3ー7.月と剣戟と
「お久しぶり、リナ」
言葉とは裏腹に、ヴェラステラの声は嬉しくなさそうだった。そこには敵意と失望とが綯い交ぜになっている。
アデリナは首をかしげた。記憶を失くした彼女にとって、ヴェラステラは初対面の《魔女》だったのだ。
そこで、ヴェラステラは大げさなしぐさでがっかりしてみせた。
「まぁ、まぁ、まぁ! じつに残念。リナ、あなたほんとうに何も憶えてないの?」
「……なんの、ことだ?」
「まあ、ふた月も経てば忘れられるものかしらね。ちょっとがっかりよ。まさかわたしの名前がちゃんと言えないなんてバカなこと、ないでしょうね?」
知らず識らずのうちに、ヴェラステラの声が甲高く苛立っていた。言い切ったあとで、彼女はそのことに気づく。
──怒っているというの? このわたしが?
彼女は内心でつぶやいた。しかしこの想いの深層を探るまえに、彼女にはやることがあったのだ。
答えを待つ。
だが、返事は別の方向からやってきた。
「〈氷月の乙女〉! 貴様まさかフェール伯の暗殺未遂に絡んでいたのか!」
シュヴィリエールだった。
ヴェラステラは、そこでようやく目に入ったとでも言うように、げんなりした蔑みの視線で少女騎士を見やる。
ため息をついた。
「ねえご存知? わたしキライなのよね。そういう、自分が正義の側に立っていることを疑わないコは」
「なんだと……?!」
「せっかくの再会なのに、要らぬ水を差さないでいただけます? これだから心を解さない女王の下僕は、大キライ」
──だから、逝って。
そう言い切るまえに、ヴェラステラは仕込み刃の剣杖を、横ざまに一閃した。すかさずシュヴィリエールも反応する。納めたばかりの鞘から細剣を抜きながら、逆手でこれを受け止めたのだ。
絡み合う剣身──
シュヴィリエールの細剣は、そのまま十字鍔をねじ込むようにヴェラステラの刃を抑え、姿勢を崩そうとする。しかし《魔女》はその力技を逆手にとって、右脚を高く蹴りあげた。
顔面に叩きつける動きだった。
気づいたシュヴィリエールは、とっさに身を引いた。退がりながら細剣を抜き払う。ところがヴェラステラは、その隙を逃さなかった。
反転した体勢を戻す動きから、鋭い突きを放ったのだ。
さすがにこれは避けきれない──そうシュヴィリエールが息を呑んだときだった。
鋼鉄の籠手が、両者のあいだに振り下ろされた。
「ちょっと。わたくしを忘れられるのは、不愉快でしてよ?」
ニースがにやりと笑う。
しかし、その表情はすぐに崩れた。
あれだけ烈しい一撃だったにもかかわらず、剣杖の刃は折れるどころか曲がる気配もない。いや、曲がってはいたが、それはしなやかに撓められていて、引いた途端に元に戻るほどのものでしかなかったのだ。
代わりに、ニースの腕が、じんと痛む。
イヤな予感がした。
シュヴィリエールが退がるのを確認してから、ニースは素早く飛び退いた。
見れば、籠手の棘がボロボロになっている。
「あらあらあら、いまのセリフはちょっと痺れたのだけれど……腕前はそうでもなかったわね?」
ヴェラステラは昏い笑みを浮かべていた。
そこでようやくニースは気色ばむ。
唇を舐めて、《魔女》はつぶやく。
「もっと楽しませてくれなきゃダメ。その程度の手管では、殿方が愛想を尽かして出て行っちゃうわよ?」
だが、ニースは反論しなかった。
というよりもできなかった。
その理由は、眼前の刃にある。
樹齢を重ねた木目のように何重にも連なった刃紋──その幻惑的な剣身には、彼女たちがまるで予期していなかった高度な技術の精髄が秘められていたのである。
「──まさか〝煉鋼〟なの?」
「大当たり〜」
ヴェラステラは嗤った。そして見せびらかすように、ひゅんひゅんと空を斬って見せた。澱みのないその音は、〈叙事詩圏〉でも稀に見る良質なものであった。
煉鋼──その金属の力はアデリナも聞いたことがある。たしか南方大陸から東に向かう蕃国にて発明された、高品質の鋼のことだ。その強靭にして美しい外観は、古代より愛好家を魅了してやまないという。
