2ー15.せめてこの手に
「お、あったあった」
下生え茂るけもの道を踏み分けてようやく見えたのは、緑に覆われた塚山であった。丘のようにそびえ立つ古墳は、聖王国や《魔女》が歴史に現れるよりずっと以前に存在したものだけが持つ独特の威風が感じられた。あちこちの幹にカガヤキゴケが張り付いているのだろう、青白くて柔らかい光が〈暗森〉の暗色の光景を照らしているため、より神秘的で異界めいたものに見せている。
アデリナとシュヴィリエールはその景色に圧倒されながらも、心はどこか冷静だった。いまから始まる試練は、彼女たちの運命だけではなく、たまたまこの〈暗森〉に入った騎士たちやカレシンを合わせて十一人の命が掛かっている。それを忘れて呑気な物見遊山の気分には浸れなかったのだ。
──森が出した条件はひとつだった。
『我らが〈礼拝堂〉と呼んでいるところがある。そこから〈生命の木の苗〉を取ってくるのだ。みずからの行ないを真に恥じ、悔いるのであれば、その身をもって深淵に挑み、つぐないを見せるのだ。〈王の器〉を有するものよ。さすれば我らは怒りを鎮め、このものらを解放しよう』
〈守護者〉はそう言って、マースハイム・ゴドウィン以下騎士たちから手を引いた。もっとも、人質の要領で、武装を解かれて樹々の檻に閉ざされてはいた。
アデリナにとって興味深かったのは、騎士たちの過半数が女性だということだった。八人中六人が女性であり、マースハイム・ゴドウィンともうひとりは、この騎士たちの監督役のような役割を果たしていたらしい。
『我らは〈魔女の騎士〉団。《魔女》の振るう黒魔術の体系を調査し、その力を解体するために結成された。ただ表向きには存在しないことになっている』
と、ゴドウィンはアデリナの質問に対して、こう答えた。
『彼女たちは、騎士学校を優良の成績で卒業しても立身出世が叶わず、辺境に回された才女たちだ。その中でもとりわけ精神が強く、聖王国への忠誠心が厚いものを選別して訓練させた。どうも《魔女》の力は、女性が振るうことによってより優れた効能を発揮するとわかったからだな』
『んーと、じゃあ、あんたたちは、《魔女》の力が使えるのか? どうやって?』
ゴドウィンは笑っていた。しかつめらしい毒気が根こそぎもっていかれたようだった。
『神聖体系の魔術が、女神と聖王国の秘跡を示す『神聖叙事詩』を根幹になしているのに対して、《魔女》はそれ以外の──たとえば土着の信仰やおとぎ話、異教の神話に力を借りていることがここ最近ではわかっている。
それは聖道に置いた我らの体系から外れたすべてであり、聖王国の歴史よりもはるかに深くて広い。要するに、〈イドラの魔女〉と呼ばれる魔術結社は、聖王国以外のあらゆる古きものから力を借りているのだよ』
だから彼は理解できなかった。
古きもののひとつである〈暗森〉に、火を放つという彼女たちの所業の意味と、その先にある光景を。
しかしそれを口には出さなかった。ゆえにアデリナもそのことを知らず、ふうんと流すように理解しただけだった。
『──だから、いまからきみたちが向かうという〈緑の礼拝堂〉についても、多少は聞き及んでいる。それはシュヴィリエールも同じだ。だから彼女の知識をないがしろにせず、気をつけて進んでくれ。我らのためにもな』
おう任せておけ、と言って、アデリナは胸を叩いた。もっとも、その背後でシュヴィリエールはため息と頭痛を抑えるのに必死だったのだが。
〈守護者〉の出した試練の内容を聞かされたとき、アデリナはひとりだけ同道者を要求した。さすがに単独では心許なかったし、記憶喪失の件もあった。自分がまだ何を失って、何を残しているのかがわからないまま冒険するには気がひけるほどの冷静さは持っていたのだ。そう告げたところ、〈守護者〉は許可した。しかし同道者は彼らの手によって選ばれた。
それがシュヴィリエールだったのだ。
『我らに向かって大口を叩いた勇気を買おう。ぜひとも〈王の器〉を有するものを支え、我らが試みを突破するべく挑むがよろしい』
そうは言っていたが、要するに生意気な小娘に対するしつけのようなものだとシュヴィリエールは理解していた。そのような人間的な感情が、森にあったとして、ではあるが。
しかしシュヴィリエールは断るわけにはいかず、しかも師であるゴドウィンを含めた先輩全員の命を背負って戦うことになったために、緊張ひとしきりであった。
そのためか、虹色の沼を発ってからこのかた、ずっとふたりは言葉を交わすことなく、〈礼拝堂〉にまでたどり着いてしまったのである。
「……きみは本気なのか? 〈緑の礼拝堂〉に入って、試練を突破できると、本気でそう思ってるのか?」
