表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第2版  作者: 八雲 辰毘古
イドラの魔女篇
50/57

3ー9.茨文字ふたたび

「以上で〝星典〟の試練を終わりとする」


 導師の言葉で、騎士学校の生徒たちは(せき)を切ったように騒然となる。

 劇場のようにすり鉢状になった半円型の教室には、上級と中級の(よわい)の少年少女が詰め込まれている。まるで書庫に詰め込まれた本のように、序列をつけて、見渡して。


「──静粛(せいしゅく)に」


 そう一喝(いっかつ)すると、導師はおごそかに今季の文法学の総評と反省を述べ挙げる。『神聖叙事詩』の内容を吟味(ぎんみ)し、解釈する文法学は、神聖体系の魔術を駆使する上でも重要な科目のひとつであった。

 しかしシュヴィリエールの耳には素通りするばかりだった。


 あれから一週間が経っていた。


 状況はまたしても変化している。

 王都に《魔女》が──それも、五姉妹のひとり〈氷月(ひづき)の乙女〉が潜入していたという報は、シュヴィリエールが奏上するよりも早くから(ちまた)でうわさになっていた。

 おそらく月影騎士団の報告から、〈星室庁〉が判断を下したのだろう。

 しかしだからと言って、何か特別な変化があったわけではない。せいぜい王府の警備がより厳重に、市中を歩く騎士が増えたというだけの話だ。もちろんそれで見つかれば良いものの、そうはいかないとの公算も大きい。良くても臣民に付け焼き刃の安心感を与える程度だった。


 とはいえ、うわさは嘘言(そらごと)を生み、嘘言はやがて熱病のようにひとの心を譫言(うわごと)へと走らせる。

 隣人が、行き交う人が、あるいは友人が、ひょっとすると《魔女》の一派ではないかとする疑念は広がりつつあるのだ。

 まだ告発は出ていない。

 しかしそうした事態が起きてもおかしくはないと言えた。


 今ごろ月影騎士団は〈神殿〉の領域を広げて王都を飛び回っているのかもしれない。だが、シュヴィリエールには興味の薄いことだった。

 むしろ大事だったのは──


「……ェール、シュヴィリエールくん!」

「え、あ、はい!」


 見れば、導師がこちらを向いている。

 若いが優しげな、黒いひとみだ。

 ふと見渡せば、わらわらと生徒たちが退出している。どうやら、放心状態で席を立たなかったことが、導師の関心を惹いたらしい。


「大丈夫かね。気分が優れないように見えたが……」

「いえ、治癒は効いております。肩は動きますゆえ、ご心配なく」

「それもあるが、そうではない。わたしはきみの精神に付けられた傷のことを言っているのだ。魔法の技術は自然物理に働きかけることはできても、ひとの精神を自由にすることはできないからね」

「はぁ……とは言っても、まだ整理が付いていないのです……」


 シュヴィリエールは俯いた。

 導師は頷いた。


「いちおう、きみの周囲のことは聞いている。友人のことは気の毒としか言いようがない。しかし、だからこそだ。負い目を感じることはないだろう?」

「ですが、いけません。わたしが力不足なために、アデリィも、あんなことに……!」


 ──彼女は思い返す。あの晩のことを。


 茨文字を(つづ)った写本を手にしたアデリナは、そのまま(ページ)をめくっていた。まるで腕が機械仕掛けの自動人形にでもなったようだった。彼女は火傷を負って半開きになった目で、それでも本を読もうとしていたのだ。

 シュヴィリエールは、すでにこのとき、アデリナ何かの魔術に囚われていたのだと考えている。今にして思えば、《魔女》の持ち物であるのだから、何が何でも払いのけて然るべきだったのだろう。

