無縁仏の恋心
晴天の空の下。
私は墓石の前に屈み込んで、手を合わせていた。
「そのお墓、無縁仏って聞いてましたけど」
声を掛けられた。
顔を上げると、若い男が、私を見下ろしていた。
「お参りにくる人、いたんですね」
「誰もこないので、参ろうと思ったんです。可哀相でしょう? 誰にも冥福を祈ってもらえないなんて」
私は、ろくに掃除もされていない墓石を見つめて、再び手を合わせた。
この墓は、三年前に持ち主の家系が絶えてから、ずっと忘れ去られていた。
「お知り合いの方ですか」
男は、側に歩み寄ってきた。
私は頷いた。
「誰よりも、よく知っている人です。人が苦手なくせに、人と関わりたい性格でした。人を好きになる方法ばかりを考えながら、好きな人を見つけられずに、死んでいきました」
三年前に死んだ、可哀相な人の最期の面影を思い出すと、切なくなる。
死を恐れる苦しみ。生きている間に、何も成せなかった、残せなかった悲しみ。
後悔と愛に飢えた寂しげな顔は、今も私の記憶に、しっかりと残っていた。
「不憫ですね」
男は、同情を含んだ言葉を墓に供えた。
「せめて死ぬ前に、心から愛せる人が見つかっていれば、もう少し幸せな最期が迎えられたでしょうにね」
今更、過去を顧みたところでどうにもならないけれど、無念の感情が、私の口を動かしていく。
「どうして、亡くなったんですか?」
「乳癌です。発見したときには、末期でした」
男は驚いた顔をした。やがて納得して、寂しげな表情を浮かべた。
「女性の方だったのですか。さぞ、辛かったでしょうね」
痛みを共感しようとしてくれた。いい人だ。
「僕も昔、大切な女性を病気で亡くしました。大切だと、伝える勇気が持てないまま、別れてしまった」
ゆっくりと、男は過去を語りだした。
誰にでも、悲しい思い出はある。
私が視線を向けると、男は惨めに笑った。
「その女性が死んで以来、どうにも恋愛は億劫で。愛した人に気持ちが伝わらないのでは、その人のために何もしてあげられないのではないか、と思うと、人を愛する必要性を疑ってしまうんですよ」
気弱そうな、情けなさそうな顔。
見ていて、誠実さが伝わってきた。
とても、真面目な人だった。まっすぐで、圧倒される。
この人に想われていた女性は、さぞ幸せだっただろう。愛されていると、気付いていなかったかもしれないけれど。
「愛した人には、満足してもらいたいから。僕といて幸せだと、思ってもらいたい。だから、なかなか新しい恋には、踏み出せないんです」
「なら、私を満足させてくれますか?」
私は立ち上がった。男は唖然として、私を見てくる。
「人の愛を知らずに死んでしまったから、心残りで成仏できないんです。人を好きになって、好きになってもらえれば、成仏できると思うんです」
男は、驚いた顔をした。
ようやく、私が幽霊だと気付いたらしい。
目の前に立つ、無縁仏の墓で眠る、恋ができなかった哀れな女だと。
「私の魂の救いに、なってくださいませんか? 成仏、させてください」
幸せとは、どんな感情か。知りたい。人と一緒にいる幸せを知りたい。
目の前に現れた人ならば、教えてくれる気がした。
「あなたが、この無縁仏の主なのですか」
納得した男は、少し戸惑いながらも、私の存在を受け入れてくれた。
「僕に何ができるか分かりませんが、お役に立てるなら、お付き合いしますよ」
「ありがとうございます」
思った通り、優しくて偏見のない人だ。私も、安心した。
「自己紹介をしなければなりませんね。僕は――」
「お名前は、結構です。成仏してしまえば、意味のない情報ですから。代わりに、呼び名として、空、と呼ばせてもらってもよろしいですか?」
「空、ですか」
「青い色が、好きなんです」
「いいですよ。僕は今から、空だ」
青い空の色が映える、爽やかな笑みだった。
「あたなは、なんと呼べばいいですか?」
「では、海、と」
深い、深い海の青。空とは違う濃い色も、私は大好きだった。
「本当に、青が好きなんですね」
空は、私のこだわりを笑った。馬鹿にするでもなく、素直に受け入れた笑みだった。
本当に、優しい人だ。
「では海さん、行きましょうか」
「はい、空さん」
私たちは、墓地をゆっくりと、歩き出した。
少し歩いて、私は勇気を出して声を掛けた。
「空さん、手を繋いでもらってもいいですか。恋人同士は、繋ぐものだそうです」
「いいですよ」
快諾してくれた。空は私に、手を差し出してくる。
私も手を伸ばし、空の手を掴もうとした。
でも、手はすり抜けて、だらりと下へ落ちた。
私には実体がないのだから、人と手を繋ぐなんて、無理な話だった。
「死人とは、触れられませんよね。繋いでいる、フリだけでいいです。なんとなく、気分が味わえれば」
私は腕を伸ばして、空の掌に、そっと手を重ねた。
感触はない。でもいい。傍から見て、手を繋いでいる様子が表現できれば。
形を崩さないように、距離を保ちながら、気をつけて歩いた。
「結構、難しいですね。腕、だるくないですか?」
「平気です、死んでますから」
「ああ、確かに」
