2ー6.黄昏に迫る影
木洩れ日が優しく馬車を包んだ。
秋の爽やかな日差しだ。カシの葉のあいまよりこぼれ落ちるこの光は、慈雨のように温かく街道を照らしていた。
──まだほがらかな昼下がりである。
ふあ、とあくびが溢れる。アデリナだ。彼女はルートとともに町娘風の衣装に包まれ、箱の中に仕舞い込まれた人形さながらに鎮座している。その様子は傍からみても微笑ましいほどにあつらえ向きだったが、彼女自身は退屈そうにしていた。
いっそ向かいのルートのように眠ってしまえれば、と思う。しかし彼女の直感がそれを許さない。タリムの街を発って以来、肌が粟立つような感覚が離れないのだ。それがなんなのかわからないのが、却って心を苛んだ。
予定通り街を出た一行は、王都に向かう〈凱旋街道〉に乗るために、いったん北西に数里ほど進み、そこから〈梢道〉に入った。カシや楡、ポプラが道沿いに並ぶこの道では、小鳥の鳴き声が秋の乾いたそよ風に吹かれて心地よく響いている。木々の葉は、先は色づきつつあり、時おり見かける沢やため池に落ちているものもあった。
いくつもの里標塚が視界の端を横切った。みるみるうちに太陽は中天に達し、吊るし糸を切られたように素早く黄昏へと傾きだした。あいだに二度ほど休憩が挟まれて、軽い昼食と、陽気な雑談が繰り広げられた。そこではしかし、思った以上に平凡で退屈な旅路への嘆きの声があがった。
「マァ安全な道筋を立てて進んでいるのはまちがいないし、それはそれでけっこうなことだがよ。こんなに退屈だとあの魔獣騒ぎはいったいなんなんだって話だよな」
用心棒のひとりはこうぼやく。
「それだけ騎士団が抑え込んでいる、ということだろう」
ともうひとりが言う。この黒い髪の男は、つねにこういう冷然とした態度で、無愛想な受け答えをしていた。
「けどよォ、襲われるかも、てあんなに言われてぴりぴりしていたわりには、骨折り損って感じがするわ。いい加減おれも腕がなまりすぎて、お払い箱にされちまいそうだよ」
「別に正面から向き合って殺すことがわれわれの仕事ではあるまい。しかし軽いのは口先だけにしておいてくれ。旅路はつねに油断ならないものだ」
「へへ、まさか帰るまでが遠足ですなんて言うんじゃねェだろうナァ」
ところが、そろそろ〈梢道〉も終わりに差し掛かろうとしたころだった。
背後からかすかに馬の足音が聞こえて、一行の緊張感は掻き立てられた。しんがりを務めていたガーランドは、真っ先に気づいて向きなおる。手早く〈遠見〉の術を用いて、梢のあいまより、近寄るものの正体を見据えようと試みた。
それは、一騎の乗手であった。
「待て、あれはギルドの伝令だ」
魔術で視認したガーランドは、素早く報告した。果たしてその通りだった。栗色の馬にまたがるそのものの背中には、ギルドの旗印──七曜のひと柱、商いの神メルクールの象徴たる赤い壺と交差する錫杖を記した旗が見えたからだ。
一行は立ち止まった。馬車からアデリナとルートも顔をのぞかせている。その視線の先には、伝令と話し合うガーランドと、その他複数の主だったひとびとがいた。
「よかった、その様子だとまだご無事のようですね」
開口一番、汗だくになりながら、かろうじて吐き出した言葉がこれだった。傍らの男──この隊商の長であり、名をグスタフと言った──から水袋を受け取り、十分に呼吸を整えるのを待ってから、改めてガーランドはたずねる。
「いったい、何があったのですか?」
「今朝あなたがたが発ってから、不審なものがわたしどもの会館を訪ねてきたのです……」
男の言うところによれば、それはこういうことだった。
全身黒づくめの甲冑で覆われた騎士が、会館の戸口に立ってシャラ・エヴァンズを呼ばわり、青年と双子のことをたずねたという。これだけでもかなり限定的だったが、あろうことか容姿と名前、それに王都が目的地であることまで知っていた。
『取り急ぎ伝えねばならないことがある、どうか進む道をご存知なら教えていただきたい』と言葉遣いは比較的丁寧だったらしい。
『なら、さきに名を名乗りな。でないと信用が効かないからね』とシャラは強く出たものの、黒騎士はにべもなかった。
『名はない。少なくとも公けに名乗れるようなものは何ひとつ残されていない』
