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第2版  作者: 八雲 辰毘古
魔女の騎士篇
18/57

2ー7.剣は憶えている

‪ 日はとっぷりと暮れ、うす暗い闇があたりを覆っていた。けもの道にも似ているやぶの小径(こみち)を進み、月がようやく木陰から差し込もうという頃に、一行は休止して、食事を()ることにした。‬

‪ 隊商から分けてもらった食料は、堅く焼かれたパンと、()し肉、そして二、三種類の果実ばかりであった。彼らは火を()くこともできず、黙々と、これらを口にした。堅パンを砕く乾いた音と、肉を噛む音が交互に交わり、重なり、そして止んだ。‬


‪「それでさ、」とアデリナが口を開く。「アタシたちがこれから向かうっていう、その、〈暗森(くらもり)〉ってのは、いったいどういう場所なんだ?」‬

‪「東部辺境では随一の人外魔境さ」とガーランド。「王都の北東、〈巨鬼(トロウル)山脈〉を越して大河アンカリルに遮られるまでの一帯に広がりつづけた大きな森で、溢れんばかりに木が生えている。あまりに木が密生しているので、昼日中(ひるひなか)でも光が差さず、薄暗いままだという」‬

‪「そうか。だから〈暗森〉……」とルート。‬

‪「〈星々の女王〉や〈月の宰相〉の力が及ばないこの領域は、魔獣や妖魔の温床(おんしょう)にもなっている。時おり人里に降りて被害をもたらすことだってあった」‬


‪ と、ここでカレシンが口を開いた。‬


‪「──森そのものが《魔女》の巣窟(そうくつ)か何かなのか」‬

‪「おそらくは」ガーランドの声はあいまいだった。「しかし私の記憶が正しければ、見つかったという報告はまだない。ただ最悪の可能性として留保したほうがいいのは確かだろう。私もあの森について全く無知というわけではないが、もう五年近くまえの知識だから、確実な安全は保証しかねる」‬

‪「了解した。ならばまず、貴殿が知っていることを教えてくれ。ずぶの素人(しろうと)よりは圧倒的に参考になるからな」‬

‪「ああわかった」‬


‪ ガーランドはまず、〈(ルク)〉の魔術を弱く行使し、手元をよく見えるようにしてから枝を取った。それから円を描くと、聖王国の普遍語で、〈暗森〉と記した。‬


‪「この向きを北と置くと、」かれは矢印を書き込む。「われわれがいまいるところは、南東の、〈梢道〉から外れたこの地点になる。繰り返しになるけど、〈暗森〉の西側には〈巨鬼山脈〉があって、西の境になっている。北は大河アンカリル、南は〈凱旋街道〉だ。このうち人界に近い南の街道側は、森の侵食を防ぐために柵が築かれている。だから途中退場はできない。通ると決めたら西か北に向かうしかない」‬

‪「だが北に向かうと、レダ川の下流にぶつかる。しからばまた別の『魔獣』に出くわすことになるだろう」‬


‪ カレシンがすかさず、別の枝でアンカリルに流れるレダ川の筋を書き足す。そして、鋭くバツ印を加えた。‬


‪「となると、〈巨鬼山脈〉に向けて一直線の道筋を取る。これで目的は決まった」‬


‪ ガーランドの枝が右から左に引かれた。そしてその終端に記された矢は、山脈を示す三角の記号に向けられた。‬

‪ 〈光〉を消す。つかの間視界が黒に染められたが、すぐに月影がほの黄色く気だるい光を投げかけた。‬


‪「では、われわれは明日、日の出とともに〈暗森〉に入る。理由はふたつ。われわれの体力を養うのと、時間感覚を狂わせないためだ」‬

‪「時間感覚を……?」とアデリナ。‬

‪「あの暗闇の中にずっといると、昼と夜の区別がつかなくなるんだ。そうなると私たちの感じる時間の流れが早くなったり遅くなったりするんだよ」‬


‪ しかしアデリナにはよくわからなかったようだ。目を点にして、必死に理解せんと腕を組む。その頭の傾きは、見れば見るほどかしいでゆく。‬


‪「リナ、きみは黒騎士のことを忘れていやしないか? 先回りされてしまえば、こうしてきた工夫も無駄になる」‬

‪「ん、ああ、なるほど!」‬


‪ どうやら納得したらしい。‬


‪ それから一行はガーランドから〈暗森〉の話を聞いたあと、寝る支度に入った。‬

‪ 敷物を敷いた上に横になった彼らは、自らの周囲に張り巡らされたさまざまなものを胸のうちに想った。アデリナは昨日から背筋に離れない不安を、ルートは魔術の心得とこれからのことを、そしてガーランドも、自分の置かれている状況の、大局を考えながらゆっくりと眠りに落ちていった。‬

