2ー12.騎士の登場
「何者だ、貴様」と、少女は言った。
〈暗森〉の黒い木立ちの中で、声の主は問いかける。視線の先には、虹色の水面が照りかがやく沼がひろがり、そこをはさんで向こう側に、ルートが立っていた。黒くツヤのある髪、紅く光るひとみ、そして黒く染まったチュニックをまとった彼を、少女は同性の美少女だと思った。自分がうっかりたじろぐほどの、絶世の美少女に。
その美少女は、にっこりと微笑みを浮かべて少女騎士の問いかけに応じる。
「ボクのことなんて知って、どうするの?」
「質問に答えろ、娘御よ。貴様はいったい何をしていた?」
「どうだっていいことだよ。それにボクにはきちんとルート、ていう名前がある。名乗りもせずにひとにものを尋ねるのは、果たして騎士のすることなのかな?」
ぐっ、と息が詰まる。頰に血がのぼるのを感じながら、彼女は構えた弓を下げ、正々堂々とルートに向かって呼ばわった。
「わが名は〈真昼の星の杖〉に忠誠を誓いし円卓の、十二の騎士のひとり、クナリエールが直系:シュヴィリエール。現在は〈竜騎卿〉マースハイム・ゴドウィンがもとで従騎士を務め、聖堂に剣を捧げるべく、騎士の道を邁進する身である」
「すると、シュヴィリエール、あなたは聖王国の騎士なんだね? どうしてここにいるの?」
「なぜ貴様に答える義理がある。むしろわが問いかけに答えろ、ルートとやら。その方はいましがた魔獣相手に何をしていた?」
詰問するように声が鋭くなる。
だがルートはにっこりと微笑んで、彼女の方に歩き出した──沼の水面を踏みながら。
その場にいたみなが、ルートの行動に目を瞠った。彼は沼に沈むことなく、硬い地面を歩くように、水面を進んでいるのだ。
踏みしめた靴先から波紋がひろがり、朝日を受けながら、沼の面は色彩豊かに照りかがやく。さながら竪琴の弓を弾くように、震える水面は感情の音を立てて、歩調に合わせて韻律を奏ではじめる。
森が喜んでいた。風が泣いていた。
水が踊っていた。土が楽しんでいた。
誰もがただ言葉を失っている中で、ルートの周りの自然は雄弁であった。それは肌がしびれるような振動となって、居合わせた全員の精神を圧倒する。
「動くな。動くと怪我するぞ」
それでもシュヴィリエールはさっと弓を構えて、警告した。引いた弦から光がひと筋ほとばしり、弓の先に青白くかがやく〈矢〉を生み出す。彼女のちからと、弓に刻まれた魔術の刻印が為せる技だった。
彼女は返答いかんに問わず、ルートがこれ以上不審な動きをしたら、あたまを撃ち抜くつもりであった。シュヴィリエールの直感が、この人物を生かしておいてはいけないと察したからだ。
だがルートは構わずに沼を進み、彼女のほうに歩み寄った。だから、彼女は、射った。
ところが、その〈矢〉は直前でふたつに割れて、ルートの両脇をすり抜けた。
彼の目の前には、六芒星の印が入った半球の障壁が顕現していた。
シュヴィリエールはさらに目を瞠る──詠唱も所作もなしに、魔術の攻撃を防ぐ〈盾〉を作るなど、同年齢の魔術習熟度ではとうてい不可能だと、そう思っていたのだ。
魔術師としては、規格外の実力。そして彼女は障壁に刻まれた印を見て、確信し、もはや敵対の意志を隠そうともしなかった。
「その紋様……かたちはいささかちがうが、やはり《魔女》か。先ほど魔獣に対して何をしていたかは知らぬことだが、しょせんわれらが王国に良からぬことを企んでいたに相違なかろう。では、こちらも容赦はせぬ!」
そう言うと、彼女は〈矢〉を三本出現させ、天に向かってこれを射った。そして弓を持ったのとは反対の──左手を、天にかざして素早く詠唱をはじめる。
「われ女神の試練に応えん。若し天の御心に沿うことあらば、矢は千の槍と万の矢となりて、しからずんば、矢は我が身を貫きて、その向いた先にあるものを撃ち砕け!」
途端、天に放たれた〈矢〉は細分化し、無数の光の針となってルートに向いた。それから幾千に閃く切っ先を雨として、彼の肉体に降り注いだのである。
激しい水しぶきが上がる。
けれどもルートは無傷だった。六芒星の障壁が彼を守っていたし、足元から跳ね返る想念の水も、もはや効果がなかったからだ。
「ずいぶんと芸のないことをするね」
「なんだと……?!」
「ボクを倒す気なら、もう少し考えてやってよ。それじゃあリナの剣術に付き合うほうがまだマシだ」
「ふざけ……」
「まあ、落ち着いてよ」
言いかけて、声に詰まった。
ルートはすでにシュヴィリエールの目と鼻の先にいたのだ。
いつの間に?! と言うこともできず、悔しさと羞恥に顔を赤らめる。シュヴィリエールにとって何よりも苦痛だったのは、この場で敵に情けをかけられているという、現状そのものに対してだった。