 だが、遅かった。


『痛っ!』


 アデリナが突然、そう言ったかと思うと、くらりと意識を失った。見れば、彼女の指には茨で刺したかのような傷があり、血はそのまま写本に吸い込まれていたのだ。

 そこにニースがやって来た。ふたりはどうしようもなく、アデリナを運び、騎士学校に戻ったのだった。


 その後もまた慌ただしかった。


 まず衛兵に叱られ、導師に説教を受け、教師担当の騎士にはげんこつを喰らった。その上で施術師が呼ばれ、意識を失ったアデリナの治癒に当たったのだ。

 ところが、施術師たちは、アデリナには何の異変もないという診断を下した。


『〈探知〉の魔術がそのようにしか出てこないのです』と、施術師の筆頭格らしき男は言う。『いずれ目を覚まします。だからそう心配しないで』


 果たして診断は正しかった。

 だが、まちがってもいた。

 アデリナはたしかに目覚めた。しかし放心状態が続き、無気力なままだったのだ。

 ふたたび施術師が呼ばれたが、何もわからなかった。いかなる治癒も効果を為さず、いかなる探知にも引っかからない。強いて言うなら、〝奇妙な夢を見るようになった〟だけのことなのだ。だがその夢も、目覚めると忘却の陰に隠されてしまっている。

 施術師たちはさじを投げた。

 アデリナは心身ともに健康ではあった。しかしいまひとつ勉学にも教練にも身が入らないので、王都にあるセイシェル邸で引き取ることになったのだった。

 

『ごめん……』


 馬車から振り返るアデリナの顔を、シュヴィリエールは忘れられない。

 申し訳なさそうにしていたその表情は、しかしここではないどこかへと引き寄せられていた。シュヴィリエールは、そこに茨文字の恐ろしい魔術の真髄(しんずい)があるように、思えてならなかった。


 今更ながら、悔しいと思う。

 みずからからだを張って守り抜いたはずのものが、何ひとつ守れていないことを。

 誇りを賭けて戦ったはずが、結局何ももたらすことなく、かえって悪い結果をもたらしていることを。


 両のこぶしを握りしめる。


 ──まだだ、まだ足りない。こんなことでは亡き父上に顔向けができない……!!


 と、そこに導師の手が肩に置かれる。


「そんなに自分を責めるんじゃない。彼女に掛けられた呪いについては、われわれにもわからないことだらけなんだ。きみが知らないのも無理はない、ちがうか?」

「いいえ。あれは、まちがいなく《魔女》のものです。()()()()()()()()()()。あの茨のように刺々しくのたくった書体を、秘密を覆い隠すために生い茂った(つる)の数々を」

「とは言っても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()も知()()()()()()()()?」

「だからこそです! あのときあの文字を見たのは、アデリィを除いて、わたしだけなんです!」


 そしてなによりも事態をややこしくしているのは、元凶となった茨文字の写本だった。かの本はもちろん導師たちの手に渡り、何度も何度も検分された。しかし、結果は虚しいものだった。

 というのも、茨文字が消えていたのだ。

 シュヴィリエールはその事実に何度も反抗した。だがいかなる手段で以ても、文字があったという事実を証明することができなかったのだ。


 復元魔術を用いて、なんとか形だけでも示そうとはした。けれどもシュヴィリエールの脳裏では、その文字についての記憶がぼんやりとしたものでしかなく、本質の先端にも触れられなかったのである。

 本質を想起できなければ、投影すらままならない。したがって、彼女の証言は証拠不十分として、顧みられることがなかったのだ。


「──だから、わたしが忘れないうちに、手掛かりを見つけなければいけないんですよ……」


 最後の声は弱々しかった。

 導師はただ子を愛するように、優しく述べた。


「焦りは禁物です。均衡を想いなさい。天秤の均衡を。星々はすべてご覧になっている。だから、いまは落ち着くべきなのです」


 だが、シュヴィリエールにはこの導師の言葉も白々しく聞こえた。

 導師に従っておとなしく部屋を出ると、彼女は冷めた頭で廊下を歩んだ。放課後の生徒や教師が行き交う中を、そそくさと歩き、階段を降りて行く。


 その足が向かうのは、書庫だ。


 彼女はここ数日、ずっと書庫に入り浸っている。目的はもちろん、茨文字の研究だ。

 だが、年間の魔法技術の開発や発見、研究を総覧(そうらん)できる『魔術年鑑』や、使用者を制限するべき呪文の名前だけを載せた『禁呪目録』などの大冊を渉猟(しょうりょう)しても、茨文字に類似したものは一切見つからなかった。


