5章 息吹
この話を読むのは、本編『109章・求めし者』あたりまで読んでからにしていただくとありがたいです。
漆黒のフードに身を包み、闇に溶け込むような姿をした男。
その男は雷雨の夜にやって来た――
どんよりとした雲が月を覆い隠した深夜、窓を打つ雨の音に紛れ、正面口の扉を叩く音が耳に届いた。
気のせい? そう思ったが、どうやらそうではない。
再び届く扉を叩く音。急き立てているというわけでもなく、消え入りそうなほどの静かな調子だ。
こんな雨の日に? と訝しく思いながら、ベッドから身を起こしてランプに灯かりを点した。
古びたこの館は、客商売をしているために人の出入りが頻繁にある。しかし、こんな天気に、それもこんな夜更けに訪れる客などは珍しい。
扉の前に立ったところでもう一度扉が静かに叩かれた。まるで私が来たことを知り、その存在を主張しているかのようなタイミングだ。
「はい。どなたかし――」
扉に付いた覗き窓を開けて外の様子を窺がった瞬間、心臓がドキリと脈打ち、全身の毛が粟立った。
扉の向こう側、蒼白い顔をした生首が暗闇にぼんやりと浮かんでいたのだ。
口から短い悲鳴を漏らしてしまったが、よく見れば生首が浮かんでいたわけではないと分かった。
漆黒のフードを纏っているためにそう見えただけだ。そのことに気付き、私は恥かしさから一つ咳払いをした。
「何の御用でしょうか?」
平静を装って極力穏やかに言うと、フードを纏った人物は伏せていた目をわずかに上げた。
男だ。それもひどく虚ろな目をしている。真っ当な客には見えない。
「中を――館の中を見せていただきたい」
その突然の申し出に私が言葉を詰まらせると、男は再び静かな口調で同じ言葉を繰り返した。
冗談じゃない! と言ってやりたかったが、こちらも客商売。薄気味悪い人間だからといって怒鳴り返すわけにもいかない。
「大変申し訳ありませんが、今日はこんなお天気ですので店を閉めてしまいましたのよ。また後日、改めてお越しいただけないかしら?」
やんわりと断わったが、男は目を伏せただけで立ち去ろうとはしなかった。
無表情な顔に、どこか追い詰められた気配がある。こういう人間を相手にしてはいけない。
私はもう一度謝罪の言葉を口にし、覗き窓を閉めると足早に部屋に戻った。
カーテンの隙間から外の様子を窺がうと、まるで闇に溶け込むように去って行く男の後ろ姿が見えた。心なしか、その周囲だけ闇が深いようにも見える。
カーテンを閉めてブルりと身体を震わせると、背後で扉が静かに開いた。寝室に続く扉だ。
振り返ると、すでに眠りに着いていたはずの妹が、上目遣いに私を見ながら立っていた。
「姉さん、今、誰か来たのでしょ?」
「いいえ、何でもないわ。安心なさい」
肩をすくめて微笑んで見せるが、それでも妹は納得した様子を見せなかった。
――妹は特別な人間だ。『人を見る』ことが出来る。それゆえの苦労が過去にあり、未来には重要な役割が待っている。
我が妹が重要な役割を担う――そのことを誇らしく思うが、それと同時に胸も痛む。
まだ十に満たない年齢にも関わらず、己の役割を自覚して『大人』になる必要があったからだ。
「姉さん、今来た人、とても苦しんでいたわ」
苦しんでいた? 私にはそうは見えなかったが、妹がそう言うのなら間違いない。
私は再び部屋を出て扉の前に立つと、覗き窓から外に誰もいないことを確認し、その後で扉を開けた。
吹き込む雨に顔をしかめながら周囲を窺がったが、やはり男の姿はもう見えない。
吐息を一つ漏らして扉を閉めようとしたとき、不意に足許に視線を落とした。
つい先ほどまで男が立っていた場所に出来た水たまり。そこに、滲むような赤みが混じっている。
