外ー1.〈緑の礼拝堂〉
深淵を覗くときは、気をつけろ。
深淵もまた、見るものを試しているのだから──
* * *
「うわっ、あぶねっ!」
ガラガラ、と足元が崩れる音がする。
石の段差が壊れ、虚空に向かって落ちたようだった。アデリナは危うく、そのまま一緒に奈落の底まで落ちそうになったのを、踏みとどまったのである。
薄暗がりである。まるで岩でできた館の中であるかのように、その階段は精巧にできていたものの、すでに長いときを経ていたのだった。ところどころ亀裂が入り、おまけに手すりもない。〈光〉の魔術を用いても、手元も足元も霞むように暗いため、ややもすればからだごと命を落としかねない。
「だから気をつけろと言ったのだ……」
文句を言うのは別の少女だ。そろりそろりと足を運ぶ彼女は、自身の頭上に〈光〉をかかげている。妙な因果でアデリナと同道することになったこのうら若き騎士見習いは、名をシュヴィリエールと言った。
ここは〈暗森〉の、その地下世界。通称〈緑の礼拝堂〉と呼ばれるこの場所は、はるか古の時代の王侯貴族が骨を埋めるために築いた地下墳墓だとか、古き種族のひとつである土蜘蛛の根城であったなどとさまざまな逸話が残されている土地だとアデリナは聞いている。
しかしその真偽は定かではない。
なぜなら、聖王国がこの世界──〈叙事詩圏〉の覇者となるよりも以前の、もっといえば、そもそも聖王国が誕生するよりも前に存在していた人外魔境だったからだ。
『古詩に曰く、「そこは業魔の眠りし場所にて、息をするひとの入るべき場所ではない」とされている。全く、そんな場所に入ってこいだなんて、きみは古代の叙事詩に名を連ねる英雄にでもなったつもりなのか?』
入る前に、シュヴィリエールはあれこれ教えた最後にこう揶揄したものだったが、じっさいアデリナはこれ以外にどうすればよかったのか、正直わからない。
もともと、彼女たちはここに入りたくて入ったわけではない。むしろさっさと立ち去りたかったぐらいなのだ。
だが森の中で図らずも戦った《魔女》により、禁を破り火を放つという大罪をなすりつけられたために、〈守護者〉と呼ばれる森の精に捕らえられる羽目になったのだ。
ひとの入らぬ太古の自然は、その年齢のために外界から持ち込まれる破壊を嫌う。とりわけ幾星霜ものいのちの蓄積を焼き払い、灰塵に帰してしまう「火」は、この森にとって最も忌み嫌われるものだった。
押し付けられたとはいえ、火を放ったのは人間の所業である。本来ならば〈守護者〉に殺されても文句は言えない立場にあったひとびとを救ったのは、同時にその場にいたアデリナであった。《魔法》と呼ばれる奇跡に触れた身である彼女は、唯一〈守護者〉と対等に話せる立場にあるというのだ。
そこで、彼女は助けるためにつぐないの道を進むことになったのだ。この〈礼拝堂〉の地下にあるという、〈生命の木の苗〉を取って来るために。
「なぁ、シュヴィリエール……こう、なんかだんだん空気が重苦しくなってきてないか……?」
ふと、胸に重石を乗せられたような心地になって、アデリナは尋ねる。石段を降りてゆくたびに、彼女の肌から噴き出るように汗が玉をなしてしたたるのだ。
だがシュヴィリエールは平然としている。
「当たり前だ。ここは古代の〈神殿〉だからな……そんじょそこいらの場所とは星霊の濃度がちがう」
「〈神殿〉?」
アデリナは素直にわからなかったのだが、シュヴィリエールは目を見開いた。
「まさか、きみは《魔法》に触れた身なのに〈神殿〉を知らないのか?」
「あ、ああ……」
やれやれ、とシュヴィリエール。
一旦休憩にしようと、石段に腰掛ける。それから改めて、彼女はアデリナに言った。
「簡単に言えば、〈神殿〉は魔法や魔術が発生する場、そのものだよ。むしろ魔法や魔術はこの〈神殿〉と呼ばれる空間の中でしか発動しないようになっている」
「え、でも、おまえ、森の中でもけっこう魔術を使ってたんじゃないか?」
「〈暗森〉はそれ自体がひとつの大きな、しかも天然の〈神殿〉なんだ。でなければ〈守護者〉のような妖精の類いが存在できないだろう? つまるところ、妖精や魔獣もまた、星霊の宿る場にしか生きながらえることのできない存在なのだ。本来は、な」
「ちがうのか?」
「きみはほんとうに何も知らないのか」
呆れるシュヴィリエール。
