2ー9.激闘
ガーランドは、言葉とは裏腹に、ひどく弱々しい声でそう言っていた。
じっさい彼のすがたは、三人からすれば、立っているのがやっとと言えるほどであった。全身がずぶ濡れで、赤いコートからは澱んだ水が滴り落ち、顔の右側には引っ掻き傷のような赤い線が、幾本も平行して入っている。片眼鏡の掛かった右目は腫れて閉じ掛かっており、なによりも、黒騎士を打ち倒した直後に、ひどく苦しそうに咳き込んでいた。
いったい何が起きている──誰もがそう思い、また同時に、ガーランドがなぜ立っていられるのか、不思議に思っていた。
だがそれを尋ねる余裕はなかった。
また立ち上がった黒騎士が、今度はガーランドに向かって素早く飛びかかったのである。ガーランドはこれに応じることができず、ただ苦しそうに、からだを折り曲げているばかりだった。
「ガーランドさん!」とルートが叫ぶ。
そこに、シレーネが動いた。
「そは天翔ける日輪の遣い。羽根は金色、御足は三つに。西より来たりて東に旭日の旗を掲げよ。爾、大いなる王に道を指し示せ!」
詠唱を終えると、傍らにいた大鴉:アルトリオンが飛び立った。すると、その翼が燃え上がるように黄金に輝き、突風のように素早く駆け抜けた。
位置的にはちょうど真後ろから、黒騎士の後頭部をねらうように、その攻撃は行われていた。もし直撃すれば、致命傷になっただろう。しかし黒騎士は見切っていた。あわや、と思うほど近寄ったその途端、黒騎士は振り返り、曲刀の一閃をアルトリオンに振り下ろしたのである。
交差する閃光──
兜が、飛ぶ。しかしアルトリオンもまた、力尽きて沼の端に落ちてしまった。翼の一部を見事に斬られたらしく、血を流しながら、弱々しく、地に伏していた。
けれどもシレーネは、いま一度現れた光景に目を瞠った。相棒であるアルトリオンの生き死にはもちろん大事であったが、それを越してなお足を凍てつかせるような事態が、そこには広がっていた。
ルートも、カレシンも、そしてガーランドも、表情を強張らせ、驚愕していた。
なぜなら、その騎士の顔は……
「……リ、ナ?」
つぶやいたのはルートだ。
その視線の先には、波打つ金色の髪と、端正な貌、すらりとした背丈に、見開かれたるは、憎悪の念が燃え上がった紅いひとみ……見かけは成人女性のものだったが、顔立ちは総じてアデリナのそれに似ていたのである。
黒鎧の女騎士は、降ろした曲刀をふたたび構えて、ガーランドのほうに向き直る。そのひとならざるまなこに睨まれ、ガーランドの全身の毛穴が縮み上がった。しかし尻込みするわけにはいかない。彼は一念発起して、崩折れたひざを、立てた。
『貴様に「正義」はないのか』
そして先ほど黒騎士に言われたことばを思い出した。
──あのとき。
黒い川に落ち、走馬灯のようなめまぐるしい想念に揉まれながらも、必死にアデリナを抱きかかえたあのときである。ガーランドは右脚を掴む黒い籠手をみとめ、もう片方の足でこれを蹴落そうとした。けれども腕は力強く、決して手放そうとしない。そうこうしているうちに黒の濁流が、からだじゅう、表面から、鼻や耳や口から、空気と引き換えに侵入するのを感じていた。
(憎い……ままならぬこの世が……無常なこの世界が……憎い……わたしの子供が……わたしの大切なものが……大切な思い出が……亡くなった、死んだ、消えてしまった……返して、返して! 女神はなぜ助けてくれないのだ……あの男が、あの女が、あの爺婆が、あの小僧ひよっこが、金が、物が、事が……憎い、滅びてしまえ、死にたくない、失いたくない!)
主語のない想念があった。目的語を持たない憎しみがあった。述語を知らない執念があった。結論を許さない言葉の羅列と、仮定を設けない論理が、悲鳴をあげながらこだまするように軋んでいた。
もしこれをじかに受け止めていたならば、理性は瞬間的に破壊されていただろう。けれどもガーランドは、祈りによってこれを回避した。〈星霊〉への祈り……火であり、水であり、風であり、土である、万物を流転させるあまたの〈星霊〉に、みずからの意思を委ねたのだ。すると、言葉の潮騒は瞬く間に意味を失った。耳を塞ぎ、目を閉じ、口をつむいで、ただ手前のものを護ろうと、我が身の全てを賭けたのだ。
そのときだった。
『そうか、貴様がガーランドか』
ざわめく濁流の中で、声が聞こえた。意識を遠ざけたはずなのに、その声だけが鮮明に耳に──否、精神に届いた。
『なぜその小娘を護る? 貴様の目的は〈星室庁〉の命に──神聖なる女王陛下の王国を、その平和を、とこしなえに護りつづけるのではなかったのか』
ガーランドは答えない。応える余裕もない。ただ精神に響いてくるこの声に、負けないように心を保つばかり。
『貴様のことはよく知っている。幼きころより騎士にあこがれ、気高き理想に心を燃やし、高潔な英雄として武名を馳せようとねがいながらも、その気質ゆえに濡れ衣を着せられて、いまのごとき密偵に零落したことも……』
声はつづける。
『堕ちた身でありながらなお戦うのはなんのためだ? 聖王国の未来のためではないのか? ならばなぜその小娘を庇うのだ? その小娘は、やがて世界の趨勢を破滅へと追いやる悪鬼の娘御だぞ。いまのうちに殺しておかなければ、いずれは途方も無い黄昏を招くことになるのだぞ……』
そのときガーランドは、同僚であるデニスの言葉をも思い出していた。双子の抱えている《記憶》と、その意味するほんとうの内容──すなわち、〈魔王〉の復活を。
『神聖叙事詩』の書き表した内容が、歴史的な真実であったとは限らない。しかしその内容を思い浮かべて祈れば魔術が発動するし、女王陛下の家柄のもとに神々の系譜が引かれていることもまた確かだった。少なくとも、それを指し示す証拠は、教導院の聖賢たちが見事に立証し続けていた。だから信じることができた。
ならば──ならば、同じぐらいの信心を以て、かの双子が宿しつつあるモノを、悪だと信じることができるのだろうか?