だがこうも聞いていた。かの煉鋼は、星霊石、または星石と呼ばれる結晶の中でも、火の属性を司るものを用いないと精錬できないのだ、とも。
星石はこの世界における生活の要だ。
風の属性は清浄な大気を生み出し、
火の属性は火と高熱を発する。
水の属性は汚れた水を浄化し、
土の属性は地味を肥やす素材になる。
これらは〝龍脈〟と呼ばれる星霊の流れに眠るとされていた。だが金銀の鉱脈とは異なり、星石は抽出作業そのものに高度な魔術を必要とする。
したがって主だった星石の精製は、〈叙事詩圏〉においては、各地に点在する教導会の導師や修道生の仕事になっていた。すなわち聖王国の内部では星石および、煉鋼の流通は、限定されているはずなのだ。
だが──ヴェラステラは、いまその煉鋼の剣を持っている。
盗品や裏の流通から手にした可能性は大いにあるだろう。しかし、容易に看過できることでもない。
「ああ、ついてないな。まったく……」
シュヴィリエールは強がって言う。かくいう彼女の手の得物は、星石とは異なる魔法技術で鍛え上げられている。煉鋼相手に劣りはしないものの、性質ではまちかいなくあちらのほうが上だった。
ニースがアデリナの肩を持って間合いを取るあいだ、シュヴィリエールはおのが細剣を突き出すように構えた。
──威力で敵わぬなら、技術で対抗する!
ヴェラステラが妖艶に微笑む中に、彼女は刃を踊り込ませた。
斬って、薙いで、斬って、薙いで……
結ぶかと思えば、いなして形勢をひっくり返してみせる。
刃は互いの攻防の間合いを読み切り、せめぎ合い、一進一退を繰り返しながら、絶妙な駆け引きを繰り広げている。
それが十数合と連続する──
だが、シュヴィリエールは焦っていた。こうして打ち合っているあいだにも、煉鋼の刃は着実に細剣の刃をなまくらに変えつつある。もちろん手首の返しと角度の付け方で、相手の得物にも一矢も二矢も報いている。しかし、決定的な瞬間に質の違いが立ちはだかっていた。
このまま続くと負けるのは自分だ──と、シュヴィリエールは冷静に分析していた。しかしヴェラステラの剣さばきは、まるで弄ぶかのようにひらり、ひらりと揺れ動く。そのくせ付け入る隙を微塵も見せない。
「ほら、どうしたの? そんな程度じゃ前戯にもならないわよ!」
ヴェラステラは余裕の笑みを浮かべ、ついに切っ先をシュヴィリエールの利き手の肩口に到達させた。
走るような激痛に、わずかに怯んだ途端。
彼女の細剣が、巻いて宙を飛んだ。
次いで、ヴェラステラの刃はシュヴィリエールの喉元に突きつけられる。
「くっ……」
「残念だけど、遊びはここまで。そろそろ本番にしないと萎えちゃうわ」
かつん、と細剣が転がる音がする。
もう勝ち目はない──そう思った瞬間だった。
ヴェラステラが突然飛び退る。
あとから続いて、地面に何かが刺さる音が聞こえた。
見れば、そこには亜麻色の髪の男が、弓なりの月を背に、立っているのがわかった。
「あら、月影騎士団?」
「──ご明察。その面貌、〈五姉妹〉がひとり:ヴェラステラと見受けた」
「へぇ、だからなに?」
「問答無用だ。殺すに決まってる」
言い終わるや否や、彼は指を鳴らす。
その途端、ヴェラステラの周囲に業魔の闇が立ち上った。黒々とあたりの泥や煉瓦を飲み込んで出来上がったそれは、先ほど少女たちが粉砕した人形兵だった。それらは互いにつながり合って、ひとつの窯のようにヴェラステラを包み込んでゆく。
「黒魔術……そういうことか!」
シュヴィリエールが男を睨む。
だが、男は鼻で嗤うばかりだった。
「どういうことだ?」とアデリナ。
「ここは月影騎士団が設けた〈神殿〉なのだよ。おそらくフェール伯暗殺を目論んだやからをあぶり出すための罠だ。しかし臣民を巻き込むことを厭わないやり方は、到底騎士道とは言えない……!」
