2ー14.森の守護者の目覚め
破砕された骸に、うつ伏せになった騎士たちのうめき声、そして草木の灰があたりに散らばっていた。しばらくの間沈黙がそこにあったものの、やがて騎士たちや竜牙兵が、ふたたび体勢を立て直そうとして、ガチャガチャ音を鳴らしていた。
ところが、その音が途中で消えた。
空気が独自に振動し、音を伝達しなくなったのである。
「愚かな……〈暗森〉の禁を破ったな」
マースハイム・ゴドウィンがつぶやいた。
人外魔境である〈暗森〉では、他所者たる人間がしてはならないことが三つある。
ひとつ、火を焚いてはならない。
ひとつ、けものを殺してはならない。
そして最後が黒い川に入ってはならない。
この三つの項目は、どれももちろん重要ではあるものの、じっさいそのまま重要な順番で記されている。つまり火を焚くことこそが、〈暗森〉という領域内では最も禁じられた行為であるはずなのだ。
それを、あの《魔女》たちは破った。
おぉおおおん
ぉおおおおおぉおおおん
空気の振動が、雄叫びのようにそこここを席巻し、空間を圧迫する。
森が怒っているのだ。黒々とした樹々からの敵意はいよいよ明確なものになり、入った人間をひとりとして生かしておくまいと息巻いているようにすら思える。
はるか昔、この森に触れ、同じような初歩的な大惨事を経験したものが、繰り返さないように伝え残した伝承と、知恵の《記憶》──その蓄積が打ち砕かれたのだ。人間と自然が安心して住み分ける境界を、かの〈イドラの魔女〉の構成員はためらいもなく踏み破ってみせたのだった。
だが、これはおかしい、とゴドウィンは思う。彼の教養がささやくところでは、本来「魔女」と呼ばれるひとびとは、教導会や聖王国が歴史に現れるよりずっと以前から存在し、自然に生きる人間の知恵と伝承──《記憶》を現代に紡ぐ語り部であったはずだ。
その語り継ぐべき知恵の中に、〈暗森〉に宿る古きものの話がなかったわけがない。森における禁則は、表現が異なっていても騎士と《魔女》とのあいだで同一した知識であったはずではないか。
もしそうだとするならば、彼女たちは「魔女」ではない。少なくとも、古来の魔女が守り育んできたものを踏みにじるその行いは、自らの本来のあり方からの他ならぬ逸脱を意味していたのだから。
ならば──とゴドウィンは考える。
ならば彼女たち、〈イドラの魔女〉のほんとうの目的とは、いったいなんなのだ?
しかしそうした思考を叩き斬るように、天空から鋭く嗄れた声が聞こえた。
見上げると、そこには人智を超える大きさの、白い大鴉──否、あれは東方の神話で〈不滅の鳥〉と呼ばれる鳳である、とゴドウィンは気づいた──が、金髪の少女を足に掴んで飛翔していた。かの鳥はそのまま滑空し、沼の向こう側、《魔女》たちの揃ったところへ降り立った。
おぉおおおん
ぉおおおおおぉおおおん
「逃げるつもりか!」とゴドウィンは叫ぶ。
答えはなかった。鳥が降り立つや否や、まずシレーネが、ルートが、そしてアデリナを担いでイシュメルが、その背中に飛び乗った。四人を乗せてもなお余裕のあるその巨鳥は、ゴドウィンら騎士たちに向かって威嚇するように鳴くと、ふたたび羽ばたいた。
体勢を崩しそうになるほどの、強烈な旋風があたり一面に襲いかかる。突風をまともに受けながら、しかしなお踏ん張るゴドウィンは、みずから足元に置いてあった刻印の弓を取り、素早く引いた。
ぱっ、と〈矢〉が放たれた。
狙いは正確だっただろう。しかし撃ち出す直前、彼は背後から来る森の悪意を察知して、体勢を変えた。
わずかに逸れた、〈矢〉。
巨鳥はかろうじてそれを避けた。
だが、予告なしに姿勢が傾いたために、意識のないアデリナが滑り落ちそうになった。あわててルートが彼女の腕を掴む。けれども、もともと膂力のない彼では、持ち上げることが叶わない。
「リナ! しっかり!」
その声と、ぴんと張られた腕の痛覚が功を奏したのだろうか。
アデリナの目が、開いた。
だが、ほんのつかの間明るくなったルートの表情は、すぐに曇った。というのも、
「……オマエ、誰だ?」
彼女はけげんそうにルートを見ていたのだった。
他人の空似に間違われたかのように。
なぜ自分がここにいるのかと尋ねるように。
