2.失踪した父親
たまたま近くを通りかかったガーランド氏が、その後のふたりの面倒を見てくれた。
つい最近、ギルドの決まりで村に派遣されたというこの施術師は、離れに住まう老婆ユリアの世話をしてきた帰りだったらしい。
「お父さん、無事だといいね」
村じゅうの信頼を勝ち得た柔和な笑みで、彼はそう言ってくれた。
しかし導師の負担は軽くならない。
なにぶん、リナとルゥ──ラストフの子供たちであるはずの、このふたりがラストフのことをすっかり忘れてしまっているのだ。
それも、単なるおふざけやド忘れの次元を超えて、まるで世界の始まりからそんな人物などいなかったかのように、だ。
なにかが起きている。
とても不吉ななにかが。
そう思わずにはいられなかった。
けれどもそうした不安すら知らず、ふたりはただただ互いの顔をきょとんと見合わせているばかりだった。
「ほんとうに、なにも憶えてないのかい?」
そう尋ねたのはガーランドだ。
しかし、リナもルゥも首を横に振る。
ガーランドはうなった。
「それじゃあ、さっきまでなにをしていたかは、憶えているかい?」
「〈忘れじの花〉を摘んでいたんです」
と、抱えていたカゴを示しながら、ルゥが答えた。すると、ガーランドの掛けている片眼鏡が、西日を受けて鋭く光ったように見えた。
「じゃあ、それより前は?」
「えーっと……」
そこでルゥは自覚する。
小一刻前、つまりふたりが花を摘みに〈不入の森〉付近まで行ったこと以前のことを、なにも憶えていないということに。
同じことを、リナも気づいたようだった。
ふたりはふたたび互いに見合わせる。
「ボクたち……」
「記憶を……」
「消されてる……?」
それは疑念であり、驚きでもあった。
ようやく事態が呑み込めたとはいえ──記憶を消されることが、ほんとうに起きうるのだろうか? という疑問だけが残ったのだ。
導師は渋面でうなるばかりだ。
と、そのときガーランドが眉間にしわを寄せて、あるひと言を口にした。
「これは、ひょっとすると《魔女》の邪術の仕業ではないでしょうか」
つかの間の沈黙。
しかしそれは永劫にも感じられた。
「確かめる必要が……あるやもしれんな」
ようやく導師が口を開いた。
重々しい調子だった。
「ガーランドさん、ふたりに術が掛けられていないか、ちょっとばかし調べてみてもらえんか?」
ガーランドは無言でうなずく。
そして彼はしゃがむと、ふたりの眉間に指を突き出した。瞑目して咀嚼するように言葉をつぶやく。
すると、その指先から、ふたりの頭の中を照らし出すようにぽおっと光が灯った。
白魔術だ。
『神聖叙事詩』と題される聖典の中で「女神の奇跡」と呼ばれた聖なる術の体系。ひとを癒したり、邪術の戒めを解いたりする霊験を持つ、その秘術のひとつを、ふたりは目の当たりにしているのだった。
まばたきを二、三回するぐらいの時間が経って、ガーランドはハッと目を開けた。
そして指先の光を消し、立ち上がると、彼は導師に向かって、
「花の、匂いがします」
と、真剣な表情で言ったのだ。
これにはリナも面喰らった。
「当ッたり前だろ! だってついさっきこの花を摘んできたんだからな!」
「リナはサボってたでしょ」
すかさずルゥが突っ込んだ。
しかし、ガーランドは首を振った。
「ちがう。ちがうんだ。そういうことじゃない。これは……この匂いは、魔術が探知した、つまり君たちの本質に結び付けられた匂いなんだ」
「どういうことだよ」と食ってかかるリナ。
だが、ルゥはその意味を察した。
怯えたような、震え声で応える。
「もしかして……魔術の……触媒の匂いがするってこと、ですか?」
ガーランドはうなずいた。
つまりこういうことである。
誰かが、ふたりの記憶を喪失させるか、あるいは結果的にそうなるような術を掛けた、という痕跡が確かに見つかったのだと。
ばさり、と音がした。
ルゥがカゴを取り落としたのだ。
「そんな……ボクたちに、《魔女》がなんの用があるんだっていうんだ……!」
「落ち着け、ルゥ。まだそう決まったわけじゃないだろ」
「《魔女》じゃなかったら、誰がこんなことをするのさ!」
青藍石のひとみいっぱいに泪を溜めて、ルゥは叫んだ。しかしその痛烈な問いかけには、誰も答えを持つことはなかった。
そこで仕方なくガーランドが割って入り、ふたりを家に押し込んだ。長持ちの上にに取り落とした花のカゴを置いて、カシ材の腰掛けにふたりを座らせる。
