2ー10.ルートの決意
「ガーランドさんッ!!」
ルートの二度目の叫びも、旋風の中には届かない。それは沼の水を巻き上げて、雨となって大地に降り注がれた。ルートを含め、その場に居合わせたものはすべて、その虹色の雨を免れることがなかった。
髪を、頰を、からだじゅうを、想念の水がしとどに濡らす。ルートの着ている藍染めのチュニックも、シレーネのドレスローブも、カレシンの着物も、降りしきる水を吸い取って、肌に想念を届ける。
それは喜びだった。怒りだった。
哀しみだった。楽しさだった。
だがそれだけではない。正と負に揺れ動くさまざまな感情が、明と暗をさまよう多様な情念が、光と闇に揉み消された形のない思い出の数々が、肌を伝って、彼らの脳裡にほとばしった。
いつか、どこか、誰かの、過ぎ去った想いの数々が、駆け抜ける。主語を持たず、述語があいまいで、目的語も定まらない、言葉になりそこねた想いの氾濫が、彼らの意志と心を押しながそうとする。
絶え間ない奔流の中で、かろうじて意識を保った三人が目の当たりにしたのは、それでもなお立っている黒騎士のすがただった。
「そんな……!!」とシレーネがこぼす。
その右手に握った曲刀は、ガーランドの胸を貫いて、血でぬらぬらと輝いている。雨のように降り注ぐ想念の水も、この生命の流出を洗い流すことができなかった。
「愚かだ。まことに、愚かだ」
黒騎士はつぶやいた。背中まで垂れた金色の髪が、毛先まで怒りに震えている。その手元では、白い五芒星を刻んだ盾が、ほのかに光を帯びて携えられている。
「〈真実の王〉の護りのまえで、かような真似をしても無意味だということに気づきもしなかったのか。それとも神聖体系の唯一絶対のちからをまだ信じているとでもいうのか……喪われた、偽りの神々のちからを……!!」
すらりと刃を抜き取る。物言わぬ骸と化したガーランドは、使い捨てられたおもちゃのように突き放され、沼に身を沈めた。
虹色の水しぶきは止んでいた。
樹々の葉ひとつ入らない開けた空に、朝日が白々しく差し込んでいる。その中でただひとり、騎士だけが降臨したように凛々しく立っている。
「やはり、あなたは……〈始源の王〉:オールドーの麾下に入ったものなのですね」とシレーネ。
「オールドー? ちがう。私がこの剣を捧げたのは、〈冥きものの王〉ル=ド様だ。それは真実を包む全き闇、ひとのひとたる全てを知り尽くした大賢者よ!」
「いいえ。その賢き愚王のまことの名はオールドーです。名を歪めてはいけません。その歪みは時の流れの中で大いなる災禍を招くことになりますよ」
「知ったような口を聞く! 不動の真理に名を与え、歪めて戯れたのが何処のものどもか思い出してみるといい!」
騎士は構えなおした。そして沼の浅瀬を踏み付けて、高く跳躍した。そのすね当てには、魔術の刻印が施されていた。
そのまなこの向かう先はシレーネだ。
大きく振りかぶった曲刀が、シレーネの頭上めがけて降ろされようとしている。
だがその手はわずかなところで阻まれた。
すんでのところで、カレシンが横合いから叩き斬ったのである。
秒より短い単位で時間を読み、寸分たがわず打ち込まれたこの斬撃は、しかし、黒騎士の鎧を破壊し、白銀のかたびらを露出させるにとどまった。その輝きは、女がかつて聖刻騎士に名を連ねていたことを示しているのだが、気づいたものは誰もいない。
しかし土煙りをあげながら立ち上がる彼女は、もうすでに騎士ではなかった。昏い情念に身を焼いた、ひとりの戦士であった。
曲刀を、担ぐように構える。
対してカレシンも下段に構える。
そこには微塵の動きも許さぬ緊張が漂っていた。シレーネもルートも、固唾を飲んで見守るばかり。どんな音も、どんな動作も、この緊張を破るには十分すぎるのだと、粟立つ肌が教えている。
一秒が経った。
二秒が経った。
間合いは緩やかに動いていた。
三秒が経った。