そのとき、彼女は闇の向こう側になにかを察知して、〈光〉を差し向けた。放り込まれた球のように下に降りた〈光〉は、この地下空間の底にわだかまる得体の知れない魑魅魍魎の影の輪郭を描き出す。
「見ろ。あれが〈業魔〉だ。星霊のこもる〈神殿〉では、魔術が自在に使える代わりにああした不穏な闇もうずくまる。呪われた死者の怨念とも、ひとを狂気に追い込む闇の瘴気とも呼ばれているが、その正体はわれわれの内側に宿るものなんだよ。忘れられることも忘れることもできないひとの執念や情動が、肉体を失ってああした魔物を絶え間なく生み出している」
アデリナは茫然とした。かつて目にした魔獣の、その根源が目の前にあることの不可思議さに、驚かずにはいられなかった。
その表情を見て、シュヴィリエールは得意になるわけでもなく、ただ淡々と続けた。
「わたしたち騎士はあれと戦うために鍛えられてきた。今となっては、あれを利用する輩とも戦っているがな」
するとアデリナは顔を上げた。
「それって……《魔女》のことか」
「ああ。どういうわけか、奴らは新しい魔術の体系を編み出して、聖王国の平和をかき乱している。それを調べるために我が師は〈魔女の騎士〉団を率いていたのだが」
と、言いかけて、シュヴィリエールは口を閉じた。それからじいっと深淵をうかがうと、眉間にしわを寄せて、おそるおそる指差した。
「なあ、アデリィ。あの、あそこにいるのは、なんだ?」
アデリナは振り向いた。
その先に見えたのは、泥のような業魔が粘り気を帯びて象られていく光景だった。垂直に伸び、二メテレの長さで止まると、その殻を破るように内側から何かが現れる。
──さながら、ひとの形になって。
「おい、こりゃ危ないんじゃないか……」
「右に避けろ!」
とっさに脇に身を逸らすと、シュヴィリエールが刻印の弓を構えて撃っていた。
〈矢〉の魔術は、いつの間にアデリナに近寄っていた影を打ち砕いたのだ。皿が割れるような音がして、破片が飛び散る。アデリナは素早くそのうちのひとつを手に取ると、〈光〉にかざした。
呪印の入った欠片だった。
「泥人形の類い……まさか!」シュヴィリエールの判断は素早かった。「アデリィ、退がれ。ここは危険だ。さっきの踊り場に扉があったから、そこまで撤退する!」
「わかった!」
彼女たちは慌てて階段を駆け登った。
背後からは、無数の人形が青銅の武具鎧に身を固めてのそのそと這い上がっていた。その体格は暗い闇の中では似たようなものだったが、じつはひとつひとつの表情に至るまで造詣は別物であった。
剣を持つものがいた。槍を構えるものがいた。戦斧を抱えるものがいた。弓を携えるものがいた。みな規則正しい動きで、まるで一個の将に従うもののように階段を登っていた。さいわいだったのは、その速度が彼女たちよりも遅かったことだ。階段を踏み外さなければ、おそらく間に合ったことだろう。
だが──
「あっ」と言ったのは、シュヴィリエールの方だった。
空を踏みかけた右足を、かろうじて左足で踏み止まる。だが反動でよろめいて、アデリナに倒れかかった。背中から落ちかけた彼女を、アデリナの頭突きがぶつかる。だがそれで体重を支えることはならず、ふたりまとめて階段を十数段転げ落ちることになった。
「ばっきゃろ! 痛えじゃねえか!」
「こちらも別にわざとではない!」
だが言い争いをしてる場合ではなかった。すでに手前に陶器の人形が群がっていたのである。慌てて駆け出すも、間に合わない。青銅の穂先がぎらりと〈光〉に輝いて、シュヴィリエールの鎧かたびらの、腋をあたりを狙って突き出された。
ところがその攻撃は、あと少しというところで阻まれた。アデリナが、斬魔刀を下から上に振り上げたのである。〈緑の礼拝堂〉に入る前、マースハイム・ゴドウィンから受け取ったものだった。
両手で握らなければならないこの大ぶりな刀剣を、アデリナは根性だけで振り上げた。しかしそれだけだった。青銅の槍を振り払うことはできたものの、構え直すのにもひと苦労で、剣尖で威嚇することもできない。もっとも、そもそもそんな小手先のけん制が通じる相手なのかもわからなかったが。
「ほら、先いけよ。ここはなんとかしてやっから」
シュヴィリエールは、アデリナの正気を疑った。けれどもそれ以上言及する余裕がなかった。仕方なく、彼女はうなずいて、階段を登っていったのだった。
「さあ、来いよ。化け物!」
小さな戦士の、無謀な戦いが始まった。




