2ー8.黒い川の秘密
ウソだと思いたかった。
目の前で起こったできごとを、信じたくはなかった。けれどもこの青藍石のひとみは、まぎれもなくしっかりと映像として記憶に納めていた。
脳裡で反復する記憶──それは、生涯片時も離れることがないと信じたきょうだいの、その片割れが落水する様子であった。
しかも、運がないことに、落ちた先が黒い川であった。
〈暗森〉に何度か入ったことがあるというガーランドいわく、黒い川には何か悪い《魔法》が掛けられているとのことだった。それは教導院で巧みな研究を積んだ導師、老師の分析を以てもわからないという、現代に生きる神秘の力でもある。すなわち、川に落ちたものはみな深い眠りにまどろみ、悪夢にうなされるのだとか。
そんなところに落ちたあと、あのふたりがどうなるか、知れたものではない。
「リナぁぁあああ!!」
ルートは叫んだ。どうにもならぬと知っていてもなお、叫ばずにはいられなかった。同時に身体が動き出した。けれどもそれは傍らにいた用心棒──カレシンに止められた。
「離せ! 離してくれ! リナが、リナがぁ!」
と言いかけた途端、彼は転んだ。カレシンが手を離したからだった。
うつ伏せになる。そして、振り向く。
「痛いな! 何すんだよ!」
「離せと言ったのはきみのほうだ」
「なんなんだよ! あなたは機械か何かなんですか!?」
「そうだ。おれは人を殺す機械だ。金さえ積まれればなんでもやる」
ルートは硬直した。いま彼は自分が理解できない隔絶を見つけたような気がした。
「……で、雇い主がいないから、尋ねたい。あそこにいるものは、斬るべきか?」
カレシンはそんなルートの驚愕など気にせず、はたと傍らに目を遣った。
ルートも上体を起こして、見る。すると、木陰の薄暗がりからひとりの女が現れた。赤銅の髪、白い肌、そして金色のひとみ……かような美貌の持ち主が、紅のドレスローブをまとってやってきたのである。
「待ってよ」と彼女は笑って言った。「わたしはあなたたちの敵じゃないわ。さっきの黒騎士からあなたの仲間を助けたじゃないの」
言った側から、その左肩に、大鴉が舞い降りた。アァ、と素知らぬそぶりであいさつの鳴き声をあげるものの、その目は持ち主同様に赤く、独特の畏怖を催した。
「知らん。それを判断するのはこの雇い主殿のほうだ」
「あら、あなたどうしてそんな人間臭い商売なんかやってるの? 毛皮は持ってないの?」
これにはカレシンも不意を突かれたらしい。グッと息を詰め、闇よりも深い黒の気を、瞬間的に吐き出した。が、すぐに自覚したらしく、早々に仕舞い込んでしまった。
「詮なきことを言うな。貴殿は何者だ?」
「つまらないの。まあいいや。わたしはシレーネ。こちらは相棒のアルトリオンよ。わたしたちはさすらいの旅芸人……ああ待って待って、これは半分冗談だから。そうね、あなたがたの言葉に平たく置き換えるなら……」
──《魔女》、ね。
その言葉だけ、やけに浮いて聞こえた。
ルートもカレシンも反応に困る。それを見越したように、シレーネは噴き出した。
「やーね、そんなに真に受けないでよ。別になんかしにきたわけじゃないんだから。ていうか、むしろ手助けしましょうか?」
「そりゃ、どーも」とルート。
「あら、あんまり乗り気じゃなさそうね」
「《魔女》の力を借りたら、あとで何されるかわからないからね」
「やれやれ。おとぎ話の類いを読みすぎだわね、お嬢さん。魔女と取引することなんて、ほんとうはそんなに大それたことではないのだから……」
「……ボクは男だ」
「ごめんなさい。あまりに綺麗だったし、服装もそれだから気づかなかったわ」
くすくす、とシレーネは笑う。
しかしルートは笑わない。