信じることは、できた。
けげんに思うおのれを無視すれば。
双子の笑顔を忘れれば。
騎士の正体の怪しさを見なかったことに、できるとするならば。
けれども、それをなかったことにはできなかった。彼自身の気質か、あるいは、抱きしめた腕の中にいる少女への義務感が、そうさせたのか。少なくとも、その決断は、彼が、みずからを密偵に貶めるきっかけになった感情と全く同じ類い──高潔さが招いたものだった。彼を騎士の理想へと駆り立てたあこがれが導いた答えだった。
『それが返事か、情けない。貴様に「正義」はないのか? それとも、目の前の小さな命で揺らぐほどの虚しい「正義」なのか?』
ガーランドは黒い水が入ってくるのも構わず、目を開けた。聴覚を取り戻し、口からあぶくを吐き出した。
そして意志を振り絞って、ふたたび黒騎士の手を蹴り飛ばした。この不意打ちは予測できなかったようで、手は外れた。しかし彼らを巻き込む濁流は、黒一色から極彩色の輝きへと変貌した。
──そのときに吐かれたことばが、力を持って甦る。
それは呪いだった。騎士道物語のように高潔でありたいとねがった、自分自身への。
それは突き立てられた刃だった。叶わなかったねがいの果てに、それでも諦めまいとする背中を突き刺す。
そしてそれは運命だった。なかったことにできなかった、自分の選択の積み重ねによって形成された、逃れ得ぬもの。
『……後悔するぞ』
優しい声だった。ゆえに深く刺さった。
この黒騎士は、まちがいなく情けをかけている。この自分に、それも、自分の運命の行き着くところを知っているかのように。
ガーランドは、みずからの内側に漲る暗いものを自覚した。それを「怒り」とわかるまでには、時間を要した。その間に彼は黒騎士と激しく戦った。持てる魔術のことごとくを使い果たし、短剣による組み打ちにまで持ち込んでいた。けれども黒騎士の動きは素早く、短剣を取り落としたばかりか、爪のある籠手に殴られて、脳しんとうを起こしかけた。
もはや我を忘れていた。黒い水を飲んだことが、それに拍車をかけていた。彼は守るべきアデリナのことを一旦わきに置き、黒騎士と激しく争った。しかし叶わなかった。脚を折られ、沼に沈められ、虹色に揺らぐ想念に身を侵された。そして自分の力不足を、無力を、至らなさを、呪った。
──いま。
彼はまた立ち上がる。それはもはや執念としか言いようがなかった。けれどもそれは取り憑いたものとは別物だった。彼の内側から、こんこんと湧き上がる感情だった。
「認めよう……おれは、弱い。騎士になり損ね……どん底に落ちこぼれながらも……むかしの夢にしがみついた……愚か者だ……」
けれど──と彼はつづける。
「おれは、悔いないぞ。決して、絶対に、絶対にだ。悔いたら、それはいままでの自分を否定することになる……自分にこうであれとねがったものですら、なかったことになる……おれは、おれは! 貴様のような……卑劣な、騎士崩れとはちがう!」
「──御託はそれでおしまいか?」
ざくり、と音がした。袈裟懸けに斬られたのだと気づいたころには、第二撃が容赦なくガーランドの身体を叩き斬っていた。
血しぶきが上がる。じつに呆気なかった。
声を出そうとした。けれども斬られた箇所から空気が漏れて、ことばにならずに血が込み上げてくる。唇から血が溢れ、意識が遠ざかった。
どこかでガーランドを呼ぶ声がする。
遠ざかるさなかに、それはひどく懐かしく響いた。決して忘れてはならないような、痛烈な叫び声だと感じられた。
だからまだ逝くときではないと思った。
「風よ──風を司る、〈星霊〉よ」
ガーランドは血の詰まったのどを振り絞って、詠唱を試みた。それは彼の得意技。死にかけてもなお薄らぐことのない、記憶の中の魔術。思い出の中に秘められた風の魔術だった。
かつてこの技でシャラを慰めたことがあったな、と思い出す。あれはたしか、木の枝に引っかかった彼女の帽子を、取ってやろうとして顕現した魔術だった。まだ力が足りず、また、用途も優しいものだったから、ひとを傷つけるようなものにはならなかったが……
「なんじ風精の御名に掛けて、我、エルレーヌの契約に基づきこれを要請する……」
繰り返し繰り返し、ガーランドの口から詠唱された呪文は、もはや意識がなくても正しく述べられる。以前は指先に集まった風は、しかし彼の全身に集まっていた。彼自身が竜巻の始まりのような旋風を、まとい始めていた。
そのときようやく気づいたように、黒鎧の女騎士が振り向いた。そのひとみは赤く、憎しみに満ちていたが、同時に驚きに揺れてもいた。
──この男、まさか!
そう言いかけた途端、ガーランドと黒騎士は、激しい旋風の中に包まれた。