恥ずかしそうに、空は笑った。私も気付けば、笑っていた。
「どこへ行きましょう?」
「あまり遠くへは、行けないんです。墓地をぐるりと、回ってみたい」
「じゃあ、桜の木の下にでも」
墓地の周囲にはぐるりと、桜の花が植えられていた。
四月には、満開の桜が楽しめる。
墓地の側でお花見。不気味だと、嫌がる人もいる。
でも、気にならない人には、格好の行楽スポットだ。
私も生前から抵抗のない性格だったから、よくこの墓地の桜を見にきていた。
一人で。
本当は、誰かと一緒に来たかった。
その願いを、空は叶えてくれた。
「もう散り始めですけど、綺麗ですね」
多くの花が既に散り、夏に向けて青葉が茂り始めていた。
それでも、時々、はらりと桜の花びらが落ちてくる。私の体をすり抜けていく。
儚くて、切なくて、綺麗だ。
「私、三年前の冬に死んだんです。次の年の桜、見れなかったから」
死んでからの三年は、桜を見上げる余裕すらなかった。
「桜の花と、春の空。素敵ですね」
「夏には、海にも行きたかった。もう、行けないけれど」
「幽霊なら、ひとっ飛びで行けたりしませんか?」
「未練のない場所には行けません。逆に、未練のある場所からは、離れられないし。あんまり便利なものじゃないですよ、幽霊なんて」
「僕が、連れて行ってあげられたらいいんだけど」
「その気持ちだけで、嬉しいです」
二人で、桜の木の根元に腰掛けた。
男の人と並んで座るなんて、初めてだ。
きっと、心臓があれば、激しい鼓動が聞けただろう。
生きていれば、隣にいる空の息遣いが感じられただろう。
肌の感触も、温もりも――。
「楽しいですか?」
空が尋ねてくる。私は頷いた。
「楽しいです。デートって奴ですよね。初めてなんです」
気持ちが、穏やかになる。何の不安も悩みも感じられない。
きっと、この想いが恋なのだろう。
私はやっと、恋ができたのだろうか。
「良かった、楽しんでもらえて」
「空さんは、私といて、楽しいですか?」
逆に問い返すと、空はその呼び名と同じ、青い頭上を見つめた。
「ええ、なんだか、懐かしくて」
空の瞳に映る、誰か。
私ではないと、すぐに分かった。
「昔の女性を、思い出しましたか」
思わず、口に出した。
空は慌てて、私に視線を戻してきた。
「すみません、不謹慎でした。いまは、海さんと一緒にいるのに」
「別に、構いませんよ。成就する恋でもないし。雰囲気だけ、味わえれば」
気にしてはいなかったけれど、会話が途切れた。
楽しかったはずのひと時が、風に吹かれて消し飛んだ気がした。
「海さんは、とても素敵な女性だったのだと思います。控え目で大人しくて。その、美人ですし……」
気まずい空気を払拭しようと、空が不思議そうに口を開いた。
「あなたみたいな女性なら、生前に好きになる男だって、いたはずなんですが。あなたは人付き合いが苦手だったらしいけど、言い寄ってくる男はいなかったんですか?」
過去を思い起こし、私は囁いた。
「いました。でも、無理でした」
「好みの男では、なかったのですか?」
「いいえ。私の問題です。私――潔癖症だったんです。どうしても男の人に触れられなくて」
私の話を聞き、空は呆然としていた。
人は好き。でも、人に触れたくない。なのに、一緒にいたい。
すべては、私の我儘。
分かっているけれど、要求には貪欲でありたい。
だから私は、勝手に未練を作って、この世に居座っていた。
「死んだ後も、やっぱり実体のある人は嫌で。相手が死人なら、触らなくていいから平気かも、って思ったんですけど。なかなかいないんですよね。死んだ後も長い間、私と一緒にこの世に居座ってくれる人って」
一瞬、何を言われたか分からない様子で、空は立ち尽くしていた。
でも、だんだんと、気付いたらしい。
空も、私と一緒。
どんな経緯があるかは知らないけれど、もう、死んでいる。
恐らく、気付いていなかったのだろう。似た霊は、大勢いる。
でも、まだ死んで間もないから、気付けばすぐに、あの世へ逝ける。
「死んだ好きな人を、追いかけたくなったでしょう? 体、もう透けてきてますよ」
先に逝った愛する人を思い出すと共に、魂をこの世に維持できなくなってきていた。
何か、その愛した女性に抵抗があって現世に留まっていたのだろうけれど、その想いが吹っ切れたのだろう。
私はどうやら、空の成仏のお手伝いをしただけらしい。
「ありがとうございました、空さん。楽しかったです。どうか、安らかに――」
空は戸惑いながら、私の前から消えていった。最期には迷いもなく、その呼び名通りの、青くて広い空を見上げて、昇っていった。
私も、頭上を見た。
私だって、あの綺麗な空の上に逝きたい。
でも、自縛霊だから、この墓地から動けない。
心から、愛し合える人に出会えれば、成仏できると思うのに――。
空は優しい人だったけれど、その優しさは、私には向かなかった。
恋はとっても、難しい。
また、振りだしに戻った。
再び、私の眠る墓の前に戻り、屈んで手を合わせた。
「お一人ですか?」
また、声を掛けてくる男がやってきた。
私はゆっくりと、顔を上げた。
「はい、ずっと、一人です」