3ー9.茨文字ふたたび
「以上で〝星典〟の試練を終わりとする」
導師の言葉で、騎士学校の生徒たちは堰を切ったように騒然となる。
劇場のようにすり鉢状になった半円型の教室には、上級と中級の齢の少年少女が詰め込まれている。まるで書庫に詰め込まれた本のように、序列をつけて、見渡して。
「──静粛に」
そう一喝すると、導師はおごそかに今季の文法学の総評と反省を述べ挙げる。『神聖叙事詩』の内容を吟味し、解釈する文法学は、神聖体系の魔術を駆使する上でも重要な科目のひとつであった。
しかしシュヴィリエールの耳には素通りするばかりだった。
あれから一週間が経っていた。
状況はまたしても変化している。
王都に《魔女》が──それも、五姉妹のひとり〈氷月の乙女〉が潜入していたという報は、シュヴィリエールが奏上するよりも早くから巷でうわさになっていた。
おそらく月影騎士団の報告から、〈星室庁〉が判断を下したのだろう。
しかしだからと言って、何か特別な変化があったわけではない。せいぜい王府の警備がより厳重に、市中を歩く騎士が増えたというだけの話だ。もちろんそれで見つかれば良いものの、そうはいかないとの公算も大きい。良くても臣民に付け焼き刃の安心感を与える程度だった。
とはいえ、うわさは嘘言を生み、嘘言はやがて熱病のようにひとの心を譫言へと走らせる。
隣人が、行き交う人が、あるいは友人が、ひょっとすると《魔女》の一派ではないかとする疑念は広がりつつあるのだ。
まだ告発は出ていない。
しかしそうした事態が起きてもおかしくはないと言えた。
今ごろ月影騎士団は〈神殿〉の領域を広げて王都を飛び回っているのかもしれない。だが、シュヴィリエールには興味の薄いことだった。
むしろ大事だったのは──
「……ェール、シュヴィリエールくん!」
「え、あ、はい!」
見れば、導師がこちらを向いている。
若いが優しげな、黒いひとみだ。
ふと見渡せば、わらわらと生徒たちが退出している。どうやら、放心状態で席を立たなかったことが、導師の関心を惹いたらしい。
「大丈夫かね。気分が優れないように見えたが……」
「いえ、治癒は効いております。肩は動きますゆえ、ご心配なく」
「それもあるが、そうではない。わたしはきみの精神に付けられた傷のことを言っているのだ。魔法の技術は自然物理に働きかけることはできても、ひとの精神を自由にすることはできないからね」
「はぁ……とは言っても、まだ整理が付いていないのです……」
シュヴィリエールは俯いた。
導師は頷いた。
「いちおう、きみの周囲のことは聞いている。友人のことは気の毒としか言いようがない。しかし、だからこそだ。負い目を感じることはないだろう?」
「ですが、いけません。わたしが力不足なために、アデリィも、あんなことに……!」
──彼女は思い返す。あの晩のことを。
茨文字を綴った写本を手にしたアデリナは、そのまま頁をめくっていた。まるで腕が機械仕掛けの自動人形にでもなったようだった。彼女は火傷を負って半開きになった目で、それでも本を読もうとしていたのだ。
シュヴィリエールは、すでにこのとき、アデリナ何かの魔術に囚われていたのだと考えている。今にして思えば、《魔女》の持ち物であるのだから、何が何でも払いのけて然るべきだったのだろう。
だが、遅かった。
『痛っ!』
アデリナが突然、そう言ったかと思うと、くらりと意識を失った。見れば、彼女の指には茨で刺したかのような傷があり、血はそのまま写本に吸い込まれていたのだ。
そこにニースがやって来た。ふたりはどうしようもなく、アデリナを運び、騎士学校に戻ったのだった。
その後もまた慌ただしかった。
まず衛兵に叱られ、導師に説教を受け、教師担当の騎士にはげんこつを喰らった。その上で施術師が呼ばれ、意識を失ったアデリナの治癒に当たったのだ。
ところが、施術師たちは、アデリナには何の異変もないという診断を下した。
『〈探知〉の魔術がそのようにしか出てこないのです』と、施術師の筆頭格らしき男は言う。『いずれ目を覚まします。だからそう心配しないで』
果たして診断は正しかった。
だが、まちがってもいた。
アデリナはたしかに目覚めた。しかし放心状態が続き、無気力なままだったのだ。
ふたたび施術師が呼ばれたが、何もわからなかった。いかなる治癒も効果を為さず、いかなる探知にも引っかからない。強いて言うなら、〝奇妙な夢を見るようになった〟だけのことなのだ。だがその夢も、目覚めると忘却の陰に隠されてしまっている。
施術師たちはさじを投げた。
アデリナは心身ともに健康ではあった。しかしいまひとつ勉学にも教練にも身が入らないので、王都にあるセイシェル邸で引き取ることになったのだった。
『ごめん……』
馬車から振り返るアデリナの顔を、シュヴィリエールは忘れられない。
申し訳なさそうにしていたその表情は、しかしここではないどこかへと引き寄せられていた。シュヴィリエールは、そこに茨文字の恐ろしい魔術の真髄があるように、思えてならなかった。
今更ながら、悔しいと思う。
みずからからだを張って守り抜いたはずのものが、何ひとつ守れていないことを。
誇りを賭けて戦ったはずが、結局何ももたらすことなく、かえって悪い結果をもたらしていることを。
両のこぶしを握りしめる。
──まだだ、まだ足りない。こんなことでは亡き父上に顔向けができない……!!
