1.忘れじの花を、忘れられたあなたに
長いあいだ、夢を見ていた気がした。
それはとてもはかなく、美しい夢。
まるで胡蝶のように、花びらのように。
あるいは影のように揺らめいて、少女の心を惑わせる。
風にゆれる、あたり一面の白い花ばたけ。そこを歩くは可憐な少女。温かい、至福の光に包まれながら、舞うがごとく歩を進めている。
「……ナ、リナ」
ふと、遠くで、少女を呼ぶ声があった。
どこかで聞いたような、なつかしい声。
その声目指して少女は走る。白い花弁を散らしながら。ほのかに薫る、花蜜の甘い匂いに包まれながら。
そして少女は見いだす。
花吹雪のなか、かすかに動く薄紅色のくちびるを。
誰だろう、少女はそう思った。
けれども思い出せない。
思い出したいのに。
とても大切なひとだったはずなのに。
肝心の顔が、名前が出てこない。
「憶えてなくてもいいのよ」
不安を察したのか、声は語る。
子守唄を歌うように。
優しく腕で抱くかのように。
「あなたはまだ、知らなくていい。
あなたはまだ、わからなくていい。
運命があなたに降りそそぐ、その日までは」
願わくば、どうかその日まで健やかで。
そして運命の災禍を免れんことを。
最後の言葉を吐きだすと、少女は突風に押し飛ばされて、背中からまっさかさまに、落ちて、落ちて、落ちて……
「リナ! ねえいい加減に起きてよ!」
落ちた先は、金色の草原だった。
唐突に差し込んだ日差しが、少女の意識を鋭く現実に呼び戻したのだった。
寝ぼけ眼をこすると、美しいふくれっ面が見おろしているのが見えた。青藍石のひとみ、艶かしい黒髪、そして可愛げのある白い肉づき……さながら美少女というべき容姿は、しかし少年の肉体に属していた。
「ん……おはよう、ルゥ」
眠たい声で少女は言った。
対する少年は、ますます膨れる。
「おはよう、じゃないでしょう? いまなんどきだと思ってるの」
「たぶん、〈中天ノ刻〉は過ぎたかな」
「じきに日暮れどきですぅ」
口を尖らせるルゥ。腰に手を当ててそう言う少年の仕草は、さながら世話焼きな娘のそれであった。
ごめんごめんと謝りながら、リナは上体を起こした。うんと伸びをする。そしてふたりの周囲に生えるタケダカソウの、黄金にも見える草原を一望してから、少女はゆっくり立ち上がった。
ここは村はずれにある、〈不入の森〉の入り口。東側に崖が面し、ぽっかり空いたようなこの草原は、ふたりの住んでいる村から程よく離れている。そのためここはリナとルゥ、ふたりにとっての隠れ処みたいな場所であった。
「もう帰るよー、誰かさんが寝ているあいだに、作業終わっちゃったからね」
ルゥはこちらを見て言った。
ちょっと意地悪い笑みを浮かべていた。
「作業、てなんだっけ……」
「さては寝ぼけてるな?」
リナはこくり、とうなずく。
しょうがないなあ、という呆れ口調が返った。そのまま少年は傍らのカゴを取って、中身を見せてくれた。
そこにはいっぱいの白い花がある。
〈忘れじの花〉だった。
これを摘んで、明日母さんのお墓に持っていくんだよ、と彼は教えてくれた。
それでようやくリナは思いだした。
いまはあの世とこの世が結ばれる〈魂の季節〉のころ。そこでは生命の爛熟と、美しい終焉とが同時に訪れる。いわば黄昏どきのような、あわいの時節なのだ。
緑にまじって色づき始める木々に、キツネ色に染まるタケダカソウの原っぱ。見わたす限り、近づきつつある秋の景色を見て、まるで時を跳躍してしまったかのような、激しい違和感を覚える。
しかし、なぜそうなのか。
それがイマイチ思い出せない。
「ほうら、騎士見習いさん。はあやくしないと、置いて行っちゃうぞ〜」
茶化すように、ルゥが謡いまじりの調子で急かしてくる。その悪戯っぽい笑みが、村のほうに沈む西日の陰に隠れて、どこか妖しげでもあった。
リナは傍らにあった、空っぽのカゴを手に取って、彼を追いかける。その背丈はルゥと同じくらい。並んで歩くと、その美しい容姿に見劣りするようで、気後れしてしまう。
