外ー結.〈森の賢者〉の導き
ところが古墳の外に出ると、見るからにふしぎなけものが彼女たちの前に立っていた。
白馬のような外見をしているが、その毛並みははるか古代に生きたもののように深く、幾星霜も積み重ねた様子を見せている。
なによりひたいの先から、雄鹿のように複雑に伸びた角が一本生えているのが目立った。尖端は鋭利で、狙われたら槍のひと突きにも匹敵するだろう。
ふたりはその突然の遭遇に言葉もなく、身構えた。しょうじき内心では文句を言いたいところであったが、冷静に考えると、まだここは人外魔境〈暗森〉の一角なのである。うっかり気を抜けば、〈苗〉はおろか、自分の命がどうなるか知れたものではない。
だが、ふたりの警戒心をまるで気にしないように、けものは前に進んだ。
びくり、とシュヴィリエールは反応したが、けものはなおも進んで、その横を素通りした。シュヴィリエールが手を出さなかったのは、それを許さない気配をけものから察したからだ。
けものはそのまま、アデリナの元にたどり着いた。すると驚いたことに、こうべを垂れて、まるで騎士が剣を捧げて宣誓を行うように、その角を差し出したのである。
アデリナは戸惑った。
「この、〈苗〉を、渡すのか?」
けものは答えず、ただこうべを垂れる。
是と取ればいいのか、非と取ればいいのか。わからない。アデリナはシュヴィリエールに目をやったが、困ったように首を振るばかりで、あまり参考にはならなかった。
そして仕方なく自分で決断する。
「いいやダメだ。〈苗〉が必要な場所に案内してくれ。最後までアタシがやるから」
シュヴィリエールは目を見開いたが、けものはそれで了承したようだった。口をパクパクさせている彼女を尻目に、けものはゆっくりと歩いてアデリナたちを促した。
ついて行く。カガヤキゴケの妖しい輝きに包まれながら、下生えの多い木々の間をふたたび歩き出した。
「……おい、」とシュヴィリエールは小声で、「おまえ、〈森の賢者〉をあごであしらうなんて、なんて身分になったんだ……」
「え、あれそんなに偉いのか」
「あれとはなんだ、あれとは。まさかほんとうに目の当たりにするとは思わなかったが、かのけものは幻想種だよ。〈一角獣〉とも言われるが、一般には〈森の賢者〉と呼ばれる。神霊の亜種だぞ」
「……げ。まじか」
「〈森の守護者〉といい、〈森の賢者〉といい、きみはほんとうに神をも恐れぬのだな」
皮肉まじりに会話を打ち切ると、ふたりは、森のさらに奥に入っていった。カレシンやゴドウィンらが待っているはずの虹色の沼とは方角がちがうのではないか、とシュヴィリエールは気づいたが、あえて口にはしない。おそらくまだひと仕事やらねばならないことがあると、思ったからだ。
そしてようやく一角獣の先導が止まる。
樹木のトンネルのような空間をくぐり抜けると、見上げるばかりの巨大な樹木を目の当たりにした。そこは〈緑の礼拝堂〉とは違う意味で巨大なドームであり、さながら石造りの大聖堂に入ったかのような、ひとびとに畏敬の念を起こさずにはいられない何かが宿っていると感じられた。
「これは……『神体』?」
シュヴィリエールがつぶやく。その用語は、魔術空間〈神殿〉の中核となる存在を指し示すはずだ。しかしこの〈暗森〉が天然に出来上がったある種の〈神殿〉だとすれば、これは間違いなく神体、すなわち森の心臓部ということになる。
アデリナは遅れてそのことに気づき、ハッと見上げる。全身から鳥肌が立つような神々しさを実感して、逃げ出したいような思いに駆られた。
けれども、目線を下げると、一角獣がこっちへ来いというように待ちかまえている。アデリナは進まねばならなかった。
おそるおそる踏み出す。
彼女の胸のざわつきとは別に、森にはとくに異変は起こらなかった。ただ〈苗〉の登場に期待し、待ちわびたかのように歓喜の声を上げていた。しかし、アデリナはそれをうまく聞き取ることができず、ひたすら冷や汗を掻くばかりであった。
