外ー7.名もなき死者の語り
冥府の河が見えた。光り輝く巨大な流れを。
〈忘れ河〉と呼ばれるその河は、遠い昔に語り部から、「ひとは死んだらどこへ行くの?」という問いかけへの答えとして教わったものだ。そこには無数の星霊が洪水のように溢れかえり、冥府の底にあるという〈黄泉〉を目指して魂を運んでいくと言われていた。
いま、アデリナはその世界を幻視している。というよりも、河の真っ只中に半ば浸かりながら立っていた。
へそから下を流れてゆく光の粒子が、清流のように冷ややかで、くすぐったい。その流れの中では、まるであらゆる執着や悲しみが溶けてなくなり、誰もが無邪気な心に帰れる気がしたのである。
そこで、彼女は忘れ河の水──光溢れる雫を掬おうとする。なぜかわからないが、とても美味しそうに見えたのだった。
ところが、その河の水面から黒い腕が伸びて、アデリナを捕らえた。そのまま引きずり込んで、悠久の流れに沈めようとしている。彼女は抵抗するものの、力で負けて、顔から突っ込んでしまう。
銀河のような流れが、全身を包む。
溺れるかと思った。しかし気泡も何も起こらず、ただ音もない静寂の中に呑み込まれる。黒い腕はひたすら下へ下へと引き込んでいき、その終着となる際で、ようやく彼女は女騎士のおぞましい怨念の赤い光を見つけることができた。
女騎士は弱り果てていた。しかし瀕死のけものが、最後の力を振り絞って相討ちに持ち込もうとするかのように、状況は予断を許さない。
『お前はきっと後悔することになる……騎士になったところで、力を得たところで何ひとつ役に立たず、誰ひとりとして救うことができないという壁にぶつかるだろう……そしておまえはその真実に耐えきれない……』
「だから、あんたはアタシを殺すのか?」
『ちがう……これこそが救いなんだ……苦しみしかない生を歩ませるぐらいなら、いっそこの時点で「なかったこと」にしてしまったほうが、おまえは楽になれる……そうじゃないのか? 運命の道はきみの意志にかかわらず定まってしまったのだ。わたしはきみを救うためにここに来た。きみの手をこれ以上血で汚させないために……!』
ふと、アデリナは、この女騎士の声の怨念の裏側に優しさを感じ取った。しかしその優しさは、やはり根の深い恨みと憎しみから現れたものでもあると思った。
だからまだ、言われた通りに死ぬわけにはいかなかった。
「気持ちはありがたいけど……いいよ、そんな優しさ。自分の運命がヒサンかどーかなんてもんは、しょうじき、あんたに決められるとムカッ腹が立つんだ。自分がどこの誰か明かせないような人間に、仮に正論だったとしてもだ、そんなこと言われる筋合いなんてねぇんだよ!」
これに対する答えは、圧殺するがごとき束縛であった。もう言葉は要らないと思ったのだろう。あとは実行あるのみ、と女騎士の怨念は、全身を網のように広げて、アデリナを捕らえて潰してしまおうとした。
ところが、もうじき取り込まれるかと言った途端に、女騎士は、力を使い切って、ぐったりとした。すべてを諦め、忘我の境地に達したかのように怨念は風化し、流れの中に溶けて消えた。
──ああ、ようやく逝ったんだな。
そうアデリナは理解した。
ただ、助かったとわかっても、戻り方がわからない。さっきまで河の中にいると思っていたのだが、まるで地上にいるときのように気ままに振る舞えるのだ。
途方に暮れて、自分もさっきの怨念同様、流れの中に消えるのではないかと思い始めたころであった。
『こっちだよ』
懐かしい声がして、振り返る。
アデリナが見たのは、金髪の青年の姿である。全身をズタズタにしたコートに包み、あちこちに傷を負っていたために、半透明でなければうっかり生者だと思ってしまうことだろう。しかしそれが先ほど陶兵のからだを借りて、アデリナたちを助けてくれた霊だということはわかった。
「あんた……誰だ?」
どこかで会ったような気がした。
けれども思い出せないでいた。
青年は悲しげに首を振って答える。
『わからない。私は死者だから、もう名乗るべき名前を失くしてしまったんだ。本来ならばこの冥府の大河に揺られて、来世の誕生を待つ身だった』
「……なら、どうしてアタシを助けてくれたんだ?」
『はてさて……でも、生前の《記憶》が、ガーランドという男の意志が、私にきみを助けろと命じた。ここできみに死なれては、私の前世は死んでも死にきれないと思ったんだろうね』
声の響きに、アデリナはふと懐かしさを覚えたが、その正体をつかむことができなかった。だが、不思議と心が温まるのを感じて、戸惑った。
自分の記憶は何者かに消されている。
知ってはいたが、改めて実感すると、助けられたという恩義だけが悔恨のように胸に残る。それはかきむしられるような苦しさと、切なさを併せ持っていた。
『ただ、それ以上に、私がいまこうしているのは世界の摂理がそう命じているからだよ。あの霊魂は……きみを襲った死者は、世界の摂理を犯した。本来あるべき時の流れをかき乱して、ある過去を「なかったこと」にしようとしたんだ。それは許されざること、世界の摂理を書き換える所業だったんだよ』
だから、死者は言う。自分はただ摂理の修正を果たすために、星に呼び出されただけなのだ、と。
「でも……なんで、あいつはアタシを? そもそもあいつはなんなんだ?」
『それはわからない。彼女は未来から来た。ある避けられない運命から、それを「なかったこと」にするために魔法の禁忌に触れたらしい。けれども、それは、きみがいまここにいることと、きみの記憶が消えて無くなっていることと関係があるように私には思える。
たとえば、逃れ得ない運命が来るその瞬間まで、決定的なことを知らないでいてもらったほうがいい、とかだね』
「…………」
アデリナはしかめ面で首をかしげた。
死者は朗らかに笑った。
『戯れ言だよ。きみは死者のことばを真に受け止めすぎる。母親の血が強く残っているんだろうね、聴こえすぎているから、自分をもっと強く持たなければダメだ』
「それは……あなたの、ガーランドというひとの意志ですか?」
死者は目を見開いた。
『そうかもしれない。だが、それ以上に大きなモノの意志かもしれない。もう、誰にもその真意などわからない』
遠くを見るように、死者はつぶやく。その表情に、アデリナは、ガーランドという青年以外の、母親の面影のような優しさをも見いだしていたものの、口には出さなかった。
それほどの間もなく死者はアデリナに向き直る。彼は近寄って、彼女の首にかけられた銀のペンタクルを指差した。すると、触れたところから光が一本、天に向かって伸びるのが見える。
『さあ、あとの道はこの五芒星が導いてくれるよ。きみはまだ生きなければならない。そういう定めにあるからだし、きっときみ自身もまだ死にたくはないだろう? だから、私のことは気にせず先に進みたまえ』
アデリナは、背中を押されるように浮遊した。まるで最初から知っていたかのように動けるので、ゾッとしたものの、慣れてしまうと気分が良かった。
「ありがとう」と、彼女は言った。「ついでに、何か言づてもしておくけど、ガーランドさんから、何か伝えておきたいこととか、ないのか?」
『ああ、そうだな……強いて言うなら、シャラ・エヴァンズというひとと、もうひとりに「すまなかった」と言っておいてくれ』
「もうひとりって?」
『ガーランドの許嫁だよ。名前は……』
そこまで聞き取って、アデリナは、天に昇った。冥府の大河はどこまでも美しく、とうとうと流れていったのだった。