2ー5.《魔女》の断章
月は欠け始めていた。かの晩における青い輝きはすでになりを潜めており、黄色く気だるげな光を辺境のマツ林の中に投げかけているばかりだった。
その中を歩き出す、ふたつの影。
片方は銀色の髪の女:イシュメル、そしてもうひとりはヴェラステラである。
ふたりはいま、聖王国の北東にある未開の森林地帯を歩いている。
メリッサから〈雲霧山脈〉に沿って北上したこの領域は、もはや誰の土地でもない。あるのは荒れ放題になったヒース野と、万年雪を被った峰々、ゴツゴツと剥き出しになった岩山、そして暗鬱たる針葉樹林ぐらいしかない。
暗色と灰色に侵されたこの夜の風景に彩りを加えるのは、まだるっこい月明かりと、遠くに見える山脈の、その最高峰たるセラト山──〈星の火の峰〉に掛かった赤い極光だけだった。
ゆえにひとびとはこの地域をこう呼ぶ。
畏れを込めて──〈氷と炎の国〉と。
やがて欠けた月が南中し、あたりが一等明るくなった頃、ふたりは封印を施された岩屋の入り口に立っていた。
先行するイシュメルが五芒星の印に触れると、それは最初からそこになかったかのように掻き消えた。そのままヴェラステラを連れて中に入る。一見すると内部はじめじめとした、暗くて冷たいところのように思われたが、しばらくしたのちに、その反対であることがわかった。熊が冬を越すためのこもりの洞穴だったのだ。
その内奥に、少女が、幾人もの世話女をはべらせて坐禅を組んでいた。
魔術のほの白い光に照らされたその蒼い髪は、だらしなく岩床まで垂れ、蓑のように彼女の輪郭をぼんやりとさせている。しかし手入れがされてないわけではなく、むしろ蜘蛛の巣のように張り巡らされたと言ったほうが正しい。
その一端に反応があったのだろう。彼女ははたと頭を動かし、背後のふたりに顔を向けた。中央に五芒星を刻んだ目隠しが、その表情の在り処をかき消している。
「御機嫌よう、今晩は禍つ星が美しくてよ」
無邪気な、楽しそうな挨拶だった。少女はそのまま居住まいをただし、ふたりのほうに向き直る。周囲に控えていた世話女たちが、それに合わせて少女の背後に回った。
「神々の星は見えたか?」とイシュメル。
「いいえ。彼らは妄りな眠りをむさぼってます。愚かなニンゲンたちの夢を、両手いっぱいに抱え込んでね」
「御託はどうでもよい。奴らの先見の魔術が効かなければそれでいいのだ。禍つ星の光はあちらでも凶兆としてしばしば予言のもとになるからな。
──で、此度はどのような用で義姉たる私を呼びつけたのだ、オーレリアよ?」
背後に控えていたヴェラステラは、イシュメルより発する冷気に背筋を凍らせた。気が立っている証拠だった。
しかしオーレリアはびくもしない。それどころか、人差し指と中指で口元を隠し、クスクスと笑っていた。
「まあ、急いてはいけませんわ、御義姉さま。今宵は話すことでいっぱいなのよ。わたくしたちの御義姉さまにだって、単刀直入というわけには参りませんでしたもの」
「ああ。報告があったことは大義姉様からうかがっている。しかしじかに出向いてこいとは……私のことも少々考えてもらいたかったな」
「いいえ、よく考えているからこそです。なにせこのお告げは、他ならぬ御義姉さまに宛てられた巡り合わせなのです──あなたの忌まわしき運命の星が、ふたたび交わる、という予感ですよ」
この言葉に、イシュメルは沈黙した。
冷気は途絶え、鋭利な紫水晶のひとみが思考の光を宿している。口はきっと結ばれ、彼女は、そのまま無言で先を促した。
「いえ、読めた星はここまでです。そこから先が問題なのです。わたくしのちからについては、よくご存知でしょう……」
と言って、彼女は目隠しの部分に触れた。
