3ー11.記憶のいばら(1)
「主人、今度はシュヴィリエール殿が……」
オルグの困惑顔に、カテリナは、今度こそ自分が出ていく必要性を感じていた。
錯乱寸前のアデリナをオルグに任せ、彼女は門の方まで歩く。さほど広くない、手入れもされてない庭園を横切ると、灰色の髪の少年に加えて、鳶色の髪の少年と、金髪と亜麻色の髪の少女が増えているのを認めた。
「クナート家に、アスケイロン家、オルディナ家、そしてフェストルド北方辺境伯の娘御さんですか……そうそうたる顔ぶれですが、いったい何事ですか」
問いかけの鋭さに一瞬金髪の少女が戸惑ったが、真摯な表情をかたどると、前に出た。
「セイシェル伯、アデリィの容態について、確かめたいことがあるんだ。ぜひ会わせてくれないだろうか」
カテリナは黙ってシュヴィリエールを見た。アデリナの友人であり、かつ、後援に当たっているアスケイロン家の嗣子であるゆえに信頼には値したが、応答には困った。
「施術師でもないのに、何か心当たりがある、と?」
「はい。茨の文字、といえば、伝わりますでしょうか」
これにはカテリナは驚いた。
近々導きの塔に遣いをやって、教導会の導師たちに調べてもらおうかと思った矢先のことである。
目を見開いたカテリナを見て、シュヴィリエールは確信を強くした。
さらに一歩、前に出る。
その翠のひとみには、信念の強い輝きが湛えられていた。
「どうか、彼女に会わせてください」
こうなってはカテリナも追い返すようなことはできなかった。
仕方なく、一行を屋敷に招く。一階にある粗末なしつらいの客室に彼らを待たせると、いったん了承を得るために、アデリナの部屋へと上がった。
* * *
アデリナは部屋に充満するインクの匂いの中で、いまだに茨文字と格闘していた。外側からではなく、自分の内側から溢れてくるさまざまな想念を、どうにかして綴ろうとする。しかし、そのほとんどが茨に覆われて、隠されてしまっているのだ。
これはひょっとすると、自分の失われた記憶に繋がっている──その確信が、彼女をより真剣に茨文字へと熱中させた。
(すると、不思議なことに、ガラスの破片か、羊皮紙の切れ端のようなイメージが、アデリナの脳裏を横切る。まるで嵐の中を飛び交う木の葉、強風に吹き荒れる砂の影のように……)
『リナに「魔法」は向いてないんだよ』
遠い記憶の中から、言葉が聞こえた。鈴のなるような、どこか懐かしい声がする。黒い髪の、美しい、アデリナですら嫉妬したくなるぐらいの。けれども顔は見えない。ただ、そうだと思い出せるだけだ……
『自分の想念をかたちにするのが下手くそなんだよ。思ったことをすぐ行動に移したり、口に出したりしちゃってサ』
(映像が蘇ってくる……そう、それは小鳥のさえずりが混じった森の、〈不入の森〉の縁だ。青々としたタケダカソウが風に揺れて、さざなみを立てている……傍らには青藍石のひとみに、黒い髪をした少年がいた。娘のように美しい、少年……)
『お母さんは言っていたよ──魔法は自分のよく知っている場所を想い起こしてこそ、使いこなせるんだって。魔術はその簡易版に過ぎないんだ。だから、ここならできる。ボクたちの秘密の場所。誰にも入られないし、邪魔されない、思い出の中につながる場所なら……』
アデリナは思わず茨文字に触れた。
その指先に棘が刺さって、血が流れ出す。
しかしそんなことは気にならない。
いまここで、手を伸ばさなければ、きっと後悔する。そう感じたのだった。
(少年は手を広げた……何かつぶやいているようだったが、アデリナは思い出せない。ただ、その時風向きが変わった。追い風が向かい風に変わり、緑のさざなみは翻って嵐の海のような激しさで乱れ始める……)
この茨文字には秘密がある。
その直感は恐怖に繋がった。それでもアデリナは前に進むことを選んだ。
(……〈不入の森〉は揺れていた。あたかも恐れおののくように、風に震えていた。その中に覇者のように君臨する少年。両手を上げて、天から授かり物を得るかのように、遠い、彼方を見つめて……)
──ダメだ! その力を使っちゃいけない!