女が先に動いた。寸秒ずれてカレシンも刀を迎えうたせる。彼の予測が正しければ、降ろされた曲刀は斬りあげられた刀の峰に払われて、わずかにカレシンのからだから逸れるはずだった。
けれども現実はちがった。
ほんの少しだけ、女が速かった。それは彼女の背中に刻まれた魔術の刻印が、急場の加速に使われたからであったが、カレシンはそれを見抜くことができなかった。
右腕が、飛ぶ。
振り上げられたカレシンの刃は、かすかに女のほおを削いで、宙を舞う。敗北を実感したその時には、かれは、女の回し蹴りを喰らい、激痛とともに下生えに埋もれてしまう。
絶望的だった。この場に居合わせながら、何ひとつなすことができずに立ち尽くすしかない自分を、おのれの無力を、ルートはただひたすら呪うしかなかった。
そのときだった。ルートはみずからの内側に途方も無い空虚を覚えた。胸に風穴を開けられたかのような、痛烈な喪失感。それでいて、どこまでも底なしな、空っぽの〈器〉のような虚しさを。
濡れた肌からなだれ込む情念が、執着が、大群をなしてその空洞に飛び込んだ。しかしそれでも彼の心は盈ちることを知らず、むしろ貪欲に、どこまでも、うわばみのようにすべてを食らいつくそうと内側から這い上がってくるのを感じていた。それは彼自身の意志では制御できない巨大なけものだった。どこまでも心を食らい、獲物を求めてのたうち回り、ついに表皮を破って突き出てくる……
ルートの目の色が、変わった。
青藍石の青から、赤へ。
『──王よ』
どこからともなく、声がした。
それはずっと前から耳に届いていた声──この〈暗森〉が発している声だった。
『王よ、王よ、我らにお命じくださいませ。いまこそ我ら〈梢の御使い〉の馳せ参じ、この悪辣なるものを打ち倒すときでございます。あとは命を待つばかり。どうか、王よ……』
いままで声は聞こえても、意味をつかむことができなかった。それがどうしたことだろう。まるで面と向かって話されているように、明瞭に、意味をもって聞こえている。
彼らは待っていた。ルートの一言を。
彼らは待っていた。「彼」の到来を。
何より彼らは待っていた。王の帰還を。彼ら自身が仕えていた、〈王〉の《記憶》の持ち主の、絶対なる命令を。
だからルートは正視した。眼前の、殺意を漲らせた女に向かって、その赤くなったひとみを向ける。
すると、女は真っ赤な目を見開いた。まるで予期せぬ知り合いに出逢ったかのような驚きようであった。
──その瞬間に、彼は決断した。
「いにしえの〈王〉の、受け継がれた知恵において──〈木霊〉たちに命ずる。あれなるものを、吾を仇なすかの敵から力を奪い、捕縛せよ!」
御意──という返答とともに、森は動き出した。大地が揺れ、空気が震動し、沼の水が波打った。ぐらりと強く足元が突き上げられたかと思うと、その周囲から、巨大な根が女を締め上げるように飛び出した。
女はなすすべを知らず、全身を絡め取られた。手首と足首を枝で拘束され、五角形の磔刑台のように拡げられながら、宙空にその身を掲げられる。白銀のかたびらが陽光にさらされ、心の臓があるあたりに向かって、鋭利なかたちに変形した根冠が突きつけられていた。
「……ああ、あなただったのですね」
と、女は突然悟ったように言った。
「皮肉なことだ。まさかこの時代であなたに巡り会えるとは。そして私があなたの運命を動かすことになるのですね、〈王〉よ」
「なんのことだかわかりません」
ルートは冷ややかに言った。
「けれど、あなたはボクの大事なひとたちを殺し、傷つけた。それだけは許せない。絶対に、絶対に!」
そのひとみは紅く燃えていた。
そして彼は、自分の言葉ひとつで、相手の命を奪える瞬間にまで来ていた。あとはただ口を動かすだけでいい。それだけで、自分を突き動かしている名前のない怪物をなだめることができる。
けれども──それでいいのか?
それで彼らの命が、怪我が元に戻るのか?