‪ 唯一カレシンだけが、何を考えているのかわからない素振りで、静かに夜を過ごしていたのだった。‬



‪   *  *  *‬



‪ 寝覚めの悪い朝を迎えると、一行は〈暗森〉の入り口に歩いていった。‬

‪ 森へと足を踏み入れたアデリナとルートは、暗鬱(あんうつ)とした空気がぬらりと全身を包むのを感じた。しかしそれはすでに知っている感触だった。メリッサの外れ──〈不入(いらず)の森〉のそれなのだ。それはもうかたちとしては何も残されてはいないものの、彼らふたりの心の中にしっかりと刻み込まれた記憶であった。‬

‪ しかしそれは初めのうちだけだった。‬

‪ ここは記憶の中にある、かの森とはやはり別種の異界であったのだ。‬


‪『〈暗森〉の中では、次の三つのことをしてはいけない。‬

‪ ひとつ、火を焚いてはならない。‬

‪ ひとつ、けものを殺してはならない。‬

‪ ひとつ、黒い川には入らず、その水を飲んでもいけない』‬


‪ 昨夜の言われたガーランドの言葉が脳裡に浮かんだ。‬


‪『あの森は生きている。比喩なんかじゃない。私は〈木霊(こだま)〉と呼んでいるが、まるで木々がほんとうに意識を持って目でものを見ているように、侵入者に過度の緊張を強いるんだよ。あの森が真に恐ろしいのは、そこなんだ』‬


‪ じっさい、その通りだった。‬

‪ 彼らを取り巻く木々は、はじめはカシやハシバミ、サンザシといったよく見知ったものであったが、次第に、コケに覆われ、黒ずんだ葉を生い茂らせた気味の悪いものにすり替わっていった。その幹や枝はツタカズラをまとい、蜘蛛(くも)の巣が張られ、得体の知れないけものや虫たちが鋭い眼光が飛び交っていた。‬

‪ こうした樹林のドームを進むうちに、ルートは、木々の狭間から漏れてくるささやき声を聞いたような気がした。それはもちろん人間の言葉ではなかったが、しかし彼は、どこかで聞いたような、立ち止まって耳をすませばきっと意味を聴き取れる類いのものに思えた。‬


‪「──、──!」‬

‪「……?」‬

‪「──! ──!」‬


‪ 尋ねる調子、訊き返す様子、疑念、観察、戸惑い、そしてそれは次第に確信と歓喜の(ふる)えに変わろうとしていた。ルートにはその言葉らしきものの意味がわからなかった。けれども歓喜の対象が自分に集まっているという感覚は、まぎれもないと直感していた。‬

‪ どくん、と心臓が脈を打つ。まるで自分自身、木々の歓喜に応ずるかのように。‬


‪ そのまま二つの夜と三つの日が過ぎた。‬

‪ しかし森はいつまでも暗かった。‬


‪ 食べ物はだんだん切り詰められていった。乾し肉を少しずつ、切れ端だけをよく噛んで腹をごまかすようにしていたが、あまり先は長くなさそうだった。果実は鮮度の都合で早々に食べきり、堅パンはまだ四、五日分残っていたものの、アデリナの空腹はそれでは満足しなかったのだ。‬

