2ー続.忘れられたあなたに、忘れじの花を
母の形見であるペンタクルを落としたのに気づいたのは、隠れ里に着いてからだった。
シレーネ──彼女は〈火の娘〉と呼ばれる〈イドラの魔女〉の密偵だった──が召喚した巨鳥によってたどり着いたのは、大河アンカリルを超えた向こうの人里だった。
聖王国ではこの地域を「北部辺境」と呼称し、タリムの街を含む東部辺境と同様、女王家に臣従する諸侯・領主たちに土地を分け与えていた。けれどもこの人里は、そのようなひとたちの影響とはまるでかけ離れたように見えた。教導会関係の建築が何ひとつとして見いだせず、そこかしこで秘薬や貴石の市が開かれていたからだ。
「察しはついていると思うが、ここは《魔女》の隠れ里だ。王都近隣はさすがに結界があるからムリだが、世界中にこうした里を設けて我らが結社の連絡網としている。〈星室庁〉の輩が密偵で探し回っているのは、要するにこういうところなのだ」
傍らで〈冬将軍〉:イシュメルが解説してくれた。道すがら教えてくれたことなのだが、彼女は予言によって運命の行くところをすでに聞き及んでいたらしい。だから少年の危急の折に都合よく駆けつけることができたのだ、と。
「かの星読みはいずれ紹介することになるだろう。なぜなら、ルート、あなたはエスタ同様、〈王の器〉を継ぎしものだからな。その力の蓄積と使いこなしよう、さすがは母親の血を濃く受け継いだだけはある」
賛嘆の声とともに、イシュメルはそう言う。しかしもう片方に控えているシレーネの表情はどこか暗く、悲しげですらあった。
ルートはその面持ちの中に、《記憶》の中で裏切った母親の顔を重ね合わせていた。
──ごめんね、お母さん。
彼は心の中でつぶやいた。
きっとエスタルーレはこの選択を望んではいなかったはずだ。むしろこうなることを避けるために自ら進んで去ったのだとも、いまのルートならわかっていた。
しかし彼は気づいてしまったのだ。
「世界」の、軋みに。
その軋みはもう止まらないということに。
けれども──と、ルートは自問する。
もし仮にひとびとがその軋みに気づいたとしても、どうにかなるものなのだろうか?
否、と彼は判断する。それは彼の持ち合わせている《記憶》ががそうだと教えてくれた──聖王国が現れるよりずっと前に滅びた魔法文明の、歴史が。それは《魔女》と呼ばれるひとびとが人脈と調査を展開し、語り継ぎ、拾い集めて判明した、ある破局の記録でもある。
皮肉にも、歴史は繰り返されようとしている。どういう因果によるものなのか、それとも、あるものの手で意図的に再現された──つまり〈魔術〉によるものなのか?
わからない。わからないけれども、一刻も早く手を打たなければ、この「世界」もまた滅んでしまうだろう。そういう事実に、ルートは気づいてしまったのである。そこにアデリナを巻き込むわけにはいかなかった。
──この深淵に飛び込むのは、ボクひとりでいい。あの程度の業魔を浴びて心を乱した彼女に、これからボクがすることはムリだ。
下り坂になった道を進み、窪地となったあたりの民家に宿る。泊めてくれた《魔女》は、まるで救世主でも見るように、ルートのことを眺めていた。
ボクは男のコなんだけどな、と彼はそのたびに思い、苦笑する。もっとも《魔女》の里に男性がいないわけではなく、〈山窩〉などの流浪の民も混ざっている。決して孤高の人里ではない。そしてまた、そうでないがゆえに〈星室庁〉に見つかる危険性も少なからずあった。
「明日は早い。いまのうちに休んでおけ」
イシュメルの配慮を受けて、ルートはひとりでベッドに入る。
アデリナが側にいない夜は、ひょっとすると初めてかもしれない、と彼は思った。
これまでずっとふたりだった。
いつまでも離れないでいると思っていた。
けれどもちがった。ルートがルートであるように、アデリナはアデリナでしかない。ということは、いつまでも一緒なようで、いつか道を違えなければならなかったのではないだろうか。そしてそれが、思いも寄らない時期にやってきた。それだけなのだ。
そう言い聞かせようとしたが、ルートはとても虚しく思った。しかしこの悲しみを誰かに語りきかせようかと考えついても、ろくな知り合いはひとりとしていないことに気づいたのだった。
──ずいぶん遠くまで来てしまったな。
ふと嗅ぎなれた匂いがしたので、身を起こすと、部屋の片隅に〈忘れじの花〉が置いてあった。女主人を呼び出して尋ねたら、今日は姉の一周忌なのだと言っていた。
「そうですか」と彼は淋しげに言った。「ご冥福をお祈りします。〈始源の王〉の、器にかけて、お姉さんの来世に幸あらんことを」
そしてどうか願わくば、自分の片割れにも幸せな未来が待っているように。
ルートは自分の想い出の亡き骸に対して、さよならを告げたのだった。