起こったのと同様に、唐突に懸念がやって来た。それは焼けた石に水をかけて起こるような、そんな勢いをもって彼自身の決意に曇りを引き起こした。
固くにぎったはずのこぶしが、緩んだ。
と、そのときだった。
「う……あぁ、ルゥ」
アデリナの声が聞こえた。
弱くかすかだが、たしかに聞こえた。
それで我に返った。ルートは紅い目をそのままに、声の方を向いた。
「リナ……リナ!」
駆け出した。倒れ伏した片割れのそばに駆け寄らずにはいられなかった。
だがこれが失敗だった。女は、突如として紅いひとみを燃え上がらせ、手足を縛った枝や根を、力づくで破ったのである。おかげで手首足首からは流血が滴り、捉え直そうとした枝先に引っ掛かれて、全身に傷を負った。けれども女は、もう自我など無くなっていたようだった。鼓膜を引きちぎりたくなるような絶叫をあげると、けもののように跳ね上がったのだ。
「なゼ、ナゼこうマデしテも、アナタハワタシヲ認メテ下サラナイノダ! その女か、災いハアイツガモタラスノニ!」
じっさい、女はすでに人間では無くなっていた。それはひとのかたちをした魔獣であった。背中で破れたかたびらからは、赤い魔術の刻印が目立ち、鋭く血を流しながら、彼女の全身を強化していた。そのために肌は土気色になり、鎧や籠手が食い込んだまま、新たな肉体の一部と化していた。
魔獣と化したそれは、籠手の爪を振りかざし、走るルートの背中に飛びかかっていた。それは豹のごとき、必殺の襲撃だった。
だが、攻撃は宙空で逸れた。
右の肩に短剣が立っていたのだ。
「──借りは返した」
カレシンだった。残った左腕で、ガーランドの短剣を投げたのだ。
均衡を崩した魔獣は、短剣の刺さった肩口か大地に叩きつけられる。柄が地面の支えを受けて、より深く傷つけた。けれども刃はそのままそれの一部になった。
ふたたび立ち上がろうとするそれを引き止めたのは、シレーネだった。彼女は蜘蛛の糸を触媒に、〈束縛〉の魔術を発動させていたのである。
「させない!」
一方ルートは走り続けていた。
沼のふちを半周し、ようやくたどり着いたときには、アデリナは腹痛でも起こしたかのようにうずくまり、苦しんでいた。
「リナ、リナ!」と名を呼ぶ。
だが、アデリナは焦点の合わない、混濁したひとみをルートに向けて、彼の存在をみとめるやいなや、激しくもがき出した。
それは抵抗などという生易しいものではなかった。爪を立て、頰を引っ掻き、犬歯を剥き出しにしてルートの腕に血を流した。その両目は恐怖と怒り、困惑、悲哀がないまぜになっていた。
「クソ……どうすれば、どうすればいいんだ!」
独りごちると、〈木霊〉が応えた。
『王よ……王よ……その娘御は、この世に流れ出たあまたの雑念を喰らいすぎております。それを吐き出させてやらねば、あの魔性の輩と同じ末路を辿ります……!』
「ならばどうすればいい! どうすればリナを救えるんだ!」
『雑念を除けばよいのです……しかしそれは外側からではなく、内側で行うこと。本人の意志によってなされなければ、意味を持たないのです』
「答えになってない! もういい!」
彼は無我夢中になって、アデリナを抱きしめた。アデリナは反応し、今度は首筋に歯を突き立てた。皮膚にしびれるほどの痛覚がほとばしる。力強い噛みが、ルートの首から出血を招いたのだ。
それでもルートは抱擁をやめなかった。すると今度はどうだろう。彼自身の胸の奥から、激しい鼓動が轟いた。
どくん、どくん、どくん
どくん、どくん、どくん
寄せては返す潮騒のようにざわめくこの鼓動は、決して流血の危機感でも、ましてや恥じらいの紅潮でもない。
──歓喜。
ひと言で言い表すとするならば、そうとしか言いようのない高鳴りだった。
なぜ、と問いそうになったそのとき、ルートはアデリナのかたわらにある、金の十字鍔の剣:スルヴニールが視界に入った。
そしてその刀身が、そこに刻まれた模様が、青く光り輝いていることに気づいた。
途端、ルートの胸の中から光が溢れた。
噴き出す水のようにこんこんと、胸の奥から飛び出した光は、ふたつの筋となり、二重の螺旋を描いて、凝縮し、やがて一本のかたちに転じた。それからゆっくりルートの右手に降り立つと、光はそのまま、鞘のすがたを取ったのだ。
「記憶する鞘:メモワール……」
なぜか名前が、おのずと口を突いて出た。
まるで最初から知っていたかのように。
だが彼にそれをけげんに思うひまはない。
直感がそれを使うべし、と告げていた。
「リナ、いま、助ける」
鞘の口をアデリナのこめかみに当てる。
そして視界が暗転した。