‪ 五十歩行くたびに腹が鳴った。その都度彼女はほおを赤らめたが、もはや忍耐も底を尽きたようだった。三日目と思しきその晩には、疲れも相まって、ぐったりしていた。‬


‪「力が出ない……」‬


‪ つぶやいた声よりも、腹の音のほうが大きかった。すでに恥じらいすら捨てていた。彼女は敷物の上にうつ伏せに倒れると、大の字に広がっていた。‬

‪ ぐるりと仰向けになおる。‬


‪「ああ、ルゥの作った煮込みが懐かしいよ……温かい肉汁に浸したパンの味が恋しい……」‬

‪「リナ、余計なことは言わないでよ! こっちまでお腹が減るじゃんか……」‬


‪ ルートが反論すると、くぅ、という音がそれに続いた。‬

‪ だが無慈悲なことに、その日の食事もまた相変わらず、破片のような乾し肉と堅パンを、ひたすら噛むだけだった。‬


‪ そしてガーランドとカレシンは、食べながらしきりに方位と地理を確認していた。‬

‪ 密に生い茂る葉のため空を(あお)げぬ現状において、彼らが頼ったのは、〈星針儀(せいしんぎ)〉と呼ばれる、導きの星を差す魔術の道具だった。銀の針を(もっ)て、天球の極に立ち、決して動かぬという〈天極星〉の位置を示すこの小道具は、ガーランドの手元で揺るぎなく北を指していた。‬


‪「方位だけ見れば、いちおう進んではいるようだな」とカレシン。‬

‪「時間感覚が狂ってなければ、今日で三日目になる……明日の移動中に黒い川が見えてきて良い頃だな。これを渡れば、〈妖精の小道〉に出られる。分岐を間違えなければ、あと六日で出られるはずだ」‬

‪ ガーランドの言葉に、アデリナが反応する。‬

‪「え、それマジ?!」‬

‪「飽くまで早ければ、だね。確証はないよ」‬

‪「はァ? なんだよそれェ!」‬


‪ もはや悲鳴に近かった。‬


‪ ──こうしてまた夜が更ける。明日からまた歩き、多少見かけは変わっても相変わらず鬱蒼とした森をひたすら進むだけの一日が、まだしばらく続くと、そう誰もが思っていた。‬


‪ ところがそうはいかなかった。‬

‪ その夜に事態(こと)は動いたのだ。‬


‪ 下弦の月が昇るころだった。〈暗森〉にその光はほとんど差さないものの、かろうじてそうだとわかる仄白(ほのしろ)さがあたりを包むころに、異変は起こりつつあった。‬

‪ まず反応したのはアデリナだった。彼女は、いつかこんな日が来るだろう、という直感を、タリムの街を出て以来、ずっとどこかで感じていたのだ。‬

‪ ぴりぴりと肌が張る感触が、ここ数日で一番激しかった。これは断じて悪い予感などではない。敵意だ。それも明確にこちらを向いている。そう直感した途端、彼女は白布に包んだかの剣:スルヴニールをはらりと手に取り、身構えた。‬


‪ すると、どうしたことだろう。‬

‪ その刀身が、青く輝いていたのである。‬


‪「……お前も不安なんだな」‬


‪ 独語する。彼女に続いてガーランドやカレシン、遅れてルートも反応する。スルヴニールの刀身から発する青い光に、彼らはただならぬ不安と焦燥に駆られた。‬

‪ しかしアデリナは、その刀身の鏡のような刃にすうっと魅入(みい)られていた。そこには彼女自身の見つめる青のひとみが宿り、さらに乱反射するように、心象が乱れて精神に映し出されていた。‬


‪(折れた枝……伸ばして空をつかむ手……背中から落ちる……水しぶき……止めどを知らないあぶく……溺れる、溺れる、溺レル……)‬


‪(タカの鳴き声……赤い髪の女……悲しい……涙のような雨……笛の音……泣き叫ぶ女のひと……)‬


‪(胸を貫かれたガーランドさん……片腕を斬られたカレシンさん……赤い瞳のルゥ……みんな倒れている……アタシ、アタシは……!)‬


‪「──ろ!」‬


‪ えっ、という間もなかった。‬

‪ 肉を裂く音がしたような気がした。しかしそれが耳に入るころには、すでにアデリナの身体は背後の幹に叩きつけられていた。‬

‪ うめき声すら出てこない。‬

‪ ガーランドは素早く動いて、目の前に障壁を展開した。第二撃は目に見えてはばまれた。間髪入れずに放たれた、何か。‬


‪「カレシン、ルゥを連れて逃げろ!」‬


‪ そう叫ぶと、ガーランドはアデリナの容態を確認した。その左肩に突き立てられたのは、光の矢だった。青白く光ったそれは、三日月のようにその先端が鋭い。だがガーランドが驚いたのはその武器の威力ではなく、内容そのものだった。‬