それで? と敵意に満ちたひとみが促す。
「威勢のよさは買うけれど……あなたが第一にしなければならないのはあの子を助けに行くことじゃないかしら」
「言われなくても。だが、あなたの目的はいったいなんなんですか?」
「説明すると長いわ。いまはただ、あなた方を助けに来た……それだけで満足していただける? おいおい、話してゆくわ」
「……わかった」
ルートは肩を強張らせて、頷いた。
「だけど、ボクたちに何かするようだったら容赦しないからね」
「まあ。ステキ」と笑うシレーネ。
しかし笑顔はそのままに、シレーネは、早々に川の下流へと視線を移して、言った。
「さあ、そうと決まったら早くしましょう。この川の水に揉まれたら、あとが厄介よ」
どうやらこの《魔女》も黒い川のことを知っているらしい。ルートはそのひと言で理解した。
森を怒らせるから、明かりは付けませんよ、とあらかじめシレーネは言ってから、ふたりを下流へと導いた。かすかな月明かりと手探りで、川沿いに下る。その道中、ルートは思い切って黒い川について尋ねた。この川はいったいなんなのか、と。
シレーネは直接には答えなかった。
「あなた、魔獣がどうやって生まれているのか、知ってる?」
「いきなりなんですか」──と言いかけたものの、シレーネの声色に真剣なものを聞き取って、ルートは考える──「えーっと、業魔がけものに取り憑いたものだ、と〈叙事詩〉には書いてありました。ボク自身、魔獣にはまだ一度しか遭ったことがないので、書物で読んだ以上のことはわからないんです」
「上出来だわ」とシレーネは、微笑んだようだった。「じゃあその業魔って、どこから来るのか、わかるかしら」
「──いいえ」
まさか〈叙事詩〉をそのままに、〈魔王〉なんて言葉を引っ張るわけにはいかなかった。おそらくこの《魔女》はそれとは違うことを伝えようとしている。そうルートは直観した。
しかしシレーネは、そうしたルートの思考をすべて知っていたかのように、笑った。
「〈叙事詩〉の中身はまちがっていないわよ。だからためらっちゃダメ。それはたしかに冥府から来る。わたしたちはそれを〈死者の世界〉とか、〈氷と霜の国〉とか、〈幽世〉、〈異界〉、〈根の國〉なんて呼んだりするけれど……まあ、要するに、『あの世』から来るのよ。どういうわけか知らないけどね」
楽しそうだった。いままで誰かにそう言い聞かせてやりたかったのを、ようやくいまここで叶えられた、というような愉快な口調で彼女はつづけた。
「その、『あの世』に逝ったものたちが、何らかの因果で情念や執着を『こちら側』に遺してしまう──それが〈業魔〉と呼ばれるモノの真実。けものを魔獣に変えるそれは、ひとの心から生まれてきたものなのよ」
「…………」
ルートはいま告げられたことの意味を呑み込みかねていた。考え込もうとして、下生えに足をひっかけそうになる。
けれどもシレーネは足を止めず、淡々と話を進めていった。
「この森はね、はるか太古の時代は、ひとを寄せつけぬ聖域のような場所だった。人間が生まれるよりもずっと昔に存在した古きものの力が、樹々に宿り、生きとし生けるものを護ってきたからよ。
けれども、だからこそなのか、この森の樹々は、世界の最も深い闇にわだかまった何かを汲み上げてきてしまったの。それが緑を翳らせ、けものを狂わせ、そして川の水を黒く染めてしまった……」
そこでルートは気づいて顔を上げる。頰がけいれんしたように歪み、青藍石のひとみが恐怖に見開かれていた。
「まさか、この川の水は……!」
「そう。だから危険なのよ」
「急がなきゃ!」
「待って。慌てても仕方ないことだわ。むしろ足元に注意なさい。あなたも二の舞になるだけ」