「このわたしを愚弄するつもりか?!」
「いいや、ボクには戦う気なんてこれっぽっちもないんだ。ましてや殺したいとねがったこともね。死に急がなくていいんだよ、シュヴィリエール」
「くっ、殺せ!」
「ひとの話、聞いてる?」
聞いても無駄だと思ったルートは、そのままシュヴィリエールを突き放すと、そこに〈束縛〉の魔術を掛けた。手足の自由を奪われて地面に転がるその様子は、状況が状況でなければ笑いの種になっていただろう。
「ついでにそのうるさい口も閉じるね」
立て続けに〈沈黙〉の魔術を掛けたルート。ンー! ンー! と閉じた口から喚くシュヴィリエールだったが、それもまた滑稽な一幕を演じるに過ぎなかった。
ルートはそれを無視すると、カレシンとシレーネのもとに近寄った。ことに腕を斬られたカレシンは、出血が止まらず、ついに顔が土気色になり、息も絶え絶えになっていた。シュヴィリエールの登場以来、シレーネは彼の手当てに専念していたのであるが、どうにもならず、ルートの到来にただ困惑していた。
そこに、ルートが手をかざす。
するとどうしたことだろう。
手から光があふれ、血が止まったのだ。
「〈王の癒しの手〉?!」
シレーネの驚愕の声。それから彼女はルートの赤くなったひとみを見て、すべてを悟った。ああ、と嘆息してから、ひざまずく。
「ついに覚悟が決まったのですね」
「そうだね。リナには悪いけど、これはボクの決断だから、ボクがひとりで責任を取ることにしたんだ。だから、もう……」
「いいんです。わたしにこれ以上何かを申し上げることはできませんから。しかし、あの可愛らしい子供が、短いあいだでこんなに見違えるようになったなんて」
ふふふ、とシレーネは笑う。それは子供をたぶらかす悪い大人から、成長を見届けた親戚のような笑い方に変わっていた。
しかしすぐにその笑みを畳むと、彼女は、周囲の異変を鋭く察知して、真顔になる。ルートもまた、その異変に気づいていた。
「シュヴィリエール」
ルートは、彼女に掛けた術を解くと、その名を呼んだ。敵対の心はやはり改まっていないが、その声色の変化を察して、シュヴィリエールはけげんな顔になる。
「近くに騎士がいるんだろう? 早く呼んだほうがいい。これから魔獣が来る。この〈暗森〉のあまたの動植物が、業魔をまとってやってくるぞ」
「なんだと……」
「あなたが先ほど殺した魔獣──」ここでルートはややためらったが、すぐに言葉を続けた。「それがね、仲間を呼んだんだ。おそらくきみもそれでここがわかったと思うんだけど、叫び声が森中に轟いたでしょう? あれが、その合図だよ。森が動いているから時間はかかるけど、もうじきそれが来る」
一秒たっぷり黙って、彼女は返した。
「……ふたつほど訊きたい、《魔女》よ。なぜそれをわたしに告げる? 《魔女》は魔獣を使役するのではないのか? そしてそれを告げて貴様になんの利点があるというのだ?」
「三つじゃないか……まあいいや。端的にいうけれど、すべての魔獣が魔女に従うわけじゃないってこと。そしていまのボクたちは、護らなきゃいけないひとたちがいて、すぐに移動できないってこと。だからその協力を頼みたい。これでいい?」
「ふむ……あいわかった。嘘いつわりのたぐいではないと、信じよう」
ここでシュヴィリエールは、特殊な形状の先端をした、本物の矢を取り出し、天に放つ。ひゅるるると甲高い音を立てて飛んだそれは、頂きまで上がると光と弾けて、森中にほとばしった。
「〈集いの鏑矢〉を放った。これでわが同胞も駆けつけるだろう」ルートたちがうなずくのを見て、シュヴィリエールは改めて口を開いた。「だが、貴様はひとつ勘違いをしているぞ。われわれはレダ川沿いの魔獣退治に協力するために馳せ参じ、わたしはその征討のさなかにはぐれて来たまでだ。確かに絶叫が響き、それに駆けつけたものの、魔獣じたいはあまりの数の多さと、ひとつ飛び抜けてしたたかな個体が……」
と、ここでシュヴィリエールは、顔面を蒼白にして、硬直した。
「まずいな」とひと言。
なにが? と尋ねるルートに、彼女は震えながらも、大声で、言った。
「その個体を捜索中にここに来たのだ! ヤツは、間違いなくここに来るぞ!」
言うが早いか、空気が振動し、〈暗森〉の木々をなぎ倒して、それが現れた。まだらの模様が入った、細長い肢体が、幹のあいまからはみ出るように突き出ている。その先端──頭部と思わしき箇所からは、赤いまなこと、瘴気をまとった舌がのぞいている。
「──ああ、蛟竜だ」
絶望的な声で、シュヴィリエールはその名を呼んだのであった。