‪「〈(サギタ)〉の術?! まさかこの攻撃は……」‬


‪ だが最後までつぶやく余裕はなかった。‬

‪ 障壁を破ろうと、激しい追撃があったのだ。ゆえにガーランドは、〈矢〉もそのままにアデリナの身体を抱きかかえ、木立の陰を飛び移りながら、カレシンたちの進んだあとを追わなければならなかった。‬

‪ 青く光る〈矢〉が飛ぶ中を、必死に駆ける。アデリナに刺さったそれが目安になっているのか、狙いはかなり正確だ。ジグザグに動いてこれを避けていたが、その分前走との距離が開き、ガーランドは焦った。そしてどれくらい走ったかわからなくなるころに、川があるのを見つけた。魔術で夜目を効かせても川の底が知れず、したがってガーランドはそれを黒い川であると判断した。見れば、向こう岸からこちらにロープが伸びている。(かぎ)付きのロープで、その先端は手前の舟に掛けられていた。‬


‪「はやく、はやくこっちに!」‬


‪ ルートの声が聞こえる。どうやら向こう岸でもう片方の端を持っているようだ。賢いな、とガーランドは思う。しかし、運んでいる途中で敵の前に自分のすがたを無防備に晒すことになってしまう。‬

‪ そこでガーランドは、アデリナの肩に上着を重ねて、なんとか〈矢〉の光を弱めようとした。あまり効果はなかった。しかしないよりはマシだと思い、そのまま舟に乗った。案の定〈矢〉が飛んでくる。しかし舟の上なので、安心して障壁が使えた。‬


‪「いまだ、引っ張れ!」‬


‪ そうして舟は黒い川の急流を横切った。ガーランドは、このまま〈矢〉の猛攻をしのぎ切れることを祈った。しかし向こうもこれ以上の〈矢〉に意味はないと悟ったのだろう、闇夜でもあからさまな馬の(いなな)きとその足音が、重たい漆黒のガウンを羽織(はお)って突進してくるのを目撃した。‬


‪「早く! もっと早く! でないと奴が来る!」‬


‪ ガーランドは怒鳴った。そして術で凝らした夜目でねらいを定め、彼自身、反撃に打って出た。真空の〈(ラーミナ)〉の術。風精(ジルフェ)への祝詞と、円月輪(チャクラム)を投げる仕草を意識的に再現することで、魔狼の群れを瞬殺したあの魔術が解放される。‬

‪ この闇夜だ、決して見えまい。相手もおそらく人間であるからには、心苦しいが、この一撃を受けたらひとたまりもないだろう──そう思っていた。‬


‪ しかし、(かわ)された。‬

‪ 馬の頭を低くさせ、自身は()()る。それだけのことだった。だがよりによってこの〈暗森〉の夜に、そんなことをやってのける人間が、果たしていたのか。ガーランドは自身の目を疑った。そしてその一瞬が、勝負を決めた。‬


‪ あと少しだ。あと少しで対岸だったのだ。‬

‪ けれどもその直前で乗り手は川岸を飛び越えた。川の上に空いた枝の狭間から、わずかに月影が差し込む。それで十分だった。少なくとも恐怖の記憶に刷り込むには、それだけでもあまりあるほどの光の演出だった。‬

‪ 黒い馬に、黒い鎧。顔すら黒い(かぶと)で覆われ、唯一白刃だけが閃いていた。そしてその剣は、ちょうどアデリナが撃たれたときに取り落とした、あの剣であったのだ。‬


‪ もうダメだ、とガーランドは思った。‬

‪ あと心臓が数回脈を打ったあと、振りかぶられた刃にその身を刻まれる──そういう未来の像をむざむざと思い描いてすらいた。‬

‪ そしてその想像がまさに現実になろうという、そのとき、彼はカラスの低く(しゃが)れた鳴き声を聞いた気がした。‬


‪ 月影に黒い一閃がほとばしる。‬

‪ 馬と人が切り離された。馬はそのまま狂ったように対岸に、人は仰向けに吹っ飛びながら、黒い川にしぶきを上げて落ちていった。‬

‪ 馬の方がどうなったのか、ガーランドにはわからない。しかし黒い川に上がった波としぶきは、舟を横転させるには十分な威力を誇った。彼らは丸ごとひっくり返り、入ってはいけないその中に身を放り投げられたのである。‬


‪「リナぁぁあああ!!」‬


‪ カレシンに身体を掴まれながら、ルートはただ、叫ぶことしかできなかった。‬

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