血? どこかケガを? そう思って水たまりに目を凝らすが、それが血なのかどうか、はっきりと判断することは出来なかった。
顔を上げ、もう一度辺りを見渡し吐息を漏らす。
わずかに身を案じる気持ちにもなったが、男はその七日後、同じような時刻に何食わぬ顔で再び姿を見せた……
「中を見せていただきたい」
前回と同様に漆黒のローブに身を包み、同じ要望を繰り返す。
何食わぬ顔で言ってくる男に無性に腹が立ち、私は素っ気なく断わると荒々しく覗き窓を閉めた。
わずかでも身を案じてしまったことがひどく悔やまれ、それと同時に、二度訪れたことにより尚一層の不気味さを感じた――が、それだけでは済まなかった。
その十日後、さらにはその六日後と、男は何日か置きに姿を見せては同じ要望を繰り返したのだ。
姿を見せるまでの日数にバラつきはあれど、姿を見せるのは決まって空が白み始める前の同じような時刻だ。
ときには一月以上も姿を見せぬこともあり、気が済んだのか? とも思ったが、結局は九日ほど前に姿を見せた。
そこまで繰り返してやって来ると、さすがに他の娘たちも男の存在に気付き、男は館内でちょっとした噂になった。
私と同様に気味悪がる娘。館の誰かを見初めた貴族がいて、男はその遣いに違いない、と決め付けて嬉々する娘。その反応はそれぞれだが、興味を持っているのは皆同じだ。
そんなことに興味を持って、と呆れるところだが、呆れるで済まないのが妹のことだ。なぜか分からないが、妹も男に興味を持っているようだった。
もちろん、あんな得体の知れない男と妹を会わせるつもりはない。しかし――
今回で何度目になるか、男が同じように現われ、同じように断わろうとしたときにそれは起きた。
妹が実力行使に出たのだ。いつの間にか私の傍らに立ち、男の様子を窺がおうとした。
「何をしてるの。部屋に戻ってなさい」
きつく叱ると、不意に妹が苦しげに胸を押さえ、顔を歪めた。
「どうしたの! 大丈夫?」
「――ないてる」
苦しげに言った妹の言葉に私は首をひねった。
「ないてる? 泣いてる、そう言ったの?」
妹がコクリと肯く。
「誰が?」
さらに訊ねると、妹は震える手をゆっくりと上げて扉を指差した。
私は覗き窓から男の様子を窺がうが、その伏せた顔に涙は見えなかった。
苦しげな妹と扉を交互に見やり、逡巡する。一体どうすべきか?
「――貴方はどう? 入れてあげたいと思うの?」
妹が顔を上げ、真っ直ぐに私を見据えてコクリと肯く。
私はそれでも決心がつかず、無言のまま妹を見つめた。妹は目を逸らすことなくジッと見つめ返してくる。その眼差しに、私は諦めの気持ちからタメ息を漏らし、緩くかぶりを振った。
男を招き入れることにしたのだ。
妹がそれを望んでいるのなら断わることは出来ない。それに、再三姿を見せる男に根負けした、というのもある。
私はもう一度深くタメ息をつき、扉の鍵を外した。
男はホールに顔を巡らせていた。
二階からは娘たちが、男の姿を一目見ようと覗き込んで来るが、男は気にした素振りを見せない。
ホールに男が興味を引く物があるとは思えなかったが、男は立ち尽くすようにホールから場所を移すことはなかった。
ホールにあるのは、見かけは高級そうだが実は安物、という調度品。それと、そこかしこに飾られた花くらいのものだ。
「一体どういった御用で度々いらっしゃるのかしら?」
私が意識的に不機嫌そうに訊ねると、男は聞こえなかったのか、返事もせずにゆっくり歩き出した。その動きを二階にいる娘たちの視線が追う。
男はホールの一角、飾られた花の前に立つと、静かに花に向かって手を伸ばした。その手の差し出し方は恐々していて、子猫が初めて目にする物に触れようとする姿に似ていた。