まったく、どちらが男の子で、どちらが女の子なのだろう。
きっと創造の女神様が、肉体と魂をまちがえて容れてしまったにちがいない。
こういうとき、短くてクセのある、蜂蜜色の自分の髪が小憎く思える。せめて、ルゥのように、ツヤのある長い髪をくれれば、なんて思ったりもしたが……
と、そのとき。
リナは、少年がきょとんとした顔で、こちらを見つめているのに気がついた。
「な、なんだよ?」
「いや……悲しい夢でも見てたのかな、て」
「どういうこと……」
「なんで泣いてんのさ?」
え、と言うより早く、手を頰に当てる。
言われて初めて気がついた。
頰を流れる泪のことを。
指先に触れている液体の存在を。
「どうして……?」
少女の問いは、風となって消えた──
* * *
ふたりが向かった先は、メリッサ村という、聖王国の東の果てにある山村だった。
辺境のまた辺境、さいはての地と揶揄されるほどのこの山あいの村では、かつて王府の検地官がやってきて、たいへん顔をしかめたという逸話が残されている。
なんでも、王立図書館に収められた、一百年前の『地誌』に拠ると、
「古の時代を再現したかのようなささやかな畑と牧畜を展開し、それ以外で特に税となりうるような産物がない。
強いて述べるならば、付近に古き国々の遺跡が残されているばかりだろう。しかしそれはいかに人が住めない土地であるかを裏付ける証左にすぎない。
つまるところ、王国の財政に取り立てて貢献し得るものがなく、調査もまったくの徒労に終わった」
それっきり、二度と王府の役人は来なかったと言われている。以来かの地の徴税は、この近辺一帯を領土となすフェール伯の名のもとに行なわれ、平穏無事の日々を過ごしてきた。
しかし、穀倉地帯と謳われた王府近隣と見比べられたら、あんまりだろう。小さくまばらとはいえ、風に波打つ金色の麦穂は、豊かな実りを表しているのだから。
リナとルゥは、そんな麦の段々畑を見下ろしながら山道を下っていった。
「……でさぁ」
先を歩くルゥは、振り向きつつ、
「リナは、いつ王都に行くの?」
「え? ごめん聞いてなかったわ」
「んもう、騎士学校行きを決めたのはいいけど、そんなにぼんやりで大丈夫なの?」
「うっさいな。おめーはアタシのかーちゃんかっての」
「はーい、さてここで問題です。リナが稽古場に行ってるあいだ、誰が畑を耕し、お勤めを果たしていたでしょうか?」
「あーわかったわかった。アタシが悪かったって」
両手をあげて、降参の意を示したリナ。
「わかればいいけど……結局いつ出発するのさ。聖刻騎士になるんだったら、いつまでもここにいるわけにはいかないんでしょう?」
「まあ、そうなんだけどな……」
戻る、と言ったところで、特に急ぐ必要はないのだ。
つい半年前のこと。
リナは、女だてらに、となじられながらも、稽古に励み、多くの子供たちが憧れながらも届かない、騎士学校への推薦状を獲得した。その剣技は師範代も認めるほどに習熟し、王都の騎士学校においても充分だろうと好評だったのだ。
それがもう半年前だ。
通常、騎士学校の人間は、入学後にそのまま騎士団の従者となり、あわよくば戦場に名を馳せようとする。
けれども武術に秀で、教養を修めている彼らは、地方の部隊長や、貴族の執事になることも許された。むしろ、聖刻騎士の夢やぶれ、道を改めるものも多いと聞く。
聖刻騎士とは、いわば選り抜きの最精鋭。多くの試練とふるいに掛けられて、ようやく従者の十分の一がなれるとすら言われた、王家の槍でもある。
その武勇は山をまたぎ、海をも超える。
女神アストラフィーネの庇護厚き聖なる王国、アストライアの名を聞けば、聖刻騎士を抜きに語らぬものはいない。それほどなのだった。
その聖刻騎士になる、とかつてリナはルゥに語ったことがある。
これはずっと小さな頃の話。
その想いを胸に、騎士学校行きを認められたのはまちがいないのだが……
「聖刻騎士は、女がなっちゃいけない決まりなんだとさ」