『どういう意味なンだい?』
『言葉通りの意味です』
こうした問答の末、シャラは、しぶしぶというていを装って、偽の道筋を教えた。しかし王都へ向かう道で〈凱旋街道〉を外すことはできないので、そこだけは偽らず話した。すると合点したように黒騎士は頷き、そうそうに立ち去ったという。
しかしシャラはその背中に負われた盾の紋章を見て、息を呑んだ。なぜならその盾は黒く塗りつぶされた上に、白い五芒星が刻まれていたからだった。
「五芒星……《魔女》の刻印? しかし街中でそんなおおっぴらに……妙だな」とガーランドは訝しむ。
「警邏のものには連絡したのか? そんな身なりでタリムの市門をくぐれるとは到底思いがたいが」とグスタフが口を挟んだ。
「それが、誰も入ってきたことを知らず、出て行くときは衛士の厩舎から馬を一頭盗んでそのまま逃げたとかで……」
「なんだと。そんな輩、騎士の風上にも置けない」ガーランドは怒りをにじませた。
グスタフが咳払いをした。
「とにかく、その黒騎士がわれわれを追跡している、ということで合っていますかな」
「はい。〈凱旋街道〉の本道で追い抜かれたか、追い掛けられつつあるのか、まだ判然とはいたしませんが」
「シャラ殿が教えたという道とは?」
「トルキーン郷へ向かう南西の〈谷間道〉を──〈凱旋街道〉に行く最短距離です」
ここでガーランドは噴き出した。
「シャラめ。なかなかの策士じゃないか。あの界隈は魔獣退治のために出動した辺境騎士団が使っているはずだ。だから私たちはこっちの道にしたんだからね」
「しかし……例の黒騎士がそれを知らないまま是としたのも、不可思議な話ではありませんか?」と伝令。
「……たしかにそうだな」
やれやれ、とグスタフが後頭部を掻く。
「ガーランドさんよ。少々早とちりしちまったみてえだが、こいつぁ結構面倒なことだぞ。こちらは集団だ。単騎で突っ走られちゃ簡単に追いつかれちまうよ」
「ではどうしろと……」
「もう潮どきだ。分かれるんだよ。やっこさん、結局ねらいはあんたたちなんだろ? だったら無理して街道なんて目立つところを進む必要はねぇ。わざわざ捕まりに行くようなもんだからな」
「ですがここから街道を外れたら、〈暗森〉を通ることになります。それはあまりにも危険です」
「ならうちの用心棒をひとり貸そう──カレシン」
「はい」
呼ばれて現れたのは、黒い髪の男だった。その灰色のひとみは感情を示さず、冷たい印象を受けずにはいられない。
「契約変更だ。いまからきみは、このガーランドさんの下に付く。そしてあの双子ちゃんとともに〈暗森〉に入り、王都まで護衛する。いいな?」
「了解した。違約金と再契約の金額は幾分か前払いできるのか?」
「やぶさかではない」
「なら、是だ」
そのままカレシンは双子を迎えに行った。
「よいのですか? 盗賊などに襲われる危険性もないとは言えないのに」
「なに構わんさ。〈凱旋街道〉に入れば、ギルドの管轄下だから、どうとでもなる」
ガーランドは頭を下げた。
「ご好意感謝します。上にはきちんと報告いたしますゆえ」
「おう。たっぷり色を付けておくれ。それ以外の美辞麗句にゃ興味がねえんだ」
それから一行は〈凱旋街道〉の見える別れ路まで進んだ。そのあいだに日はますます落ち、空が赤く黒く塗りつぶされていった。
いささか険しい勾配を登りきったところに、夕日に照らされた〈凱旋街道〉の雄々しい光景が目の当たりにされた。かつて〈大統一戦争〉のとき、あるいは〈魔女戦争〉のときに聖堂騎士団が踏み固めたというこの道は、まさにひとの歩んできた歴史そのものの寓意のようでもあった。
丘の上からこれを見たアデリナとルートは、感嘆の声を上げずにはいられなかった。しかしそれは人類文明への感動というよりは、これから自分たちが進む道には決して交わらないだろうという不吉な予感と、それでもいつか届きたいとねがうあこがれの声に似ていたのかもしれない。
「では、ここで。〈星々の女王〉にとこしえの輝きあれ」
「また会いましょう。〈辰砂の奇術師〉の巡り合わせが富をもたらさんことを」
ガーランドとグスタフは握手した。そして再会の誓約をそれぞれの神に祈ると、別々の道を歩んでいった。片方は大道へ、もう片方は、人知れぬ隘路へと。