アデリナは堪えきれずに目をそらした。しかし、もう遅かった。茨の封印を解かれた《記憶》は、猛然と羊皮紙から溢れ出し、洪水のように部屋中を満たしていったのだ。
そんな中に、カテリナはやってきていたのである。
彼女が最初に聞いたのは、アデリナの悲鳴だった。少女らしくない、雄叫びのような大声。それはさして頑丈ではないセイシェル邸全体を共鳴させ、屋内にいた全てのものに異変を知らしめたのである。
カテリナはとっさに部屋のドアを開けた。
だがそれがまちがいだった。
意味を持った得体の知れない氾濫が、堰を切ったように飛び出た。膝下まで浸っていた濁流に、カテリナは足をすくわれる。悲鳴は一瞬だった。
そのまま押し流されそうなときに、シュヴィリエールとニース、レアンドルとビランが階段を登り始めていた。
「──業魔?!」
シュヴィリエールは目を瞠る。だが、とっさに〈盾〉の魔術を発動するだけの機転はあった。
〈盾〉は半球状になってシュヴィリエールたちを取り囲む。業魔の流れは滝のように落ちてきて、水しぶきを散らすようにセイシェル邸を穢していった。
「おい、どういうことだ」とレアンドルは手元に得物がないことを呪いながら、問いかけた。「この屋敷は黒魔術の実験場だったのかよ」
「いいや」とシュヴィリエール。「考えたくないが、これは、アデリィだ」
「アデリィ?」とニース。
シュヴィリエールは頷いた。
「……まさか」とビランが糸目を寄せて、言った。「彼女は《魔女》なのか?」
「確証はない! 根拠のない憶測でものを語るな!」
シュヴィリエールはそのまま腰から細剣を引き抜くと、その剣身に刻まれた魔力を解放し、思い切り業魔の流れに叩きつけた。ふたつの力がぶつかり合い、爆ぜるように放散した。
それでもつかの間の間隙しか見出せない。シュヴィリエールたちは〈盾〉を掲げながら前進したが、二、三段進んだところで、ふたたび業魔にせき止められる。
「埒があかない!」
ニースが悲鳴をあげる。だが、彼女の籠手では、業魔に直接触れてしまうためにどうしようもなかった。代わりにシュヴィリエールを補佐する魔術を何か考えるが、彼女もまた、魔術が不得手な人間だった。
そのとき、レアンドルが動いた。
「シュヴィリエール、剣を貸せ!」
「レアンドル、貴様何を」
「いいから貸せと言っている。女だてらに意地を張っていると、ここで全員無駄死にするぞ」
「くっ、わかった」
右手で術を支え、左手でかろうじて剣を渡す。さっきの芸当が良くできたものだと思いながら、レアンドルはシュヴィリエールの背後に立つ。
「おれが合図を送ったら、退がれ。さっきと同じ要領で、この流れを叩き斬る……あとはその繰り返しだ。いいな?」
シュヴィリエールは頷いた。
レアンドルはそのまま振り返る。
「フェストルド嬢とビランはそこの召使いを連れて屋敷を出ろ。全員でこんな狭い階段を占拠する必要はない」
「了解した」
「あーん、わかったわよ。ほんと今日は災難つづき」
ニースとビランが腰を抜かしたオルグを連れて出てゆくのを見届けてから、レアンドルは気合を発した。
そのままシュヴィリエールが入れ替わり、細剣が振り下ろされる。空を切る音が、業魔を振り払ってゆくが、あとから降ってくるのをシュヴィリエールが〈盾〉で防いだ。こうして入れ替わり立ち替わりしてゆくうちに、ふたりは階上にたどり着いた。
「アデリィ! アデリィ!」
廊下に流れ出る業魔は、ついに腰の高さまで迫っていた。シュヴィリエールは〈盾〉の展開をレアンドルとふたりを包むように変化させたが、すでに彼女の想念を操る能力は、疲れ果てていた。
レアンドルはそれでも、シュヴィリエールに代わって業魔の中に道を切り開いていた。少しずつ、少しずつ歩を進め、その流れの源になっている部屋へと急ぐ。だが、そこに近づいたとき、彼らは思わぬ言葉を聞いた。
「どうすればいい……アタシは……どうすればいいんだよ……母さん」
それはアデリナの声だった。
しかし様子がおかしい。
「アデリ……」
「やめろ。へんに刺激するのは下策だ」
シュヴィリエールは振り返った。しかし、レアンドルの切れ長の青い目は、用心深く声の方向を見据えている。
やがて見えてきたのは、紅く変化したひとみで泪を流す、アデリナの立ち姿だった。