「それがどうしたっていうのさ」
「どうしたって、どうもこうも」
「従者にはなれるんでしょ? だったらそのまま腕一本で成りあがればいいじゃん。
だいたいおかしいよ。アストライアは女神様の、その末裔たる女王陛下の知ろしめす聖なる王国だよ? 国を護る騎士が男でなきゃいけない道理なんて、ほんとうはないはずだよ」
「……そういう簡単なハナシじゃねえよ」
というのも、やはり《魔女》の存在があるからだろう。
魔獣を使役し、ヒトの世界を侵食する。
これらの行いをもって聖王国の秩序を乱す彼女たちは、いまや王府の悩みのタネだった。〈大統一戦争〉以来、聖王国における最大の厄災だともうわさされている。
しかしだからこそなのか、そんな《魔女》を退治する聖刻騎士団に、女の名を連ねることに抵抗を覚えるものもいるらしいのだ。
それにしても……とリナは思う。さいきんのルゥは何やら危険な物言いが増えてきた。このままではやがて王政批判のかどで投獄されてしまうのでは、とヒヤヒヤする。
「なあルゥ、おまえ教導会でナニを学んだんだよ。そんな物騒なこと言ってると、いまにもとんでもない目に遭うぞ」
「べつにィ。こんなへんぴなところだと、楽しみが学問ぐらいしかないんですよーだ」
「ひねくれやがって……」
「へんだ」
「ふんだ」
そうこうして話しているうちに、ふたりは山道を下り、家が建ち並ぶあたりに差し掛かっていた。
山と山にはさまるようにあるこの村では、なだらかな斜面を畑や牧草地にすることでかろうじて日ごろの糧を得ている。家の並びが不恰好なのは、耕地面積を広く取るための苦肉の策だ。
その連なった赤い屋根を、黄昏の光が照らしている。そのためか、まるで一足早い紅葉が訪れているかのようだった。
ふたりは、金色の麦畑や、甘藍の畑の青々とした様子に胸を躍らせながら、家へと戻る。
ところが、彼らの家の前に、灰色のガウンをまとった男が立っていた。山の上のほうに位置する教導会──この国の信仰の拠り所に勤める〈導師〉の位にあるものが着る色だった。
「導師様!」
ルゥが、先に気づいて声をかけた。
男は振り返る。
「ん、おおルゥか。それにリナも」
「どうかしたんですか?」
尋ねる言葉に、導師は渋い顔をした。
言おうか、言うまいか。
考えあぐねている顔だった。
「導師様、まさかまたルゥが何かしでかしたんですか」
次に口を開けたのはリナだ。
リナの懸念は、ルゥの好奇心だった。
幼いころから学童として教導会で勤めていたルゥは、しっかりもので、愛らしい容姿とあいまって好感度が高い。
だがヒマつぶしから始まった読書と、そこから絶え間なく湧いた好奇心が、ときに村のひとびとを困らせた。
ときどきふらりと居なくなっては、どこから持ってきたのかわからないモノばかり取って来る。それが畑のミミズとかならまだ可愛い方なのだが、ときとして隣家からくすねてきた物だったり、〈不入の森〉に入り込んで得た物だったりして、村人を困らせることがあった。
リナは、今回もそういうことが起きたのではないか、と踏んだのだ。
しかし、導師はゆっくりと首を振った。
「いいや、ちがうんだ。昼からずっとラストフの姿が見えなくてな。お前たちと一緒かと思ってたんだが……」
「ラストフ?」とルゥ。
「誰それ」とリナ。
導師は目を瞠っていた。口をポカンと開け、なにを言われたのか、まるで理解できないようだった。
「お前たち、本当に知らんのか」
「いえ、べつに」
「そもそも名前も初めて聞きましたよ」
「そんなバカな……」
慄える手で、伸ばした顎髭をさする。
落ち着きのない仕草が、何かとんでもないことが起こったことを示している。
不安になったルゥは、おそるおそる尋ねた。
「もし良ければ、お手伝いしましょうか?」
「ん? ああ、そうだな。きみたちにはちゃんと手伝ってもらわなきゃならん。なぜなら……」
と、しばらく瞑目してから、覚悟を決めたように言った。
「ラストフは、お前たちの父親だからな」