 ならばと次に手をつけたのは、古今東西の神話や伝承の類いである。

 ここ〈叙事詩圏(エポスパエラ)〉において、教導会は『神聖叙事詩』およびその注釈書、詞華(しか)集以外の神話・伝承の著述を認めていないが、一方で、異教の伝承や民話、おとぎ話の類いは、説法の材料として大いに集められ、手を加えられていた。征服者たる女王国が、統べる民のほうに歩み寄った結果だった。

 そのことを知らないシュヴィリエールではない。彼女は、聖王国の歴史に根深き英雄家の末裔(すえ)であり、祖先アスケイロンもまた、あまたの伝説を重ね着した英霊でもあったからだった。その武勇は一般に流布しているものと、血族に秘伝されたものとで部分的な(へだ)たりがあるのだ。


 ゆえに、茨文字に相当する魔術の体系も、そうした歴史的変遷(へんせん)の中に埋もれてしまったのではないか、とシュヴィリエールは考えた。

 神聖語でもなく、古代文字の筆記体でも、蕃国(ばんこく)の言葉でもない。もちろん普遍(ふへん)語でもなく、北方の部族のものでも、内つ海の方言でも、ましてや西方の琥珀(こはく)港より先──()つ海から来た言語でもない。

 強いていうならば、雲霧(くもきり)山脈の向こう側、〈大葦原(おおあしはら)〉と呼ばれる東方の文字体系と似ていなくはない。しかし、文字の流れ方が違うために特定とはいかなかった。あちらは縦書きであり、茨文字は飽くまで横書きだ。ならば別系統だと判断せざるを得ない。


 そうこうして三日も調べ物を続けている。

 目を通した本も、通さずに背表紙だけ見やったものも、彼女はすべて憶えている。そして事あるごとに思い返し、反芻(はんすう)しながら、茨文字の検討を進めていた。


 手掛かりらしい手掛かりを見つけたのは、そんな最中──三日目だった。

 彼女が手にしていた写本は『魔女の系譜』──業魔(ごうま)学の権威である聖賢:アズライア・カーレルによって物された書だ。彼は百年前に勃発(ぼっぱつ)した〈魔女戦争〉の遠因にもなった聖職者で、《魔女》という異教の存在を歴史的に体系づけた大学者でもある。


「『……太古の記憶を受け継ぐさだめにあると言われている魔女は、その血によって能力を決定される。彼女たちは自身の胎内を〈神殿〉として扱い、力を子々孫々に継承させるのだ。

 これは彼女たちが、血に生命(いのち)の記憶が宿っていると信じているからだ。しかし翻していえば、血を継ぐことさえできれば、《魔女》の力を得ることができるということだ。《魔女》の結社はこの原理に基づいて、同志を増やすことに成功した。忌まわしいことだが、手首に刃を当てて、流れ出た血を呑ませるという行ないがそれだ。〈血の盟約〉と呼ばれたこの儀式は、擬似的な家族、兄弟姉妹な関係を構築する……』」


 ここまでは、対・《魔女》教本にも頻出するごくごく当たり前の内容だ。その原典に当たったのは初めてのことだったが、しかしそれゆえにシュヴィリエールは次に述べられた重要な手掛かりを見失いそうになった。


「……ん? 『一説によると、いくつかの結社は自らの血を以て(いばら)や記念樹を育てていたと言われている……これらは《魔女》の結社が象徴とした〈(いばら)の城〉、〈宇宙樹〉などのモチーフであると同時に、同志を(かた)る異分子を排除するための使い魔の側面を持っていた……』