興味はあるが、触れられない――そういった様子だ。
「噛みつきゃしなわいよ」
小声で文句を言いながら妹に向かって肩をすくめると、妹はクスりと笑って男の許に向かった。
慌てて妹を止めようと手を伸ばしたが踏み止まる。危険があるくらいなら妹が近づくわけがない。
妹は男の傍らに立つと、そっと男の顔を見上げた。
「とても綺麗でしょ。この花は全部、姉さんが育てて生けているのよ」
妹が声をかけると、男もゆっくりと妹に顔を向けた。
態度を豹変させるのでは? と思えてドキリとしたが、そんなことはなかった。
男は、ただ不思議そうに妹を眺めていた。
「来て」
妹が男の手を取って引くと、その拍子にフードが外れて男の顔が露になった。
端整と言える顔立ちだったが、それよりも髪の色の方が目を引いた。男の髪は、青みがかった白髪をしていたのだ。
男の姿に私や他の娘たちが唖然とする中、妹は何事もないかのように男の手を引き、一つひとつの花を丁寧に説明して周った。
「よく飽きないわねえ」
私が声をかけると、男がゆっくりと振り返り小さく肯いた。
――男は『あの日』以来、ここを訪れては花を眺めていく。そうして空が白み始めると、それを合図に去っていく。
そんなことを何度も繰り返していたが、男の名前はまだ知らない。もっとも、知らないのは私だけかもしれないが。
「これは赤。これは青。これは黄色――」
男が花を指差しながら呟くように言った。
分かりきったことを説明され、私は思わず苦笑いを浮かべた。
「この世界は色に溢れていたのだな」
「あら、そんなことも分からなかったの?」
呆れたような素振りを大袈裟に見せると、男は生真面目な顔で肯いた。
「分からなかったんだ、見ていたはずなのに。――私の世界は灰色。そう、灰色という色だった」
「灰色の世界……」
ゆっくりと噛み砕くように繰り返すと、味気ない景色がぼんやりと頭に浮かんだ。
灰色の世界というのがどういった喩えなのかは分からなかったが、男がどういった世界にいたのかは多少は分かる。
男が花を眺めていくようになって、その素性を調べたからだ。
結果から言えば、男について分かったことは何もなかった。特徴的な外見にも関わらず男が何者であるか、その一切を知ることが出来なかったのだ。
『私たち』の情報網を持ってしても調べられない人間は極々限られている。それは、初めから存在しない者たちだ。すなわち――
「そんなに花が気に入ったなら、貴方も自分で育ててみたらどうかしら?」
私の提案に男は驚いたように目を見開いたが、その変化に逆に私が驚いてしまった。
館に来るようになって、初めて見せた表情の変化だったからだ。しかし、そのわずかな変化もすぐに消えてしまう。
「育てる……無理だな。私は壊し方しか知らない」
いつもと変わらぬ静かな口調で発せられた言葉だったが、それがひどく哀しげに聞こえた。
男が初めてこの館を訪れた日と同じ、雷雨の夜。同じように扉を叩く音が聞こえ、同じように覗き窓から外の様子を窺がった。
男が来たときの決まり事のようなものだ。ただ、いつもと違ったのは、男が顔を伏せたまま無言でいたこと。
いつもならば、花を見せていただきたい、と言うのが『決まり事』だ。
私は訝しく思いながら扉を開けた。
「どうした――」
そこまで声をかけ、男の足許に視線を落としてギクリとした。
雨のせいでびしょ濡れになった漆黒のフード。それを伝って出来た足許の水たまりが、朱色に染まっていた。
傷を負っているのか、返り血か? フードが血に濡れていたのだ。
「どうしたの!」
その声は私の背後から上がった。
妹だ。妹がいつのまにか部屋から出て私の背後に立っていた。
「一体何が……。とにかく中へ」