「んあ?」と、シュヴィリエールの問いかけに反応しつつ、アデリナは、「できるかどうかなんてわかんねーよ。突破するんだ。ああでもしなきゃ、アタシたちは危なかった。あいつらあんなに怒ってたしさ。たまたま〈王の器〉? があったから待ってくれたけど、解決したわけじゃないし……」
「待ってくれ。勝算もなにもないのか?」
「うん」
「……はぁ、〈星々の女王〉よ。どうかこの愚か者の頭に智慧の光をお授けください」
こんなやり取りをしながらふたりは古墳のそばに寄った。緩そうな勾配をよじ登り、入り口を探すためにその表面を撫でるように歩き回った。クローバーや色彩豊かな花々が咲き乱れ、踏みしめ、手探りするたびにくすぐったそうに風に揺れていた。
と、そのとき、アデリナは懐かしい匂いを嗅いだ。甘やかで、鼻の奥から記憶に呼びかけるような薫り……そのみなもとをたどると、白い花の群生を見つけることができた。
「どうしたんだお前……おや、シンベルミネの花か」とシュヴィリエール。
「シンベルミネ?」
「失礼。〈忘れじの花〉と言ったほうが、きみにはわかりやすかっただろうか」
「忘れじの……」
あらためて、しげしげとアデリナは花を見つめた。白い花びらと、その奥でほんのり薄紅に染まったおしべやめしべ。年中四季を通じて咲いていて、聖王国でも葬送や墓参りのときに用いられる花……
知識だけは残っている。けれどももっと大切なことが、この花に関係していたはずなのだ。それがなんだったのか想い出せないというのが、彼女はもどかしくてたまらない。
ふと、手元に何か無機質な感触を覚えた。探ってこれを取り出すと、五芒星が刻まれた銀の護符が見つかった。ペンタクルだ。そこには切れた紐が繋がっており、じつはルートが空から落としたものであったのだが、アデリナはそのことを知らない。ただ懐かしいと思い、表面をなでるばかりだ。
と、そのとき水滴が落ちた。
雨が降ったのかと思って天を仰ぐものの、そこには〈暗森〉の樹々が織りなす暗色のドームの天井しかなかった。森の外側で雨が降り始めたのだろうか、と彼女が推理して、シュヴィリエールにそれを伝えようとしたところ、
「──きみはなぜ泣いている?」
言われて初めて気がついた。
自分が泣いているのだということに。
「ああ、まただ」
前にもこんなことがあった。全く同じようにして、大切な何かを失ったと気づいたことに。自分の力が足りなくて、弱かったために、誰かがすべてを肩代わりして護ってくれたのだということに。
そして、そのすべてを想い出せず、ただ無力な自分を嘆くしかないということに。
何かを想い出したわけではない。
けれども失くしたということだけはわかった。だから彼女は泣いた。ただ塚山の上で、静かに突っ伏すように泣いていた。そしてシュヴィリエールは、何か自分の言ったことが気に障ったのではないかと気が気でならず、わたわたしながらずっと見守っていた。
やがてアデリナは泣き止むと、腫らした目元をこすりながら、シュヴィリエールに謝った。
「ごめん」とひと言。
シュヴィリエールはこほん、と仰々しく咳払いをしてから、改まって応えた。
「何があったかわからないが、気が晴れたならいい。〈礼拝堂〉に入る前に気持ちは整理しておいたほうがいいからな、きみ……」とここまで言って、シュヴィリエールはけげんな表情になった。「……そういえば、いまのいままで名前すら聞いていなかったな。先に非礼を詫びなければならない。てっきり私は、きみが《魔女》の手先か何かだと思って、その名を訊くのをためらっていたんだ」
「ん、ああ」とアデリナはごまかし笑いを浮かべながら、「アデリナだ。生まれも育ちももうわからないけれども、アタシはアデリナだよ」
シュヴィリエールは頷いた。
「アデリナ……そうか、だから『リナ』なのか……」
「えっ?」
「いや、なんでもない。こちらの話だ……なら、アデリナ。私はきみに親愛を込めて『アデリィ』と呼ばせてもらっても、いいだろうか?」
「いいけど……なんか、綺麗すぎてこっぱずかしいな」
「恥ずかしがることはない。自分の名前だ。自信を持て」
アデリナはそのまま頷いた。
「さてと、アデリィ」とシュヴィリエールは早速呼び名を用いる。「ひと心地付いたなら、早急に試練とやらを片付けるぞ。なに、〈王の器〉を持ったものと、曲がりなりにも騎士がいるのだ。人間の運命を背負うものとして、しくじるわけにはいかないからな?」
見上げたアデリナが目にしたのは、どこかしら照れを隠して励まそうとするシュヴィリエールの横顔だった。
「ああ、」立ち上がって、言う。「行こう。アタシたちはまだまだ進まなくちゃ、その先にあるものを、アタシが失くしたものを見つけられるためにも」
こうしてふたりは塚山の探索を再開した。
秋も深くなる、収穫祭の月がやってくる頃の出来事であった。