「とにかく、誰かが君たちに何かをしたのはわかった。お父さんの行方も気がかりだ。私はこれから導師様とともに、捜索に出るから、申し訳ないけど、ふたりで待っててくれるかな?」
ふたりは俯いていたが、うなずいた。
ガーランドはふたたび笑顔になる。
「君たちは強いね。大丈夫。彼は必ず見つけ出してみせるさ」
明日になったらまたここに来るよ、と付け足して彼は出て行った。残されたふたりにわかったのは、ガーランドと導師とが話す声だけだった。
直後にぽつん、と沈黙が支配した。
まるで時が止まった心地がする。
やがてルゥがぶるりと身を慄わせるそのときまで、ふたりは時間が動いていることをうっかり忘れかけそうになったのだ。
「また、ふたりだけになっちゃったね……」
ルゥはそういったが、言葉はなかった。
しかし、間もなく腹の音が応答した。
不意を突かれ、一瞬きょとんとするが、すぐにルゥはその音の出所を探知して噴き出してしまった。一方笑われた側はというと、すっかり茹で上がったように赤面していた。
「なんだよ、異常事態でも腹は減るもんだろ?」
「やー、リナのお腹がいつも通りじゃあ、ボクも落ち込んでるヒマないや」
「なんだとこんにゃろ」
と、掴みかかろうとするリナだったが、追撃をかますように腹の虫が鳴る。とうとうルゥは腹を抱えて笑い出した。
「ダメだよ。早くしないとお腹に急かされちゃうもん」
そう言ってルゥは、ひらりとこぶしを避けながら貯蔵庫に歩き出した。そして、すぐに食材を抱えて戻ると、調理が始まる。
やがて、ふたりの前には丸パンと豆のスープでできた食卓が設えられた。粗末な食事ではあったが、リナは何も言わずにパンを二、三個頬張り、そのまま、さながら水のようにスープで飲み干した。その豪快な食べっぷりには、ルゥも呆れてしまうほどだ。
「ねえねえ、いまボクたちが置かれてる状況、わかってる?」
「なに、ふぁらがへっては……」ここでパンを飲み込んでから、「腹が減っては戦さはできぬって言うじゃんか。女神様だって『叙事詩』の中でそんなことを仰っていたはず」
と、言いながら彼女はもうひとつパンを取った。これで五個目だった。
ルゥはため息を吐いた。
「『神聖叙事詩』もこんな食卓の言い訳に使われてちゃあ威厳もへったくれもないよ……まちがっちゃないけどさぁ」
そうこう言いながら、食卓の上のものは次々とリナの胃袋に収まった。いちおうルゥも食べていたのだが、向かいの相手の旺盛な食欲に当てられて、見ているだけですっかり満腹になってしまったのだった。
「でさあ、リナ。そろそろボクたちが置かれてるこの状況を、真剣に考えてみようよ」
食器を片付け終えて、ルゥはようやくそう言った。
「やっぱり、ヘンだ」
「というと?」
「ラストフ──父さん、か。まあとにかくその人がアタシたちの記憶から、まるで手品みたいに綺麗さっぱり無くなるって、やっぱりいい気分はしないさ」
その言葉を聞いて、ルゥはホッとした。
「ああ、ボクも同じことを考えてたんだ。お母さんはずいぶん前に亡くなった、ていうのは憶えてるんだけど、お父さんは……なぜか、なにひとつ思い出せることがないんだ」
「でもさあ、魔術ってそんなに綺麗さっぱり記憶を消せるのか? さっきガーランドさんが花の匂い、て言ってたけど……ルゥはあれが何か、わかるか?」
「ううん。ボクが習ったのは『叙事詩』に載ってる白魔術の、ほんの初歩だけだから」
やっぱりダメかぁ、とリナは天井を仰ぐ。
が、そこでルゥがひらめいた。
「ねえリナ。そのラストフって人は、お父さんなんだからついさっきまでボクたちと一緒に暮らしていたはず、だよね?」
「ん……」と、リナは向きなおる。「たぶんそうだと……思うけど?」
何をするんだ? と表情が尋ねていた。
ルゥが得意げに指を振った。
「頭の回転が鈍いね、リナ。お父さんと過ごした時間ってのは、頭の中だけにあるもんじゃないよ」
「えーっと、つまり?」
「もう! 家ん中にお父さんの私物のひとつやふたつぐらいあったってイイ、て話だよ! 少しは頭を使ってよ!」
「るっせ! 回りくどい言い方するからだ!」
ふたりは同時に立ち上がる。
しかし、ぎゃあぎゃあ喚く前に、するべきことがあるのをすでにわかっていた。だから、それ以上は何も言わず、むすっと各自で家の中を駆け回ったのだった。