2ー11.運命の歯車は動き出す
──小さい時、川に落ちたことがある。
まだ四つか五つのころだ。ユリアさんのもとで手習いを始めたばかりで、聖王国に普及している普遍語の形式的な書き方や、略式、簡易体などを、〈神聖叙事詩〉の本文から抜き書きし、何度も何度も書写させられた。
その「お勉強」がどうにも退屈で、しんどくて、嫌になってたびたび抜け出した。まだ健脚だったユリアさんが、畑仕事に出るすきを狙って、野山を駆け回っていたのだ。
メリッサの家々にまだ人影が見え、友人たちと戯れていたころである。それが魔女:ユリアの記憶──〈箱〉の魔術によって生み出された幻想だったということもつゆ知らず、ただ優しく、夢のように美しい日々に遊んでいたときの、これは苦い思い出。
(ルートはその景色の中に立っていた。半透明の状態で、幼いアデリナとその友人たちの走るすがたを眺めている。これは回想だ、とルートは思った。けれどもボクが知らない記憶だ、とも感じていた)
その友人の名前はもう憶えていない。
だがきっかけはその子だった。
『あの木の枝先まで、登れるか?』
指差したのは、川沿いに生えた柳の木だった。太い幹が川に向かって、老人のように曲がっており、一見すると容易に登りきることができなさそうだった。
けれどもアデリナは受けてたった。そして猿のように、ひょいひょいと効果音を付けたくなるぐらいに素早く幹を登りきり、調子に乗ってその枝のひとつに足を乗せたのだ。
それが、折れた。
前のめりに転落し、背中から、川の深みに入る。さいわい川底にからだを打ち付けることはなかったが、上下感覚が混乱しているので、なすすべなく溺れるしかなかった。
(ルートはあわてて駆け寄った。子供たちのからだをすり抜け、川に近づくと、アデリナの手を取ろうと延ばす。だがその手は掴まれ、ルート自身も深みに沈むことになった)
ひと言でいえば、そこは地獄絵図だった。
混濁した意識が、そのまま再現されたと言っていい。黒一色の水にあぶくが立ち、そのすき間をぬうように、空いた鼻の穴を、口を、耳を、あるいは目や、全身の毛穴から、侵入しようと蠢いている。まるで水そのものが、命を持っているかのように。
じっさいその水は意思を持っていた。昏く歪んだ情念と、執着とを内側にはらみながら、入った人間を徹底的に堕落させるちからで引きずり込んでゆく。
それは痛みだった。苦しみだった。悲しみだった。怒りだった。苛立ちでもあり、焦りでもあり、寂しさでもあり、妬みであり僻みでもあり、あるいは、憎しみにも愛しさにも通じ、根源的には、飢えでもあり、渇きでもあった。これら情念の奔流はけたたましくふたりの意識を押し流し、感情の、より深い〈業魔〉渦巻く大海へと沈めた。
(誰かの泣いている声がする……誰かの嗤う声がする……誰かの呻く声がする……誰かの呪う声が聞こえる……)
いまはどこだ、ここはいつだ?
ルートは困惑と焦燥に駆られた。
すでに意識は焼き切れそうになっている。全身──というより、魂が燃えるように熱かった。この暗闇の中で、正気を保つので精いっぱいだった。何ひとつ見えるものも、触れるものも、味わうものも、嗅ぐものもなかった。ただわかるのは、耳に轟くような、あまたの魂たちの叫び声……
(こっちへ来いと声がする……そっちじゃないと声がする……あっちへ行けと声がする……どっちがいいと尋ねるものもいた……)
と、そのとき、ルートは聞き覚えのある声を耳にして、そちらに意識を集中させた。
それは雄叫びの中でひざを抱える、小さな、小さなむせび泣きの声だった。ルートの意識が近づいてくるにつれ、やがてハッキリと、明晰なものに切り替わる。
アデリナだ。アデリナの声だ。
けれどもルートは、ようやく見つけ出した彼女の魂に、驚愕し、ためらった。というのも、泣き声を聞いてしまったからだった。彼女の魂がすすり泣く、そのわけを。
『帰りたい……メリッサに、あの家の暖炉のそばに、帰りたいよ……』
ルートは驚いた。そして後悔した。
なぜ彼女の不安に気づいてやれなかった。その郷愁を、悲しみを、空虚を、そばにいるはずの自分がわかってやれなかったんだ……自責の念に駆られかけ、それでもルートは理性で立ち直った。
振り返ったところで、もうメリッサは存在しない。ユリアも、ガーランドも逝ってしまった。言うなれば、それはルートが〈箱〉の魔術を内側から破り、アデリナとともに《記憶》を受け継いでしまったからだ。その選択は他ならぬルート自身のものだった。アデリナに強いてしまったものだった。ゆえに彼女が傷つき、悲しんでいるというのならば、その罪はルートが背負わなければならない──そう、彼は直感した。
ならば──ボクが全部担えばいい。
それでリナを救えるのいうのならば、ボクはその罪業を肩代わりしてやる。
ルートは泣き伏したアデリナの魂に、鞘を突き出した。記憶する鞘:メモワール。その美しい造りの鞘は、どんな鋭利な切っ先をも受け止める。たとえそれが、すべてを想起する魔術の刃だったとしても。
