた不埒な男だったと言われているが、決して女が《魔女》のとりこにならなかったわけではない。むしろ女に対してこそ、《魔女》はさまざまな手練手管を用いる。例えば、憐憫、同情、共感……あるいは友情のかたちを以て、な」
「ちがう! アデリィはそんな狡猾な人間じゃない!」
「たしかに。こいつはそこまで器用なヤツではない。むしろ恐ろしく愚直だ。だが、だからこそだ。こいつはあまりにも真っすぐすぎる。その魂は輝いて見えるが、おれたちの生きている世界とは無縁の存在なんだよ。
夢でも見たか、シュヴィリエール? 自由と闊達の精神に心をむしばまれたか? それとも、おれたちの生きている王侯貴族の社会は、血統の記憶に縛られているという事実を忘れたか?
おれたちは戦わなければならないんだ。おのれの歴史を、魔術の源を、そしてそうした遺産を継承するために血道をあげた多くの先祖の精神のためにもな!」
そしてレアンドルは容赦なく刃を振り下ろした。
アデリナはそれを直感で避ける。身を逸らせ、半歩動いて。
逃げた先に、手首の返しで切り返すが、彼女はこれを業魔の塊で受け止めた。
細剣は時間を置いてこれを切り裂くが、その間に逃げられる。
シュヴィリエールは耐えきれなくなって、叫んだ。
「やめろ! やめてくれ! どうしてだ、どうして争わないといけないんだ!」
「くどいぞ! あいつが《魔女》で、おれたちは騎士だ、それ以上の理由が要るのか!」
シュヴィリエールの悲鳴に、アデリナは良心が痛んだ。
彼女は叫んでいるのだ。この二ヶ月の思い出は決して嘘ではない、と。
もちろんそれはアデリナにとっても同じだった。
だが、その想いに甘えてはならないと思った。
この二ヶ月間よりももっと根深くて、混沌としたしがらみが、ある限り……たとえどんなに居心地が良くても、いつかは覚めなければならないうたかたの夢のようなものでしかなかったのだ。
「シュヴィリエール、レアンドルの言う通りだ。アタシは自分の道を行くために、あんたたちと戦うことも、ためらったりはしない」
「……だとさ。さて、アスケイロン家のお嬢様は、それでも戦いたくないっていうのかな?」
皮肉っぽく笑うレアンドル。
だが、シュヴィリエールは血のにじんだ唇を手の甲で拭うと、さっそうとレアンドルから細剣を奪い取った。
「返せ」と感情を押し殺したひと言。
あっけに取られるレアンドルとアデリナの前で、シュヴィリエールは、自身の得物を改める。そして自分の手にしっくり馴染むのを確認してから、ひゅん、ひゅん、と空を切って、構えを取る。突き込むような基本型──〈針〉の構えだ。
「戦うことも辞さない、と言ったな?」と怒りに震えた声が言う。「その言葉、絶対に後悔させてやる」
おぞましいほどの覇気があった。
アデリナはぴりぴり迸る緊張を感じ取って、思わず武者震いをした。
「いいさ、なかったことにできないなら……ここでけじめをつけよう」
「アデリナ・シュステイム! われシュヴィリエール・アスケイロンはなんじの忌まわしき血統とその友情に賭けて、全力を注いできみを打ち倒す!」
「……来い」
じり、じり、と間合いが狭まる。
レアンドルはそこに普通ではない予感を察して、部屋から離れようとした。
だが、遅かった。
戦いは始まってしまったのだった。