4.秘せられたもの
「夢を見たァ?」
歩きながらリナは素っ頓狂な声を上げた。
対するルゥはうなずいた。
その手元では〈忘れじの花〉が入ったカゴが揺れていた。
「そうなんだよ。なんていえばいいのかな……苦しい夢だった。目が覚めて、それがなんなのか全然思い出せないんだけど……とにかく何か大切なものを失くしちゃったような気分でね」
「ンなこと言われてもなぁ」
と、口先では困惑したように言ったものの、リナもその言葉の伝えたいことを理解していた。彼女自身、いつしかそんな心地を体験したことがあったからだ。
しかし、それがいつ、どこだったのか。
それがまるで思い出せなかった。
──結局、茨文字は読めないままだった。
朝起きてもう一度調べて見たものの、今度は指でなぞっても何ひとつ起こらず、文字は相変わらず解読できない。
そこで、ガーランドさんが帰ってきたら何かわかるのではないか、とリナが提案した。ルゥもそれに賛同し、記憶をたどって今日彼が戻って来るはずだということを確認した。
しかし、彼は帰って来なかった。
まだ朝早いのだろう、ということと、思ったよりも時間が掛かっているのではないか、というふたつの懸念があった。ゆえに、ふたりは先に母親の墓参りを済ませてしまおうと考えた。もちろん、書き置きを残して、だ。
すでに太陽は昇りつつある。
麦の段々畑やタケダカソウの原っぱを横切り、ふたりは母親の墓に向かっていた。それはメリッサの裏手にある小高い丘に位置しており、そのために小一刻ほど歩く必要があったのだ。
王都から離れた土地であるためか、道中は人里付近とはいえ楽ではない。曲がりくねった、傾斜のある坂道を行き、傍らにブナの原生林を見つめながら、少しずつ登って行く。そしてようやくたどり着いた山腹からは、別世界との狭間に位置する〈雲霧山脈〉と、ふもとに広がるメリッサの全景が見渡せる。
本来ならばあとひとつ、『地誌』にもある古代の国々の遺構が見えるのであるが、いまは霧に包まれて、おぼろげにそれらしき影が望めるばかりだった。
「いつも思うけど、なんでこんなとこにあるんだろう。教導会の共用墓地だってあったはずなのに」
そう言ってルゥは塚に近寄り、〈忘れじの花〉が入ったカゴを置いた。
「知らねえよ。あるものはあるんだ。それに疑問を持ったって仕方ねえだろ……」
「わかってないなぁ、リナは」
ルゥは、にっこり笑って振り向いた。
「ふしぎだと思うことが、何か見つける手がかりなんだよ。それは真実を知るために大切なことでもあるんだ」
「へええ、さっすが未来の導師サマ。頭の出来がちがうなぁ」
「からかわないでよ」
「事実だからしゃーないって」
アタシにゃむつかしいよ、とごまかすように付け足すと、リナも塚に近づいた。それは盛った土に、土汚れと苔にまみれた花崗岩を立ててできていた。しかし人が死んだあとに残るものとしてはあまりにも素っ気なさすぎる、とリナはどこか遠くを見るような心地で思っていた。
「なあルゥ、おまえさっきいつもって言ったよな? ということは、ここの記憶はあるってことにならないかな?」
「ん……確かにそうだ。憶えてなかったら、そもそもここに来ようとは思わないし、仮に山を登ったとしても迷ったに違いないし」
あごに手を当て、考えるルゥ。
「ああいや、そんなに大したことじゃないんだ。アタシたちは父さんのことも、母さんのこともすっかり忘れちゃっただろ? でもアタシたちが迷わずここに来れたってことは、頭で思い出せなくても、どっかで憶えてるんじゃないかな、て。
まあ手がかりらしい手がかりには、ならないんだけどさ……」
言いながら、自信を無くしたリナ。
うつむきながら、遠くを見た。
「ねえリナ、ボクは昨日からずっと考えていたことがあるんだ」
「ん?」
「記憶がないって、思い出がなくなるってどういうことなんだろう?」
その問いかけはリナには不意打ちだった。
けげんな顔で振り返るものの、彼女が見たのは風に吹かれた黒髪と、それに隠されたルゥの横顔だけだった。
「ほら、ガーランドさんが言っていたでしょう? ボクたちは魔術を掛けられたんじゃないか、て。でもそれって、どうしてボクたちが掛けられなきゃならないんだろう?
