10.聖剣と魔女のミュトロジア
初めて剣を握ったとき、覚悟はあるかと父に尋ねられた。
これは彼女の記憶の中にはなかったはずだった。彼女の生まれる前に、凶刃に斃れたという父との接点は、彼女の短い生涯の中にはなかったはずなのだ。
しかし、いま彼女は自分の内側に父親を感じていた。手にしている剣の柄に、かつてこれを握っていた父親の手を感じていた。
いいか……と父の声が、内側に響く。
『剣は、〈星々の女王〉アストラフィーネが、われわれひとに対して最後に与えたもうた道具なのだ。それは地、火、風、水の四つの〈星霊〉のちからを一身に受け、なべてならぬひとの想いで研がれてようやく完成される。しかし、だからこそその刃には〈業魔〉が宿り、ひとの呪われた運命を象徴づけている。
──その切っ先はもっとも良き縁を断つだろう。その血に濡れた刃は悪しき宿命を結びつけるだろう。その握られた柄は新たな死者を求めて動き出すだろう』
それでもいいのか? と父は訊いた。
父の言葉は沁みるように届いた。
けれども、アデリナはうなずいた。
「だって、これはアタシにしかできないことだろう?」
にやりと笑うアデリナ。
言葉だけの父親は、しかしなぜか苦笑いを浮かべて、肩をすくめたような気がした。
『やれやれ、誰に似たんだか……』
「自分の娘に向かってそんな言い方はナシだぜ。父さんとはぜんぜん喋ることはなかったけどさ、アタシは父さんのこと、ちゃあんと憶えてるんだからな──ところでさ、あんたは母さんの《記憶》だよな?」
『なんだ、ばれていたのか』
「隠せると思ったら大まちがいだって。アタシたちはユリアさんの〈箱〉とはべつに、もうひとつ魔術を掛けられていた。それはアタシたちの中に流れていた時間に、自分の思い出を書き足して、綴じておく……」
『ちがうわ。それは魔術なんかじゃない』
不意にさえぎったのは、女の声だった。
見ると、アデリナの前にルートが立っている。そのひとみは宇宙でも眺めるかのように、深遠なまなざしを湛えて、アデリナの方に向けられていた。
『〈魔術〉は《記憶》を再現するもの。それはひと目で奇跡であるかのように振る舞うけれども、過去に起きたことの繰り返しでしかないのよ。でもわたしが行なったのは、そうじゃない、過去にはなかったこと。本来ならば存在しなかったはずの出来事を、あったかのように現出させる〈魔法〉。
──その魔法の名は、〈創話〉。自分の思い描いた絵空事を、ほんとうに起こす禁忌の手段……』
アデリナは、ルートの中に、母親を見た。
青藍石のひとみ、ツヤのある黒髪……生き写しのような美しい容姿の、その向こう側に、アデリナは母エスタルーレが宿っていることを確信したのだった。
エスタルーレは話をつづける。
『そう、これは聖剣と魔女の〈創話〉なのよ。剣を携えた聖堂騎士ラストフと《魔女》エスタルーレの紡いだ、家族を守る物語の魔法。あなたたちがこれからを生きるための、とびっきり強力な、ね』
アデリナは苦笑した。
心なしかラストフそっくりだった。
「よけーなお世話だっつーの。まあ、おかげでこれから足掻けるってんだから、嬉しいんだけどさ。なんか、すげーフクザツ」
『あらやだ。できることなら、わたしはこんなことにはならないで欲しかったのよ?』
「知らねーよ。文句ならそこの好奇心旺盛ヤローに言ってくれ。アタシはただ、これ持って運命ってヤツを切り拓くだけだよ」
だからさ、とアデリナは一瞬ためらう。
「だから、母さんは遠くから見守っていてくれよ。また逢える、その日までさ……」
言われて、エスタルーレは笑った。
心の底からおかしそうだった。
『ええ、絶対に』
──その日に、また逢いましょうね。
最後に残った言葉が、暖かい風に吹かれて消え去った。その風が運んだのは、どこか甘やかな〈忘れじの花〉の薫り。魔法が醒め、現実が戻ってくるその瞬間に、アデリナのひとみの中で六芒星が輝いた。
そのひとみが見据えるのは、現実の《魔女》:ヴェラステラ。驚愕と怒りに顔を歪ませ、ガーランドの身体を組み伏せている。
「なんで……なんで! お義姉様はわたしたちの大切なモノをそんなヤツらに渡してしまうのよ!」
怒鳴りながら、彼女は氷の刃を射出した。
それもひとつやふたつではない。
雨あられと、殴りつけるように放たれた。
けれどもアデリナは、剣でそれらを薙ぎ払ってみせた。鋭い一閃であとかたも無く氷塊を消し去ると、なめらかな動きで、肩口に抱えるように──騎士学校で〈山の構え〉と呼ばれる構えを取った。