「スルヴニール、はるけき古代の言葉で〈想起〉を意味し、ゆえに〈形見の品〉と訳される言霊をまといし剣よ──なんじはあまりに聖すぎる。ためにあらゆる《記憶》を呼びさまし、時に流して忘らるる、昏き情念をすら、うつつに招いて心を惑わす。
どうか〈業魔〉を喚ぶことなかれ。われここに祈りて差し出す──なんじの真に呼びさますべき、《記憶》の在り処を。そのかみに封じられ、忘却に葬られた叡智の数々を。
いま、ここに召喚する。剣よ、わが手に戻れ! 悪しき〈業魔〉を帯びた刃を、わが智慧の光によって浄められよ!」
考えなくても言葉はすらすら走り出た。
鞘に惹かれて、剣が現れる。その刀身は青く光りかがやき、鞘と共鳴しながら、ゆっくりとアデリナの魂を離れて、収まってゆく。やがてまごうことなき一本の、全き剣が完成した。鞘に収まり、〈王〉の腰に佩かれるのをいまかいまかと待ちわびるように、強い光を放っている。
その光が、あふれた。
闇は照らされ、光に変わる。
世界はふたたび、ひっくり返った。
* * *
目覚めると、ルートにはもう何も怖れるものがなかった。
立ち上がり、振り返ると、かつて女だった魔獣と、シレーネの魔術が格闘している。まだ時間はそれほど経っていないらしい。けれども、ルートには、もうすでに何年も昔のことのように思われてならなかった。
だが──彼には見えていた。この先何が起こるのか、その運命の星が行く末を。
〈束縛〉の魔術を破った魔獣が、ふたたび女豹のように駆け出す。その行く先はルートではなく、アデリナだ。けれどもルートはそのあいだに立ち、鞘に収まった剣を、ふたたび抜いた。
ぎらりと煌めく白刃。その鏡のような刀身に映えた魔獣のすがたが、失われつつあった彼女の自我を呼びさます。
魔獣は動きを止める。その赤きまなこは怯えるように揺らめいていた。さながら飼い主の折檻を怖れる、仔犬のように。
「怖がることはないよ。ボクはリナとちがって剣技には疎いから、これであなたを傷つけることも、ましてや殺すこともできない。
でもね、ボクはこの剣のほんとうのちからを知っている。想い出すこと──時に埋もれた《記憶》を現在にありありと甦らせること。嬉しいことであれ、苦しいことであれ、あなたがたがなかったことにしようとねがったあらゆるものを、包み隠さず明らかにしてしまう、これは想起の刃であるということを」
魔獣はもはや人語を発していなかった。
けれども苦悶し、うずくまるように、そのからだを曲げてひざまずく。
ルートはそこに歩み寄り、抜きかけた剣を携えたまま、〈業魔〉に穢れたそのからだを抱擁した。さながら母が子供になすように、優しく、憐れむように。
「苦しかっただろう、悲しかっただろう、なにより淋しかっただろう。ボクはきみのすべてを知っている。いまきちんと知ったんだ。なぜ、いまここに来たのか、何をするためなのか、そしてきみがやがてどうなるのかも……」
抱きしめたそのそばから、藍染めのチュニックが黒に変化する。鎧や曲刀、短剣、五芒星の盾が食い込んだその肉体から、〈業魔〉が移りつつあったのだ。しかしルートはその色を怖れなかった。ただ受け止め、皿まで飲み干すように、全身にそれをまとった。
そして彼の眼前に残ったのは、女の、土気色の肉体だった。ボロボロになった鎧かたびらも、傷つけられた皮膚も、突き刺さった武器もそのままに、ただ赤子のように、泣きじゃくりながら、抱かれるままになっている。
「……申し、わけ、ありません……わたしが……わたしが、愚かだったために……あなたを、かような道なき道へと導いてしまうことになるなんて……」
女は言った。ルートは首を振った。
「いいんだ。いいんだよ。これがさだめだというのなら、ボクは受け容れよう。逃れられない宿命だというのなら、ボクは進んでその道を歩もう。そこにいずれきみが来るというのなら、ボクは微笑んで迎えよう」
──だから、もう、さよならだよ。
それからルートの口が数度動いた。その口が発する音がなんなのか、それは女にしかわからない。しかし女はそれでよかった。嬉しかった。顔をあげ、泪を溜めたひとみで、ルートを見つめると、
ひゅん、と空を切り、肉を貫く音がした。
女の背中に青白い〈矢〉が突き立っていた。振り返ると、その視線の先、〈暗森〉の木立ちの中に、魔術の刻印の弓を構えた少女がいた。金糸を編んだような髪に、翠色のひとみを持ち、〈天極星〉に剣を掲げる紋章──聖刻騎士団の証が入った鎧かたびらを着ている。その佇まいは降り立った御使いが、裁きの弓を引いたようだった。
「おマエは……!」
最後まで言い切ることはできなかった。
少女はふたたび〈矢〉をつがえ、素早く引いて、放った。その矢尻は朝日を浴びて白銀に輝き、鋭く振り向いた女のひたいを貫いた。
驚愕に見開いた、赤いまなこ。その口は何かを言おうとかすかに動いたが、結局言葉を発することなく、女は力尽きた。
途端、恐ろしい強風が吹きすさび、女を中心として闇が現出した。それは逆巻く渦を形成しながら、球形をなし、やがて跡形もなく消え去ったのである。
あとにただひとり、ルートを除いて。
「さあ、運命の歯車は動き出したよ」
彼はそう言って、妖艶に微笑んだ。