と、そこに導師の手が肩に置かれる。
「そんなに自分を責めるんじゃない。彼女に掛けられた呪いについては、われわれにもわからないことだらけなんだ。きみが知らないのも無理はない、ちがうか?」
「いいえ。あれは、まちがいなく《魔女》のものです。わたしは憶えています。あの茨のように刺々しくのたくった書体を、秘密を覆い隠すために生い茂った蔓の数々を」
「とは言っても、もうその文字は消えてしまったんだ。きみも知っているだろう?」
「だからこそです! あのときあの文字を見たのは、アデリィを除いて、わたしだけなんです!」
そしてなによりも事態をややこしくしているのは、元凶となった茨文字の写本だった。かの本はもちろん導師たちの手に渡り、何度も何度も検分された。しかし、結果は虚しいものだった。
というのも、茨文字が消えていたのだ。
シュヴィリエールはその事実に何度も反抗した。だがいかなる手段で以ても、文字があったという事実を証明することができなかったのだ。
復元魔術を用いて、なんとか形だけでも示そうとはした。けれどもシュヴィリエールの脳裏では、その文字についての記憶がぼんやりとしたものでしかなく、本質の先端にも触れられなかったのである。
本質を想起できなければ、投影すらままならない。したがって、彼女の証言は証拠不十分として、顧みられることがなかったのだ。
「──だから、わたしが忘れないうちに、手掛かりを見つけなければいけないんですよ……」
最後の声は弱々しかった。
導師はただ子を愛するように、優しく述べた。
「焦りは禁物です。均衡を想いなさい。天秤の均衡を。星々はすべてご覧になっている。だから、いまは落ち着くべきなのです」
だが、シュヴィリエールにはこの導師の言葉も白々しく聞こえた。
導師に従っておとなしく部屋を出ると、彼女は冷めた頭で廊下を歩んだ。放課後の生徒や教師が行き交う中を、そそくさと歩き、階段を降りて行く。
その足が向かうのは、書庫だ。
彼女はここ数日、ずっと書庫に入り浸っている。目的はもちろん、茨文字の研究だ。
だが、年間の魔法技術の開発や発見、研究を総覧できる『魔術年鑑』や、使用者を制限するべき呪文の名前だけを載せた『禁呪目録』などの大冊を渉猟しても、茨文字に類似したものは一切見つからなかった。
ならばと次に手をつけたのは、古今東西の神話や伝承の類いである。
ここ〈叙事詩圏〉において、教導会は『神聖叙事詩』およびその注釈書、詞華集以外の神話・伝承の著述を認めていないが、一方で、異教の伝承や民話、おとぎ話の類いは、説法の材料として大いに集められ、手を加えられていた。征服者たる女王国が、統べる民のほうに歩み寄った結果だった。
そのことを知らないシュヴィリエールではない。彼女は、聖王国の歴史に根深き英雄家の末裔であり、祖先アスケイロンもまた、あまたの伝説を重ね着した英霊でもあったからだった。その武勇は一般に流布しているものと、血族に秘伝されたものとで部分的な隔たりがあるのだ。
ゆえに、茨文字に相当する魔術の体系も、そうした歴史的変遷の中に埋もれてしまったのではないか、とシュヴィリエールは考えた。
神聖語でもなく、古代文字の筆記体でも、蕃国の言葉でもない。もちろん普遍語でもなく、北方の部族のものでも、内つ海の方言でも、ましてや西方の琥珀港より先──外つ海から来た言語でもない。
強いていうならば、雲霧山脈の向こう側、〈大葦原〉と呼ばれる東方の文字体系と似ていなくはない。しかし、文字の流れ方が違うために特定とはいかなかった。あちらは縦書きであり、茨文字は飽くまで横書きだ。ならば別系統だと判断せざるを得ない。
そうこうして三日も調べ物を続けている。
目を通した本も、通さずに背表紙だけ見やったものも、彼女はすべて憶えている。そして事あるごとに思い返し、反芻しながら、茨文字の検討を進めていた。
手掛かりらしい手掛かりを見つけたのは、そんな最中──三日目だった。
彼女が手にしていた写本は『魔女の系譜』──業魔学の権威である聖賢:アズライア・カーレルによって物された書だ。彼は百年前に勃発した〈魔女戦争〉の遠因にもなった聖職者で、《魔女》という異教の存在を歴史的に体系づけた大学者でもある。
「『……太古の記憶を受け継ぐさだめにあると言われている魔女は、その血によって能力を決定される。彼女たちは自身の胎内を〈神殿〉として扱い、力を子々孫々に継承させるのだ。