 ──血? 茨の、城?」


 仔牛皮紙(ヴェラム)を捲る手を止める。彼女はいままで読んできた神話・伝承の拾遺(しゅうい)集を思い返した。だが、〈茨の城〉の出典が思い出せない。

 そこで、もしかすると、と思い、記憶を振り返る範囲を書物以外にも広げてみた。より深く、より鮮明な記憶の断片へ……魔術を使いこなすために体得した記憶術は、あまたに読み込んだ物語や言葉の数々を、巨大な御殿のように精神の内側に結晶させた。


 それはさながら、心の中に築き上げられたひとつの〈神殿〉だった。

 整然と方陣に、そして等間隔に展開する大理石の柱は、それぞれが自分の心の支えを具現化している。そのひとつひとつは無数の写本が詰め込まれた本棚になっており、隙間なく埋まることで、上方にわだかまる闇──業魔(ごうま)の重量に耐えているのだ。

 中でもひとつ、抜きん出て太く高く伸びるのは、シュヴィリエールの家族の記憶だ。その書棚の柱は、いま亡き父:クナリエールや、その妻であり、自分の母親との黄金のように美しい幼年期が詰め込まれている。


 彼女はそこに近づいて、ある一冊を手に取った。その写本には、金色の枠組みに、色彩豊かな生活の絵が描き込まれている。

 それは少女がベッドの中に潜り、女がそれを叱る絵だった。まだ父を喪って間もないシュヴィリエールが、立ち直れずに部屋にこもっていたときの記憶だ。


『シュヴィリエール』と母親は言っていた。彼女はアスケイロン家に負けず劣らずの名家の出で、その類に違わず教養豊かな女性だった。『しっかりなさい。そんなことでは、天堂にいましますあのひとに、顔向けができませんよ。英雄家の血が嘆きましょう!』

『でも、でも!』と、幼いシュヴィリエールは喚いた。今にして思えば、よく泣き叫ぶ元気があったな、と苦々しく振り返る。


 母は黙って制止させた。それから言った。


『悲しい気持ちはわたしも同じ。でも、いくら泣いても、魔術を用いても、死者は戻ってきません。神々はわたしたちにそれだけはいけないと強く戒められたのよ』

『そんな……神さまは卑怯だわ!』

『ああ星霊よ、いまの呪われた言葉を浄めてください。シュヴィリエール、いまの言葉は口が裂けても言ってはなりません。どうしてもというなら、あなたは騎士になりなさい。その手で剣を取り、茨の城へ挑む勇者になるのです!』


 そうだった。この言葉は、シュヴィリエールが《魔女》を殺す騎士になるという決意のもとになったものだ。

 おそらく母は、当時の式部卿──文官の長の娘である立場上、万巻(ばんかん)の書に通じていたのだろう。しかし、いまここに歴史と記憶が結びつくとは、全く思いも寄らなかった。

 茨の城、茨文字、血の記憶……

 まだかの魔術の正体はつかめないが、重要な手がかりではある。シュヴィリエールはみずからの《記憶》の中に、そっとその言葉たちを仕舞い込んだ。あとはこうした言葉を見つけ出すために、必要な知恵について、考えを巡らせるだけだった。


 ところが──


「シュヴィ、シュヴィ! あーん、よかったわ! よーやく見つかった!」


 突然ニース・フェストルドが、背中から呼びかけた。シュヴィリエールは気まずい秘密を知られたかのようにびくりとして、振り返った。だが、ニースのこわばった表情は、それどころではないらしい。


「どうした、ニース?」と何気なく尋ねる。

「それが……ええと、とりあえずここを出て。行きながら話すから」

「待ってくれ。わたしも大切な調べ物をしてるんだ。ちゃんと言ってくれなきゃ、困る」


 ニースはそこで、苦い顔をする。しばらく周囲を見て、ためらった挙句、ゆっくり小声で伝えた。


「レアンドルがセイシェル邸に見舞いに行ったのよ、あとはもう、わかるでしょ?」


 ガタッとシュヴィリエールは立ち上がる。

 その表情は豹変(ひょうへん)に近いほど、変わっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