慌てたヴェラステラは、さらに射出する。
しかしどれも見えない壁によってさえぎられ、消し去られてしまった。
そのとき彼女はようやく、十字鍔の中央に紅い宝玉があることに気づいた。月明かりに照らされて、妖しく輝いているそれは、内側から滾るちからを発露させていた。
「──まさか、あんなモノまで……」
ヴェラステラは舌打ちをすると、足元のガーランドの腕関節をねじあげた。イヤな音がして、彼は苦痛のうめき声をこぼした。
それから彼女はパッと飛び上がると、仕込み刃を片手に、軽快な剣さばきでアデリナの間合いに斬り込んでいった。
先手必勝、の魂胆だった。
しかしアデリナは見切っていた。
横合いから刻むがごとき斬り込みに、構えた剣をそのまま振り下ろす。鉤を引っ掛けるかのように、刃が噛み合った。
夜闇に響く、金属音。
つかの間の鍔迫り合いが、弾けた。
この一瞬、アデリナが力で押し勝ったように見えた。
ところが、その隙にヴェラステラは刃を潜り抜けさせていた。相手が押し返すときに生まれた間隙を狙い、顔面を刺突せんと刃をねじ込んだのだ。
だが決定打の瞬間、アデリナは消えた。
ヴェラステラの刃が空を舞ったかと思うと、今度はその身体が宙に浮かぶ。重心を奪われた彼女は、得物を取り落とし、地面に押し倒されてしまった。
アデリナが剣を捨て、取っ組み合いに持ち込んだのだ。
瞬間的に交わる視線。
六芒星が見下ろすは、五芒星のひとみ。
「オマエ……」
何かに気づいたアデリナ。
ヴェラステラはにんまりと笑った。
「わかっちゃったのね。でも、あなたたちも、わたしたちと同じ道を歩むことになるの、気づいてた?」
「……どういうことだ」
「魔法のもたらす恩恵を受けたものは、もうただのひとには戻れないわ。尊崇と畏怖とが織りなす〈偶像〉があなたたちを捕えて……もう二度と普通には戻れなくなる。《魔女》とか〈英雄〉とか、いろんな肩書きのもとに、ほんとうはどこにでもいる普通のひとだって事実をなかったことにされるのよ……」
ククク、と昏い笑いが満面に浮かんでいた。われながら汚い言いぐさだとは思ったが、ヴェラステラはこれ以外の言い方を知らなかったのだ。
しかしアデリナは素知らぬ顔で、言った。
「わかってるさ。わかってる。だけどアタシは、アタシたちはそれに抗ってやる。なかったことには、させない。絶対にだ」
これを聞いて、ヴェラステラはなぜか身の内側から怒りの炎が沸き上がるのを感じた。歯を食いしばり、反抗のこぶしを握って、アデリナに打ち据えようとする。
けれどもアデリナはこれを防ぎ、ヴェラステラの行動を完全に封じ込んだ。
「……バカ言わないで。わたしたちがそうしなかったとでも言うの? わたしたちは戦ってきた。これからも戦いつづける。なかったことにして、見て見ぬ振りをしているヤツらに対して、真実を突きつけるためにねッ」
ところが、ヴェラステラは、ツヤのあるくちびるに歯を立てると、ぎりりとちからを込めて、これを食い破った。
ほとばしる、鮮血。口内に流れ落ちたそれを、彼女は舌の上に乗せて、転がす。やがて血は目に見える速度で凝固し、鋭利な針へと変化する。
アデリナが気づいたときには、もう遅い。
ふっ、と吹いたヴェラステラの攻撃を、アデリナはすんでのところで避けた。しかしそのために彼女は相手の自由を認めざるを得なかった。
ふたたび相対する、ふたり。
その手には、もう得物はない。
だが、ヴェラステラに闘う意志はないようだった。小指で下くちびるを触り、出血の具合を確かめてからこれを舐めると、
「あーあ、信じられない。せっかくの楽しい夜だったのにさ、興醒めもはなはだしいわ」
アデリナは黙っている。
それを見て、ヴェラステラは試すように微笑んだ。
「いいわ。なにか確信がおありのようだから、今回は見逃してあげるわ。けれども、あなたがそれを持っている限り、わたしたち〈イドラの魔女〉は、あなたたちを狙いつづける。わたし以外の、お義姉様たちがね!」
言い終わるやいなや、彼女は、ひらりと腕を上げた。その動きに合わせて突風が巻き起こる。あまりに唐突に訪れた風は、土埃を巻き上げて、アデリナの視界をさえぎった。
やがて目を開けると、そこには剣と、うつ伏せに気を失ったガーランド、そして横たわるルートのすがただけが残されていたのだった。