もしくは、初めて出会った相手を、ありもしない《記憶》の中から懸命に思い出すかのように。
覚悟はしていたはずだった。ルートが、アデリナの抱いていた不安と恐怖と悲しみをすべて背負うと決めた、あの瞬間に。
彼は、わかっていたはずなのだ。その感情は、他ならぬ彼女自身のものであって、それに手を加えようとすれば、この世ならぬある力に頼らねばならなかったということを。
「これが……」とルートは泣きそうな声でつぶやいた。「これが《魔法》に頼ろうとした報いなのか……」
悲しみに歪んだその顔は、
アデリナには妖しく笑ったように見えた。
全身に鳥肌が立つ。彼女の青いひとみに映ったのは、六芒星の刻印を紅いひとみに宿し、恐ろしいほど美麗なる《魔女》でしかなかった。おまけに左右を見れば、白い巨鳥にまたがるふたりの《魔女》のすがたがある。
野性の勘が、危険だと告げていた。
力強く、その手を振りほどく。
ルートはこれを抑えることができなかった。ただ目のまえで、アデリナが彼を拒絶し、地上に落ちて行く光景を眺めることしかできなかったのである。
抜けた手を、虚しく握る。
その崩れた体勢をイシュメルが支えた。
「いいのか? いまのあなたの力があれば、造作もなく助けられたはずだが」
「良いんです。これはボクの選択です。もう二度と強いるわけにはいかない。ボクがすべて背負うと決めたんです」
「……そうか」
言いながら、彼女は未練がましく振り返るルートを見つめていた。
「……さよならだよ、リナ。もう二度と運命の災禍が訪れないことを」
ルートはつぶやいた。
その声は翼の羽ばたきの中にかき消えた。
──いっぽう、落ちたアデリナは。
仮にも森の木よりも高いところから落ちたのである。一歩まちがえれば、首の骨を折るかもしれない飛び降りであり、無謀なことこの上なかったと気づいて焦っていた。
「うわぁぁあああ!!」
叫びが聞こえるや否やのことである。
彼女の着地を助けようと駆けつけ、全身を賭してこれを受け止めた騎士が現れた。
シュヴィリエールである。
〈速歩〉と〈強化〉の魔術を使ってもなお腕のしびれがひどかったが、彼女は、アデリナの危機を救うことができたのだ。
「大丈夫か」とシュヴィリエール。
「あ、ああ……」とアデリナは言いかけて、シュヴィリエールの装備一式を見る。「あんた、騎士なのか?」
「いかにも。シュヴィリエールという。ところで、きみはあの《魔女》から逃れてきたように見えたが、いったい何者なのだ?」
言われて初めて、アデリナは空の彼方に消えていった巨鳥と、その背中に乗るひとびとを見つめた。ただひとり地上を見下ろす「少女」がいたが、アデリナには、それが誰だか想い出すことができなかった。
「……わからない」
「わからないィ?」
「つうか、そろそろアタシを下ろしてくれ」
えぇ、と衝撃を隠さないシュヴィリエールを尻目に、アデリナは二本の足で立った。
そのとき何かイヤな気配がして、素早く振り返る。すると、そこにはゴドウィンと騎士たちが、得体の知らない木の怪物を取り囲んで、戦闘しているようであった。それは木の幹を模した大柄のひとのかたちをしていて、枝を手に、根を足にして、ゆっくり歩み寄っていた。斬魔刀を構えた騎士たちが二、三人の単位でこれを迎撃していたが、苦戦しているようであった。
仰天していると、今度はシュヴィリエールがアデリナの肩をつついて、注意を促した。見れば、木の怪物は彼女たちの背後にも出現しつつあった。
「くそっ、《魔女》め。火で〈森の守護者〉を呼び寄せたな……」
破れかぶれになって、シュヴィリエールはひとりごちた。
その傍らで、アデリナはクシャクシャと蜂蜜色の髪をかき回している。
「なんかよくわかんねーけど……これってすごいマズイ状況なのか?」
「当たり前だ!」もはや悲鳴だった。「きみには危機感がないのか!」
「いやあるけどさ。どうすりゃ良いんだ?」
「それはこっちが聞きたい!」
と、騒ぎ立てているうちに、〈森の守護者〉は近づいていた。それも、三体。カシやブナの木でできた巨体が、ゆっくり枝を広げてふたりを取り囲む。