やがてたどり着いたのは、巨木のふもとにある、小さなくぼみだった。それが〈苗〉を植えるために造られたものだと悟るに時間は要らなかった。
アデリナはそっとしゃがみ、両手に包んでいた〈生命の木の苗〉を置いた。そしてもとから根に付いていた土とともに、周囲の土をあらためて根にかぶせた。すると、〈苗〉の輝きはふたたび蘇り、歓喜の音を立てた。
音が震える。空気が震える。
そして、風がそよぐ旋律が、心を引き締める音楽へと変貌した。ぞわぞわと強くなる霊感を尻目に、アデリナは、この光景にずっと浸っていたいような気もしていた。
と、そのときだった。
『見事だった。〈王の器〉を抱きし小さきものよ。そなたたちの勇気は功を奏した。したがってわれらは約定に基づき、そなたらを解放しよう。
だがゆめゆめ忘れるな……二度と禁を犯してはならぬ、と。それだけがわれわれとひととを結ぶ境い目なのだということを』
木霊の言葉が響くと、それも風に乗って過ぎ去った。まだ耳の奥に残響としてとどろいていたのであるが、そこで、ハッと我に返って、アデリナは叫んだ。
「なあ! この森からどうやって出ればいいんだ!」
『それは〈賢者〉に尋ねるといい……禁を破らぬかぎり、そなたらはわれらの庇護下にあるのだからな』
もう一度〈守護者〉の声が戻ると、ついに言葉が消えて無くなった。あとには淋しい、ひとの要らない静寂だけが残っていた。
シュヴィリエールはただただ圧倒されていたが、ようやくアデリナのそばまで来ると、そっと肩を叩いた。
「もう行こう」
「ああ、そうだな」
虚脱感に包まれながらも、ひと息吐く。ようやく終わった、という満足感と、これだけなのか、という物足りなさ。相反する感情が、どっと彼女に疲労をもたらした。
ぐったりするアデリナを、シュヴィリエールが支える。彼女は勝気に微笑みながら、
「こんな程度で気を抜くようでは、騎士になるにはそうとう酷い目に遭うぞ」
「うるさいやい……今日だけで何度死にかけたと思ってるんだ……」
「ふふ、まあそうだな。だからせめて死にかけない訓練だけは積んでやらねば、ね」
こうしてふたりは、一角獣の導きによって虹色の沼のほうへと歩き出した。その道中は決して楽ではなかったが、とくに何もないもま、彼女たちは〈暗森〉を出る運びとなったのだった。
* * *
──冷たい石造りの部屋だった。
藍色に染まった半球の天井は、さながら満天の星空のよう。目にも綾なる輝きに包まれながら、大理石の床を歩かされていると、世界の涯まで来た心地になる。
だが、ここはそんなところなどではない。
れっきとした世界──〈叙事詩圏〉の中心部にして深奥、アストライア聖王国のもっとも神聖なる空間。またの名を〈星室庁〉と呼ばれる組織の枢密会議の場に、男は立たされていたのだった。
その容姿は還暦を通り越し、つい最近まで病身だったことがうかがえる。痩けたほおに、薄くなった灰色の髪を撫でつけたかたちだけの髪型。しかしまゆは黒く、その下で輝く青のひとみはまだ生気を失ってはいない。
「方々。お連れいたしました」
重々しい口調で、背後の青年が奏上する。デニスという名前のこの男は、亜麻色の髪を丁寧に整えた正装で直立している。ほおにはもう、髭はない。
彼はこの場まで男を連行して来たのだ。
「よろしい。下がっていいぞ、デニス」
「はっ」
一礼すると、何も言わずに立ち去った。次の任務があるのだろう。男は黙ったままそう考えると、暗い星空のような空間に、七人の影が見下ろすように浮かびあがった。
その中央から左に座す影が、ほお杖を突いたまま、男に声をかける。
「──ずいぶんと、雲隠れがうまかったようだね。フェール伯:オイリゲン・フェーガス。《魔女》に加担せし、裏切り者め」
フェール伯。その名は東部辺境の一角を統べる大領主の家系である。だが、ここ〈星室庁〉本部では、全くちがう意味でこの名前が有名になっている。
──存在しない村:メリッサ。
この廃村をあたかも存在するかのように書類の上で偽造し続け、王府の役人を欺いた謀叛人としてだった。
To be continued……