記憶を消すって魔術がどういうものかは知らないけど、きっとすごく手間が掛かるはずなんだ。そんなものをボクたちに対して使う意味が、どうしてもボクには掴めない」
わからないんだ、と彼は言った。さながらこの世の不条理──自分たちを取り巻く見えない何かを見据えるように、彼は顔をあげ、中空をにらんだ。
「きっと、何かがあるんだ。ボクたちだけじゃない。お父さんやお母さんにも、何かがあったんだと思う。でも、誰かが、何かがそれをなかったことにしようとしている」
リナは、あらためてルゥを見た。
その横顔はひどく悲しげでありながら、どこかで覚悟を決めたような凛々しさを湛えていた。リナはそれを、十数年間いっしょにいたにもかかわらず、まるで他人の顔だと思った。
「だから、ボクは真実を知りたい。それがたとえ残酷なことだとしても、やすやすとなかったことにされるのは、なんかイヤだ」
そう言い切った瞬間のことである。
何かが聞こえた気がして、振り返る。
すると、山の側面から黒鳥の一群が飛び出すのが見えた。バサバサとけたたましい音を立てて群れるその影は、にわかに現れた雨雲のように、青空の一角に不吉な印象を付け足した。
「スッゲーな。カラスってあんなに群れるものなんだな」
「うん……」
興味津々に眺めるリナとは打って変わり、その光景はルゥにとって強い印象を残さずにはいられなかった。
黒鳥が一羽、太陽を横切っていた。
* * *
(全身に満ちる風……暗闇の中を想像を絶する速度で通り過ぎる……目は何も映さない。希望も絶望もない、ただひたすらに深遠な、暗闇だ……)
ちがう。これは夢だ、と思った。
なぜそう思ったかはわからない。
わからないのだが、そうだと感じた。
(すると景色は一変する……暗闇に目が慣れてきたのか、世界は灰色になった。純真な白でも、無垢な黒でもない。そのあわいに揺れ続けている色……)
抱きかかえられていることを思い出した。
よそ風が身体を通り過ぎる。
『鳥はね、思い出を運ぶのよ』
そう言った声の主は誰だったのだろう。
優しくて悲しげな女の人の声……それしか憶えていない。しかしその記憶はどうしても忘れがたく、声に懐かしい響きを添えた。
『死者の身体をついばみ、魂をくわえて天の彼方に連れて行く……そう、わたしの故郷では言い伝えられてきたわ。
あのひとの魂も、いまごろ祖国が信じていた天堂にいるのかしら……』
言いかけて、声の主は首を振る。
その顔は影に隠れて見えない。
『いいえ、《魔女》であるわたしと結ばれた以上、あのひとはきっと、あのひとが信じていた天堂に入ることはない。冥府の底に堕ちてしまったんだわ。そのことで多くの業魔を背負うことになるとわかっていても、わたしはまだ使命を忘れることができない』
だから、ごめんね。とその声は言った。
まるで構ってやれなかったこと。ふたりぼっちで置いて行ってしまうこと。そして親らしいことがろくにできなかったこと。そのひとつひとつを挙げながら、彼女はおのれの非を謝っていった。
──イカナイデ。
まだうまく動かない口が、言葉を吐き出そうとして失敗する。けれども伝わったらしく、声は次第に涙声になっていた。
『ごめんね……ごめんね……』
都合のいいことは言わない。
だからどうか忘れていて。
こんな母親のことよりも、もっと素敵なものを見いだして、幸せになって。
(そうした言葉を投げかけて、女は手を振り上げた。灰色の一瞬が紫色に融け去り、暁の光をいっぱいに繰り広げる。その光の中に、女の影は飲み込まれ……)
「……お母さん」
ふと、思わぬ言葉が口を衝いて出た。
それを耳にしたリナは、顔をこわばらせて振り返る。すると、ここではないどこかを見いだしているかのような、透きとおった青藍石のまなざしが、黒鳥の飛び出した辺りを向いていることに気がついた。
「あそこに……」
そう言いかけるやいなや、ルゥはだっと走り出した。おいっ、と声を掛けるが、まるで反応しない。無我夢中に走って行く彼を、リナは追いかけるしかなかった。
砂礫の転がる山道を、ブナの原生林を、タケダカソウの原っぱを、すべて知り尽くしているかのように駆け抜けるルゥ。その背中を必死になって追うリナは、こけつまろびつ、距離を開かないようにするので精いっぱいだった。
──いつもなら逆なのに。
ふと、そんなことを思った。不思議なことに、走りながら彼女は、自分の空っぽだった部分に思い出が湧き上がるのを感じていた。
脳裡によぎる無邪気な笑い声に、足の裏から伝わってくる土を踏む感触、それから頰をさする乾いた大気の鋭さまで、すうっと体内に充ちてゆくように思い出された。そのひとつひとつがまぎれもない記憶の断片であり、自分に欠けていた一部分でもあった。
「おい、そっちは……」
たしかあのときもそうだった。
それはいつのことだったろう?
お母さんがいない、とルゥが泣きわめいたときがあった。誰かが優しい手つきで頭をなでて、『お母さんは遠くに行っちまったのさ……』と言ってくれたのも憶えている。ルゥはその言葉をそのまま受け取って、母親を捜しにふらりといなくなってしまったのだ。
けれどもリナは、ルゥの行く先がわかっていた。あのときも、いまも、彼の向かう先は変わらない。それは村の人々が『行ってはならぬ』と言って近寄ろうとしない、村はずれの森の中──〈不入の森〉だった。
藍色のローブが、昼さがりの日から逃れるように、そこに駆け込んだ。リナは、見逃すまいと遅れずに入ったのだった。