ひぃぃ、とシュヴィリエールは悲鳴をあげた。その悲鳴を聞きながら、彼女はほんとうに騎士として有望なのだろうかとアデリナは思ってしまう。だが、その空想は瞬時に絶たれた。〈森の守護者〉たちが、アデリナを確認した途端、動きを止めたからだった。というのも、彼女は気づいていなかったが、彼らは、アデリナの青い目の右側に、六芒星の刻印を見出したからであった。
『……あなたは〈王の器〉をお持ちなのか』
〈守護者〉は普遍語で話した。
腹の底に響くような音声であった。
しかしアデリナは眉をひそめた。
「いや、何言ってんのかわかんねーけど、」
『致し方あるまい。あなたは単に想い出せないだけなのだ。我らの物語を、そして、あなたの《記憶》が有する〈始源の王〉の物語をな。だが、我らはその物語をほんとうに知っているものの刻印を見分けることができる。そしてその刻印を有するものは、天と地の盟約に基づいて、我らは手を出すことを許されていない。いまいましいことだが、世界の始まりの折に、我らはそういう風に創られた』
ん? んん? とアデリナは首を傾げる。
不穏に感じたシュヴィリエールは、アデリナの顔をのぞき込み、驚嘆の声をあげる。けげんな顔をするアデリナだったが、シュヴィリエールは、手でそれを抑えた。それから〈守護者〉のほうを向いて、言葉をつなぐ。
「つまり……聖王国より旧い時代に伝え遺された、〈龍〉が治める天界と、〈巨神〉が治める冥界とのあいだで交わされた盟約の印が、この上下三角形の組み合わせによる『六芒星』なのだと。そういう理解でよろしいのですか、〈守護者〉よ」
『いかにも。若き騎士よ』
「ならば、〈王の器〉とはいったい」
『簡単なことよ。摂理に干渉する力を振るう権限だ』
「権限……?」ふたりは同時に呟いた。
『人界ではこれを「魔法」と呼び習わす、と聞いているが』
ここでふたりは同時に驚いた。どちらもこの言葉に聞き覚えがあったからだった。ただし、シュヴィリエールは経験としてではなく知識としてだったし、アデリナのほうはそんなものがあった気がするという直感に過ぎなかった。
たしかどこかで、優しい女性の声が、「魔法」というものの存在を教えてくれたはずなのだ。けれども、それがいったい何なのか、誰がどうして伝えてくれたものなのかが、すっかり想い出せなくなってしまっている。まるで誰かが彼女の記憶に鍵を掛けて、すっかり閉ざしてしまったかのように
『〈龍〉と〈巨神〉のあいだで決定した摂理は、本来死ぬべき運命のものに手を加える権限がない。だが太古の《記憶》を探し求め、始源の智慧に到ることができたならば、かのものは「世界」を創造する力を手にするだろう。
しかしそのような権限を持ったものが、同じ摂理の内側に存在できるわけがない。「世界」創造の権限を振るったものは、その分だけ存在の連鎖──我らの住む「世界」から外れてしまうのだ。かつて人間はその道を選択して、我ら自然に生きるものから離別した。どうやら今度は、人間同士で「世界」を作り、相争っているとお見受けするがな』
最後の言葉が意味するところを察知して、シュヴィリエールは我に返る。そして彼女は慌てて周囲の戦闘を見回して、言った。
「ああ、そこまでお分かりなら、どうか〈森の守護者〉よ。我ら騎士に慈悲をいただけませぬでしょうか。火を用いたのは我らではありません。悪意を抱きし《魔女》の為した」
『たわけ。しょせん我らにとって、騎士であろうと魔女であろうと関わりはないわ!』
と、怒鳴り、シュヴィリエールを絞めあげようと枝が伸びたところである。
アデリナが、その枝の前に立った。
「おい、やめてやれよ。さすがにやりすぎじゃないのか。もう火は消えているんだしさ」
『〈王の器〉を有するものよ。これはこの森──我らが「世界」の掟なのです。生命の流転を記した摂理に基づいて、決して破壊の火を持ち込んではならない。いくらあなたでも、この「世界」の記述に手を加えることは許されていない。我らにその力を認めさせ、新たに約定を更新せぬ限り!』
「あ、それだ」とアデリナ。
空気が凍りついた。
いま何を言われたのか、〈守護者〉でさえも理解するのに時間を要したのだった。
ゆえにアデリナはひと呼吸置いて、もう一度言わなければならない。今度は堂々と、騎士が名乗りをあげるかのように。
「要はアタシが力を示せばいいってわけだろ?」