これは彼女たちが、血に生命の記憶が宿っていると信じているからだ。しかし翻していえば、血を継ぐことさえできれば、《魔女》の力を得ることができるということだ。《魔女》の結社はこの原理に基づいて、同志を増やすことに成功した。忌まわしいことだが、手首に刃を当てて、流れ出た血を呑ませるという行ないがそれだ。〈血の盟約〉と呼ばれたこの儀式は、擬似的な家族、兄弟姉妹な関係を構築する……』」
ここまでは、対・《魔女》教本にも頻出するごくごく当たり前の内容だ。その原典に当たったのは初めてのことだったが、しかしそれゆえにシュヴィリエールは次に述べられた重要な手掛かりを見失いそうになった。
「……ん? 『一説によると、いくつかの結社は自らの血を以て茨や記念樹を育てていたと言われている……これらは《魔女》の結社が象徴とした〈茨の城〉、〈宇宙樹〉などのモチーフであると同時に、同志を騙る異分子を排除するための使い魔の側面を持っていた……』
──血? 茨の、城?」
仔牛皮紙を捲る手を止める。彼女はいままで読んできた神話・伝承の拾遺集を思い返した。だが、〈茨の城〉の出典が思い出せない。
そこで、もしかすると、と思い、記憶を振り返る範囲を書物以外にも広げてみた。より深く、より鮮明な記憶の断片へ……魔術を使いこなすために体得した記憶術は、あまたに読み込んだ物語や言葉の数々を、巨大な御殿のように精神の内側に結晶させた。
それはさながら、心の中に築き上げられたひとつの〈神殿〉だった。
整然と方陣に、そして等間隔に展開する大理石の柱は、それぞれが自分の心の支えを具現化している。そのひとつひとつは無数の写本が詰め込まれた本棚になっており、隙間なく埋まることで、上方にわだかまる闇──業魔の重量に耐えているのだ。
中でもひとつ、抜きん出て太く高く伸びるのは、シュヴィリエールの家族の記憶だ。その書棚の柱は、いま亡き父:クナリエールや、その妻であり、自分の母親との黄金のように美しい幼年期が詰め込まれている。
彼女はそこに近づいて、ある一冊を手に取った。その写本には、金色の枠組みに、色彩豊かな生活の絵が描き込まれている。
それは少女がベッドの中に潜り、女がそれを叱る絵だった。まだ父を喪って間もないシュヴィリエールが、立ち直れずに部屋にこもっていたときの記憶だ。
『シュヴィリエール』と母親は言っていた。彼女はアスケイロン家に負けず劣らずの名家の出で、その類に違わず教養豊かな女性だった。『しっかりなさい。そんなことでは、天堂にいましますあのひとに、顔向けができませんよ。英雄家の血が嘆きましょう!』
『でも、でも!』と、幼いシュヴィリエールは喚いた。今にして思えば、よく泣き叫ぶ元気があったな、と苦々しく振り返る。
母は黙って制止させた。それから言った。
『悲しい気持ちはわたしも同じ。でも、いくら泣いても、魔術を用いても、死者は戻ってきません。神々はわたしたちにそれだけはいけないと強く戒められたのよ』
『そんな……神さまは卑怯だわ!』
『ああ星霊よ、いまの呪われた言葉を浄めてください。シュヴィリエール、いまの言葉は口が裂けても言ってはなりません。どうしてもというなら、あなたは騎士になりなさい。その手で剣を取り、茨の城へ挑む勇者になるのです!』
そうだった。この言葉は、シュヴィリエールが《魔女》を殺す騎士になるという決意のもとになったものだ。
おそらく母は、当時の式部卿──文官の長の娘である立場上、万巻の書に通じていたのだろう。しかし、いまここに歴史と記憶が結びつくとは、全く思いも寄らなかった。
茨の城、茨文字、血の記憶……
まだかの魔術の正体はつかめないが、重要な手がかりではある。シュヴィリエールはみずからの《記憶》の中に、そっとその言葉たちを仕舞い込んだ。あとはこうした言葉を見つけ出すために、必要な知恵について、考えを巡らせるだけだった。
ところが──
「シュヴィ、シュヴィ! あーん、よかったわ! よーやく見つかった!」
突然ニース・フェストルドが、背中から呼びかけた。シュヴィリエールは気まずい秘密を知られたかのようにびくりとして、振り返った。だが、ニースのこわばった表情は、それどころではないらしい。
「どうした、ニース?」と何気なく尋ねる。
「それが……ええと、とりあえずここを出て。行きながら話すから」
「待ってくれ。わたしも大切な調べ物をしてるんだ。ちゃんと言ってくれなきゃ、困る」
ニースはそこで、苦い顔をする。しばらく周囲を見て、ためらった挙句、ゆっくり小声で伝えた。
「レアンドルがセイシェル邸に見舞いに行ったのよ、あとはもう、わかるでしょ?」
ガタッとシュヴィリエールは立ち上がる。
その表情は豹変に近いほど、変わっていた。