「この目はうつつを覗くことができません。しかし過ぎ行く夜と昇り来る朝の時間をかいま見ることを許されています。太陽も月もないそこには、それぞれの運命の星の、その動きだけが知れるのです。
……ですが、いま星の運行が乱れています。われわれの未来も、かのニンゲンどもの過去も、すべて濃い霧に包まれたかのように、何も見えなくなっているのです。
そしておそらくそれは、かのニンゲンども自慢の、天つの台にとっても同じこと。神々の星が喪われ、禍つ星が我が物顔で闊歩する今宵の空は、きっといまだけのものではありますまいと、わたくしめには思われるのです」
ふたりは息を呑んだ。ヴェラステラは怯えを込めて、イシュメルは武者震いを込めて。
「それは……わたしが〈星霊石〉を取り逃がしたことと関係がありますの?」
ヴェラステラが、あえて訊いてみた。
するとオーレリアは笑った。
「まさか。むしろあなたはあれを見逃して正解だった、と言えます。強すぎる力は、摂理の均衡に負荷を与えますから。おまけにあの力は、われわれの所有するそれとは対立するものではなくて?」
「それは……そうだけど……」
「ヴェラ、話を遮るな。つづけてくれ」
オーレリアはうなずいた。
「わたくしの予感が正しければ、ここ数年における《魔女》狩りの激化とこの現象は堅く結びついているでしょう。魔獣の数も増え、混乱と破壊の影で、真実のことばが失われつつある。できる限りその断片が失われないように注意を払ってきましたけれども、それももう限界。どんなに努力したところで、ひとびとは摂理のなんたるかをすっかり忘れてしまっていますし……皮肉ですわね」
「大義姉様がここにいらっしゃったら、『歴史は繰り返す』と仰せになっただろうな。それで、オーレリアよ。状況は飲み込めたが、まさかこれだけというわけはあるまい?」
ああ、そうでしたね、と微笑む。
「〈器〉の居場所がわかりました」
その一言が、ふたりを愕然とさせた。
「ばかもの、なぜそれを先に言わなかった」
「わかっただけですもの。すでに〈火の娘〉が監視をつけてますから、なんの問題もありません……と言いたいのですが、先ほどの話をつながる重要な点をお伝えしなければなりませんの」
ふたりは黙ってつづきを待った。
するとオーレリアは、まるで彼女の口を借りた何か別物のような低い声で告げた。
「『片方の星は高く舞い上がり、もう片方の星は失墜する。双つの星は悍ましき星の衝突を受けて道を違え、二度とともに並ぶことはないであろう』」
重く苦しい沈黙が降りた。
ふたりにはそれの意味するところの大半がわかったからだった。
「……悍ましき星、とは?」とイシュメル。
「わかりません。しかし摂理の均衡が乱れていることと、このことはきっと無関係ではありません。わたくしには、なにか、なにかイヤな予感がいたします……」
「〈昏き星読み〉がそこまで言うか」
ふむ、とイシュメルはあごに手を当てる。
思わず口角が上がる。それはひょっとすると、これから起こるであろう不可測の事態への期待と歓びが混じっていたかもしれない。だがイシュメルにとってはどうでも良いことだった。
「運命の星が乱れておると言ったな。ならば受けて立とうではないか。われわれが勝つか、それともあやつらが勝つか、そこに神々の興亡が掛かっているというならば、なおさらな」
いくぞヴェラ、とイシュメルは彼女を連れて踵を返した。
そこにオーレリアがさらに声をかけた。
「くれぐれも、御忘れなきよう。過去はなかったことにはできません。靄が掛かっても、星は動き続けています」
「……わかっている」
そしてそのままイシュメルは先に進んだ。
ヴェラステラはおそるおそる、前後を交互に見やりながら、一礼してイシュメルのあとを追ったのだった。
「さて、これで支度は整いましたわ。これで良いのでしょう? 御義姉さま?」
ひとり言が、闇に掻き消えた。




