2ー13.〈魔女の騎士〉
「蛟竜……それじゃあ、これは〈龍〉の末裔なのか?!」
ルートは畏敬の念を込めて言った。彼の紅くなったひとみは大きく見開かれ、向かい合った魔獣と向き合う。交わされる視線。その緊張は、さながら剣を交えるもの同士のものと同じであった。
近隣の樹木の幹よりも太い胴が、油断なく、緩急をつけて蠢いている。蛟竜の動きは樹々のあいまをくぐり、沼に沿った辺を三分の一近く閉鎖していた。また、もたげた鎌首は木の頂きにも達し、牙の生えた口元から漏れ出る瘴気によって、少しずつ枯死しつつあった。
そこにシュヴィリエールが、必死の形相で弓を構えつつ、答えた。
「ああそうだ。正確にはずっと世を降った劣等種だが、どういうわけか〈雲霧山脈〉のほうで長生きしたあと、人知れずに大河アンカリルを降りてきたらしい。まことに良い迷惑だと……」
と、言い終えるまえに、彼女は行動に移っていた。〈矢〉を一気に三本放つものの、その先は蚊が刺したほどの痛みしか与えなかったらしく、びくともしない。それどころか、蛟竜は彼女の死角から尾を伸ばし、鞭のようにしならせて叩きつけようとしたのだ。
とっさに反応するが、間に合わなかった。シュヴィリエールはしたたかにこの一撃を喰らい、沼の端をまたいで吹っ飛んだ。激しく横転して泥にまみれる一方で、彼女の弓が沼に沈んでしまう。
「シュヴィリエール!」
ルートが振り向いて叫んだ。
だがシュヴィリエールは素早く顔をあげ、腹から絞り出すように、応じた。
「平気だ、それよりも奴の吐く息に注意しろッ!」
途端、蛟竜は口を大きく開けて、赤黒い霞を一面に吐き散らかした。
慌ててルートが真空の障壁を張ってこれを防ぐが、吐息は留まるところを知らない。六芒星の紋様を持った球状の〈盾〉は、たしかに毒煙から彼とシレーネ、そして横になったカレシンを護ることができたが、圏外はその限りではなかった。
ふと彼はその毒煙がどこに向かうかに気づいて、振り返る。そこにはアデリナがいた。ちょうど沼をはさんで向こう側なのであるが、吐き出された瘴気にはそんなことは関係ない。ただ流されるままに、ゆっくりと、沼の表面を通り過ぎようとしている。
ルートは慌てて〈木霊〉を呼び出した。
「リナを、リナを息から遠ざけろ!」
ところが彼らは命にしたがったものの、達成することができなかった。すでに沼の周囲の樹々は連戦と毒煙によって衰退しつつあり、たとえ〈王〉の指令といえども、これを遂行する余力が残っていないのだ。
ゆえに森からの返答は、弱々しく突き出た根と、それらがアデリナのからだを支えようとして、失敗する光景であった。
ルートはシュヴィリエールを振り返った。
「シュヴィリエール、リナを!」
「えっ」
「向こうにいる女の子だよ!」
見れば、赤黒い毒煙が着々と、反対側の沼のふちに横たわる少女に近づいている。その髪は蜂蜜色で、短くクセがあり、からだは赤いチュニックに包まれて、ぐったりと倒れ伏していた。
あれか、とシュヴィリエールは思った。しかし駆けつけようとした矢先、枯死した幹が飛んできた。尾が抜き取って投げたのである。
どう、と音を立てて、シュヴィリエールの進路が絶たれる。その間にもどんどん瘴気は森を冒している。
「クソッ! どうにもならないのか!」
と、ひとりごちたとき。
「さあ黒き鳥たちよ、舞いなさい!