「言ってくれるな、嬢ちゃん。すべては女王国が聖く正しくあるためだぜ。きれいごとだけじゃあ、外敵は排除できない」
男はそう言って、大げさな身ぶりで嘆いてみせる。
だがシュヴィリエールは、黙ったまま、答えなかった。
と、そのときだった。
「奇遇ね。あなたのそういう考え方は賛成かも」
ヴェラステラが、煉鋼の刃で人形兵の壁を切り開いていた。美しい軌道で円を描き、ゆっくりと足で押し出した。
どろどろと周囲の壁が溶け落ちる。
「ほう、思った以上にデキるな」
「冗談。女の子舐めるとイタイ目見るんだから」
そのまま《魔女》は、男に向かって得物を構え直そうとした。
だが、それよりもアデリナが早かった。
彼女はシュヴィリエールの取り落とした細剣を拾い上げ、傍からヴェラステラをひと突きしたのだ。
しかし《魔女》はこれを読みきって、躱した。アデリナの切っ先はわずかに相手の衣服を裂いたに過ぎない。
けれどもヴェラステラは、憤りを込めて、アデリナのほうをにらんだ。
「どいつもこいつも──あなたほんっとにつまんなくなっちゃったわね、リナ」
アデリナはそこでハッと我に返る。
彼女なら何か自分の過去を知っているかもしれない──そう考え、尋ねようと思った矢先である。
ヴェラステラが、突然明後日の方向に目をやった。何かを聞き取っているようだった。
「……はい、わかりましたわ。大義姉さま」
《魔女》はそう呟いたが、近くにいたアデリナ以外には聞き取れなかった。
ヴェラステラはすぐに一同を見渡すと、昏い笑みを浮かべながら、言った。
「悪いけど今日のお遊戯はここまでにさせてもらうわ。全然楽しくなかったけれど、最後にひとつ、面白いものをご覧に入れましょう」
そして彼女は、懐から何かを取り出した。ガラスの塊のように見えるが、中には赤と青の粉末が仕切られていた。
「じゃあね!」とそれを振り下ろす。
すると突然、激しく息を吹き付けるような音がしたかと思うと、高熱の霧が飛び出した。爆風のような勢いに少女たちは圧倒され、とっさに顔を守る。
だが、男は屋根の上から、短剣を投げつけた。月明かりが、霧の中に動く《魔女》を見出したのだ。
「あーもう、しつこいのって大キライ!」
振り払うヴェラステラ。
だが、アデリナはその声で居場所を特定した。そしてふたたび間合いを寄せて、細剣を突き出した。
それは全く予想外の一撃だった。
鋭く斬り込んだ刃に、ヴェラステラは衣服ごと脇腹をやられた。悲鳴が上がる。礼装に包まれた上着は断ち切られ、ごとりという不自然な音とともに、霧の中に落ちた。
「待てッ!」とアデリナ。
そのまま後を追いかけようとするが、ふたたび熱せられた霧が噴き出した。
今度は避けきれない。顔面に思い切り吹きつけられ、激痛に飛び退いた。あわててほおを触ると、火傷のむくれが出来始めている。
「アデリィ、無事か!」
あとからシュヴィリエールとニースが近寄った。だが、アデリナの赤くなった顔を見るや否や、あわてて近くの井戸を探しに駆け出した。シュヴィリエールが傍に残って、介抱をする。
ふと、彼女は屋根の方を見た。
しかし月影騎士の男は消えていた。
「シュヴィ……退いてくれ」
アデリナが、霧の中に手を伸ばした。すぐにやめさせようとシュヴィリエールは試みたが、彼女の予想に反して、アデリナは四角い影を取っただけだった。
それは何かの写本のようだった。
黒い皮の装丁を施されており、かなり小さく持ち運びがしやすい大きさだ。その表紙には逆さの十字のような紋様が刻まれており、見るものに不思議な印象を与える。
「なんだ……これは……」とシュヴィリエール。
「わからない……けど……アタシはこれをどこかで……」
「おい、めくるな。《魔女》の持ち物だっただろう」
「大丈夫。これは、大丈夫だから」
そう言ってアデリナは写本を開いた。
そこには、茨の形をした、不可思議にのたくった文字が、連ねられていたのだった。




