続.果てなき道の始まり
青く輝く月が、傾き始める頃──
街道から少し離れた丘の上で、ヴェラステラは、ぼんやりと腰をおろして、遠くを眺めていた。彼女はずっと前からここに居場所を決めて、アデリナたち一行が見えなくなるまで時間が経つに任せていた。
と、そのとき……
「なんだ、ここにいたのかヴェラ」
背中から呼びかける声があった。
けれども応える気力がなく、しばらくの間黙って無視しようとヴェラステラは考えた。すると、声の主は近寄って、その肩に手を当てた。
──心が凍てつきそうなほどに、冷たい。
怒っているのだ、とすぐにわかった。
だから、しぶしぶヴェラステラは振り返った。白銀の髪に、凛々しい目鼻立ちが、こちらを見ている。紫水晶のひとみが、鏡のようにヴェラステラの顔を映し出している。
「……イシュメル義姉さま」
「ここで何をしているんだ」
冷たい炎のような語気で、イシュメルは問いかける。それはあらゆるウソを拒絶し、ひとを極寒の地で丸裸にするような冷徹さが秘められていた。
「逃げて……きたのですわ」
「ほほう。エスタの子供たちはそれほどまでに手強かったのか」
「ええ。〈星霊石〉の居場所もわかりましてよ。やはりお義姉様が持ち出して、あいつらの《記憶》の中に隠していたのよ」
これはほんとうのことだったから、なめらかに言葉が出てくる。
それを見て、イシュメルは、ウソを吐いているわけではないと合点した。
「しかし解せんな……せっかく手助けまでしてやったのに、そんなザマでは、大義姉様に申し訳が立たんぞ」
そしてイシュメルは、どさり、と土嚢か何かのように、肩の荷を降ろした。
ユリアさんの亡き骸だった。
灰色のひとみは閉じられていたが、その胸には鋭い一撃を受けた痕が、紅くにじんで残っていたのだった。
「逝ったのね……哀れなおばあちゃん」
「哀れんだところで仕方あるまい。われわれはこの犠牲を乗り越えてでも、やらねばならないことがあるのだからな」
そう言って、イシュメルは遠くを見る。
切れ長のひとみは鋭く大気を切り裂き、月明かりに暗く霞んだ夜の彼方を見据える。そこには歩き出した三人のすがたが認められたが、いまから追いかけるにはあまりにも遠すぎる、と彼女は判断した。
「ねえ……イシュメル義姉様」
「なんだ?」
「わたしたちのやり方は……正しいのでしょうか? その……報われる日が来るのでしょうか?」
イシュメルはヴェラステラを見た。
その表情に戯れの様子などかけらもないことに気づくと、彼女は、ますます言葉を選び、沈黙を重ねる。しかしようやく口を開くと、凛とした響きが、場を支配した。
「何ごとも正しいことはない。しかし、一度選んだ以上、最後まで行く必要がある、と私は思っている。たしかに、これ以外の道もあったのだろうが……すでに大義姉様が失敗された道でもある。いまさら、悔いなんてものはない」
「そうですか……」
俯いたヴェラステラ。
しかし、イシュメルはここで、フッと緊張した表情をやわらげ、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
そのままヴェラステラを背中から抱擁すると、さながら母が娘にするような、優しい声でさとした。
「なに、誰しも自分の正義を疑うもの。私もかつて騎士として名を馳せたときに、よく悩んだものだよ。だから、不安になることは良いことなんだよ。その弱さは、自分のまちがいを見つける〈鍵〉になる。大切にして、忘れてはいけないよ」
はい……と、ヴェラステラは答えた。
淋しそうに、しかし、嬉しそうに。
どちらともつかない心を持て余した、そんな声だった。
その応答に満足したのか、イシュメルは立ち上がり、ふたたび冷徹の仮面を被りなおした。
「さて、帰るぞヴェラ。一旦帰還せよとの命令が大義姉様から出ている」
「……はい、戻りましょう」
振り向いたヴェラステラ。
その顔に、もう迷いはない。
* * *
「あーあー、信じらんねェ。ガーランドさんは《魔女》に負けてボロボロだし、ルゥに到ってはさっきまで寝てやがってさ。最後はアタシがカタをつけるはめだよ……」
アデリナは愚痴っていた。
冷たい月が照らす道中である。
整備が進んでいない辺境の街道も、人里が近づいているのか、だんだんと踏み固められた、歩きやすい道のりに変化していたのだ。
そんな中を歩くのは、三人。
ひとりはもちろん、アデリナだった。
残るふたりは、返す言葉もなく、うつむきながら歩くばかりだった。そのうちガーランドは、ねじ上げられた右腕をおさえながら先頭を進み、ルートはアデリナの後方からついて歩いていた。
戦いが終わった直後に、アデリナは、ルートを叩き起こし、ガーランドの介抱に回った。しかしガーランド氏の腕は関節に激しい痛みが残っていたため、すぐには治りそうにないと判断された。
事態はまだ予断を許さない。
ゆえに、すばやく行進は再開されたのだ。
しかしルートは、アデリナから剣を引き抜かれたことに一切の記憶がないらしく、剣の出所を聞いたとたん、悲鳴を上げていた。あまりにその様子が情けなかったので、アデリナは、「バカやろう」とちからづくで黙らせるほかなかったのであるが……
「ねえ、リナ」
背後からルートの声がする。
「なんだよ」
「ボクさ……夢を見たんだ。お父さんと逢う夢。それはすぐに見えなくなっちゃったんだけど、金髪で、青いひとみでさ。リナそっくりなんだよね。びっくりしちゃった……」
訥々と語られた内容は、アデリナに、ある奇妙な印象を残さずにはいられなかった。あのとき……自分が剣を引き抜いた瞬間に見た景色の、ちょうど対となるものを、ルートが見ていたのではないか?
確証はなかった。けれども、そうにちがいないと彼女は確信した。それをわかっていたのか、ルートも無邪気に尋ねた。
「ねえ、リナはお母さんに会えた?」
だから、アデリナは笑って答えた。
「ああ。母さんは、アタシが妬ましくなるぐらいの、ちょーぜつ美人だったぜ」と。
傾いた青い月も、やがては落ちて、次の夜明けを迎えるだろう。
彼らの脚も、いずれはどこかの人里に到達して、しばしの憩いを乞うだろう。
しかしいまだけは、この瞬間だけは。
どうか消えない《記憶》であってほしい。
──ふたりはいつしか、そんなことを思っていたのだった。
どこかからともなく〈忘れじの花〉が薫っている。
彼らの旅路は、これからだった。