いまこそわが同胞の
積年の怨みを、晴らすときです
過ぎにし友の御魂を抱え
天より降りて、覇を競いしものどもの
末裔なる輩を切り裂きなさい!」
独特な響きと律を持ったシレーネの声が、そのように誦んずると、どこからともなくカラスの群れが出現し、蛟竜の頭上に飛び込んだのだった。鋭きくちばしと爪が大蛇の皮を破き、傷つける。その強烈な痛みにとうとう蛟竜は注意を逸らし、瘴気を吐くのをやめた。
振り向いたシレーネが、ルートに目配せする。ルートは頷き、すかさず木の根を用いて蛟竜のからだを〈束縛〉した。物理的、かつ精神的な拘束。一瞬これであと一撃、決定的なものを加えられれば、この巨大な魔物を撃ちたおすことができただろう。
だが、それは思わぬ方向から達成された。
「ずいぶんと油を売っているようだな、シレーネ──〈火の娘〉よ」
すべてを凍てつかせるような声が轟いた。
ひょうと冷たい風が吹いたかのように。
途端、蛟竜のからだが氷に包まれた。絡んでいた周辺の木々すら巻き込んで、巨大な結晶が誕生するほどにその力は凄まじかった。すると、その大蛇の影から、つかつかと冷徹な響きがやって来る。現れた人影を目の当たりにして、とくにシュヴィリエールの顔がこれ以上ないくらいに血の気が失せていた。
「〈冬将軍〉?!」
そこにいたのはイシュメルだった。
銀獅子を模した兜をかぶり、油断なく紫水晶のひとみを輝かせている。一歩一歩進むそのつま先からは氷が噴き出し、秋冷えのする朝の土に霜の柱を立てていた。
その二つ名は〈冬将軍〉。天候すら左右するほどの強大な魔力を秘める、凶悪な《魔女》であった。
彼女は日の当たる場所に出ると、一同を見渡して、楽しげに微笑んだ。
「ほほう」とイシュメル。「そこな小娘は、聖堂の輩か。なるほど。ならば売った油はさぞかし高く付いたのだろう、シレーネよ?」
「……申し訳ございません」
「何を謝るのだ。魔獣一匹屈服させられぬおのれの不手際にか? それともエスタの子供に情を覚えてしまったことにか?」
「…………」
「まあよい。本題はそこにはない。軋みが酷くなってきているのだ、そう長居もしていられない」
と、言いながら、イシュメルは下生えを凍らせながらすたすたとルートに歩み寄る。ルートはその振る舞いにびっくりしたが、なぜか敵意はないとわかっていた。そして彼女は、たどり着くや否や、ルートに対して、騎士が忠誠を誓うように、佩刀を捧げ、ひざまずいた。
「お迎えにあがりました、〈王の器〉を抱きしものよ」
朗々とそう言うと、彼女は、ルートの紅いひとみを見つめた。真摯なまなざしで、ゆっくりと、しっかりと。
しかしルートは黙っていた。その沈黙はイシュメルですらどきりとするような、憐れみと悲しさを秘めていた。何か付け足したほうがいいか──と彼女が考え始めたころ、ルートは、すべて見抜いたかのように、淋しげに言った。
「あなたほどの力を持つひとでも、《記憶》からは逃れられないのですね」
イシュメルは目を見開いた。しかしすぐに何かを察知する。立ち上がり、佩刀の鞘を払って飛来したものを叩き落とした。
〈矢〉であった。
だがシュヴィリエールでは、ない。
新手だった。シュヴィリエールの斜向かいに、またしても魔術刻印を施した弓を持って、イシュメルに向けたものがいる。ひとりではなく、ふたり、三人と増えて行き、最終的に八人になった。
その最後のひとりを見て、イシュメルは言葉を失った。口をぽかんと開け、つかの間、呆けたようにその男を見つめていた。
「まさかここで会うとはな、イシュメル」
男はそう言った。年は初老を過ぎたあたりを連想させ、顔は灰色になった髭と、翠のひとみが際立っている。おまけに左の足が義肢になっており、鞘に入った剣を杖のように身の支えとしている。しかしそのまなざしは油断なく、沼全体の空気を釘でも打ち付けたように固く張り詰めたものにする。この目が睨むのであれば、人間は誰であれ、たとえ魔獣であっても怯まずにはいられないだろう。
そんな彼を、ひとはこう言う──〈竜騎卿〉マースハイム・ゴドウィンと。