諭されて、ルートは歯噛みした。けれども彼はそれを無視するほど愚かでもなかった。ただ歯を食いしばって、シレーネの先導のもと、黙々と川を見ながら、進むばかり。その間、彼らは奇しくも魔獣に出遭うことなく、ひたすら静かな樹々のあいだを進んでいった。
やがて月が西の空に揺れ、東の空が朱に染まるころ、彼らは〈暗森〉にしては珍しい、ひらけたところに出た。
そこは小さい沼だった。黒い川の流れつく場所でありながら、その水は黒くはなく、むしろ陽の光を浴びて、虹色に乱反射している。それが却って不気味に思えて、一行の警戒心を強く煽った。
「おかしいわ……前に来た時はこんな色ではなかったのに……」
シレーネも困惑していたようだった。
あたりを見回すと、暗闇をまとうような樹々が、この沼を避けるようにして一定の距離を取って生えているのがわかった。代わりに苔むした岩や得体の知れない水草が視界に凹凸を設けて、すべてを見渡すことは難しかった。そこで三人はふちを歩きながら、漂着したであろうふたりを探すことにした。
するといままで沈黙していたカレシンが、ぬっと太い腕を上げ、たまたま見えた沼の対岸を指差した。
「あそこだ」
「リナ!」
そこにはアデリナが打ち上げられていた。仰向けで、気を失っているようだった。ルートは彼女の名前を繰り返し呼ばわり、沼のふちを走ってそばに寄ろうと試みた。
しかしその途中で、沼から何かが飛び出してくるのを、カレシンが庇った。そのわき腹をかすめたのは、一本の短剣。鋭く過ぎり、奥の木の幹に突き立てられた。ルートは倒れざまに短剣の柄を見て、ハッと息を呑んだ──それはガーランドが持っている短剣だったからだ。
激しい水しぶきを上げながら水面に現れたのは、黒の甲冑。左手は白の五芒星が刻まれた盾を持ち、右手は投擲直後の構えを取っている。
「黒騎士!」とシレーネが叫ぶ。
その声に応ずるかのごとく、黒騎士は面を上げ、ルートたち三人を視認した。ルートはそのさい、兜の物見からぎらりと輝く紅いまなこを見た気がして、背筋が凍るような怒りと、それから恐怖が、おのずと込み上げた。
──似たような恐怖を知っている。でも、どこで? ルートが自問すると、すぐさま答えが返って来た──魔獣だ。鋭い直観が、あの黒騎士と魔獣とは同類なのだと悟らせた。
新たな敵を発見した黒騎士は、素早かった。腰に佩いていた剣を引き抜く。それは剣というよりは、東部辺境のその先──〈砂海〉と呼ばれる異教の地で使われるような湾曲した片刃の刀剣であった。その、騎士としての異様な取り合わせは、ますますかの黒騎士の素性を暗く歪んだものに見せていた。
カレシンも素早く得物を取る。こちらは細長い反りのある刀剣で、これもまた異国の風土より産まれた武器であった。彼はルートを背後の樹々に隠し、黒騎士との適切な間合いを図ろうと、足を運んだ。黒騎士もまた、その挑戦に応じて、沼のふちに登ろうとした。
と、そのときだった──
黒騎士の動きが鈍った。最初はけいれんしたかのようにその身を慄わせ、それから激しく抵抗するように手足を動かす。しかしその試みは虚しく、見えないものと格闘するように滑稽な挙動を演じていた。
カレシンはこれを好機と見ていたが、攻撃には踏み出せなかった。間合いが遠すぎたうえに、沼の妖しい輝きが、近寄るべきにあらずと思われてならないからだった。だがあわよくば斬撃を加えてやろうと、構えを一撃必殺のものに切り替えてはいた。
すると、黒騎士は、見えない手に突き飛ばされたかのように、仰向けに、沼に叩きつけられた。
ふたたびあがる水しぶきに視界をさえぎられながら、三人はやがて、その向こう側に立っているすがたを見出した。
「やれやれ……見くびられた……ものだな」
ガーランドで、あった。