だが、彼の発した言葉は、その容姿と覇気から考えられないような、意外さを押し殺そうとして失敗した響きがあった。
「マース……そうか、あなたがまた戦場に来るとは」
それはイシュメルも同じだった。彼女は親しげな友人か、もしくは父親を思わせるような声で応えていた。嬉しそうであり、淋しそうであり、またかつ、悲しそうでもあった。この日が来なければよかったのに、と言うような、そんな響きがこもっていた。
だがゴドウィンはその峻厳なまなざしを、ついに揺るがすことなく、イシュメルを見据える。
「かつて部下だったお前が《魔女》だとは、たしかにこの目では信じたくはなかったがな。しかし、どうやら認めざるを得ないようだな……」
何か弁明はあるのか? と問う。
いいえ、という返事があった。
「あなたもわかっていたはずです。私が〈偶像の魔女〉の一員とならざるを得ない理由を。それをなかったことにはできなかった。それだけのこと」
「ふむ、そうか──よろしい。ならば我らは敵同士となる。〈冬将軍〉と呼ばれし《魔女》よ。いまから貴殿の進んだ道の報いを、我らが〈魔女の騎士〉団の手によって償わせてもらおう!」
言うや否や、刻印の弓を構えた騎士たちが、息を合わせたように連続して〈矢〉を放った。先ほどシュヴィリエールが針の雨としたような、そのようなものでは断じてない。精確な射撃、一本一本を見抜いて避けるその動作までを計算に入れた攻撃であった。
しかしイシュメルは、超人的な速さをもってこれを躱し、ときには叩き折った。振り回す長刀は、その刀身が白銀に輝き、時おり〈矢〉そのものを凍結させる魔術を発動していた。
「じつに有難い申し出だが、あいにく私は忙しい身でね。まだそのときではないんだ」
──だから、いまのお前たちの相手はこいつにしてもらおうか。
そう言って、彼女はあるものをふところから取り出した。鋭利なかたちをしたそれは、一見すると、角笛のように大きい。
イシュメルはそれを放り投げ、長刀の切っ先で素早く貫いた。
ぱりんと鳴って、粉々に砕け散る。
途端、彼女の周囲に吹きすさんだ冷たい風が、塵となった破片をばら撒いた。すると、地面が盛り上がるかのように、黒い霧が立ち上り、やがてひとのかたちを為した。
「冥府に候う骸の武者──竜牙兵よ」
現れたのは、骸骨の兵士たち。錆びた鉄剣と腐った皮の盾を構えて、騎士たちの眼前に立ちふさがる。近接戦闘に持ち込まれた彼らは、ただちに刻印の弓を手放して、背中に仕舞っていた得物を取り出した。自分の背丈と同じぐらいの大剣──持っているだけでもやっとと思わせるその剣は、斬魔刀と呼ばれる、対魔獣用の魔術兵装であった。
こうして戦いは始まった。
シュヴィリエールを含めた九人に対して、竜牙兵はその倍近い数で圧倒していた。とはいえ、斬魔刀の白銀の刃は、竜牙兵を突き動かす業魔を祓うために特別な浄めを受けたものでもある。当たれば必殺であった。
しかしイシュメルほどの力を持ったものが呼び出した竜牙兵は、もとがどこかの国の兵卒であったのか、非常に洗練された動きを見せていた。武器は脆かったが、こなれた捌き方で、大振りな斬魔刀の動きを封じ、あまつさえ手傷まで負わせる。
「シレーネ、黙って見ている場合じゃない。使い魔の神威を解放しろ」
戦いが始まってからすぐに、イシュメルは傍らのシレーネに向かって言った。
「なんですって」とシレーネは驚いた声を出す。「しかしこの森でそれを使っては……」
「構わん。やれ」
「しかし……」ややためらったが、あきらめて彼女はうなずいた。
「死の床より目覚めなさい、アルトリオン。太陽より遣わされ、王を導いた鳥の末裔であるあなたの本来のすがたを彼らにご覧入れるのです」
彼女はそう、呼ばわった。
すると、アデリナの傍らにあったアルトリオンの亡き骸が突如として燃え上がった。最初は発火する、というような、竜牙兵との死線と比べてしまえば、小さな変化に過ぎなかった。だがこれを見逃さなかった人間がいた。マースハイム・ゴドウィンである。
「全員、伏せろっ!」
言って、三秒が経った途端。
──彼らは、爆風に包まれた。