入るように促すが、男は顔を伏せたまま動こうとしない。そこで、右手に何かを持っていることに気付いた。
仮面だ。男は白い仮面を手にしていた。それを目にした瞬間、やはり、という確信と共に、絶望的な何かが私の胸を支配する。
どこかで違っていてほしいと望んでいたのかもしれない。
どうしてそんな風に思っていたのか? 妹が男を気に入っていたためか。それとも、私自身が男に愛着を覚えていたのか。その両方かもしれない。
私が何も言えずにいると、妹は扉の前に立った私を押し退けるようにして男に近づき、その手を取ると無理矢理に中へ引き入れる。
男が抵抗する素振りも見せずにそれに従うと、私は我に返って慌てて扉を閉めた。
覗き窓から外の様子を窺がうが、誰かが潜んでいる気配はない。そこで安堵の息をつき、背中を向けた男に向き直った。
妹の姿はすでに見えない。おそらく身体を拭く物を取りに行ったのだろう。
「一体何が?」
私は芸もなく、その問いを繰り返すことしか出来なかった。しかし、その芸のない問いかけに、男は背中を向けたままで静かに答えた。
「――嫌になったんだ。もう壊すのは嫌だ」
「それでどうしたの?」
「それなのに、気付けば同胞を壊していた。私はどうしてしまったんだろう……」
夢の中を漂うように自問自答する声。まるで他人事のような言いぶりだ。
「同胞というのはアサシンね。アサシンを殺めたのね」
男の肩が微かに揺れる。私が気付いたことに驚いたのかもしれないが、背中越しで表情を窺い知ることは出来ない。
男はアサシンを殺めて逃げてきたのだ。それは同時に、男の死を意味する。
男がゆっくりと振り返り、仮面を手にした左手と、空いた右手をそっと前に差し出した。その手は血に染まっている。
「嫌だったのに」
吐き捨てるように言った男に胸が締め付けられた。
無表情な男の顔。だが、今なら妹の言ったことが分かる。男が哭いている。それがはっきりと私にも分かる。
妹は布を手に戻って来ると、仮面とフードを強引に奪い取り、憎悪を込めるようにその二つを投げ捨てた。それが済むと、今度は血に染まった男の両手を布で強く拭い始める。
「人の血は赤だ。とても綺麗で、とても恐ろしい色だ」
妹を見下ろしながら男が呟くが、妹は何も応えず男の手を拭い続けた。
すでに両手に血は着いていない。それでも拭うことを止めようとしない妹の両目から、大粒の涙が零れる。
「貴方じゃない。貴方がやったんじゃない」
そう言って、涙を堪えるようにきつく口を結んだ妹を、男は静かに見下ろしていた。
三日後の深夜、男と私は満月の光を浴びながら、館を前に並んで立っていた。
目の前にたたずむ古びた館。住んでいた期間は短かったが、手放すとなるとそれなりに寂しくも感じる。
「私が一緒に行けば、死が訪れる」
今だ納得しかねたように男が口を開いた。
「本当にいい迷惑ね、引っ越さなきゃいけなくなるし。それに、そんなことを言うくらいなら、ギルドを裏切った後にわざわざ来ないでちょうだい」
「もっともだ。どうして私はここに来たのだろう」
「さあ? どうしてかしらねえ」
横目でジロリと男を睨むと、背後から声をかけられた。
振り返ると、数台の荷馬車に荷物を積み終えた娘たちが早くしろと急き立ててくる。
その中から妹がひょこりと姿を見せ、私たちに向かって手を振るのが見えた。
「彼女は、なぜ私を連れて行こうとするのだろう」
「そんなことは本人に訊いてちょうだい。――じゃあ行くわよ」
荷馬車に向かうと、待ちくたびれた娘たちが不満や冷やかしの言葉を投げかけてくる。その言葉から逃げるように荷馬車に乗り込むと、同じに荷馬車に男と妹が乗り込む。花を積んだ荷馬車だ。
娘たちの笑い声と共に荷馬車はゆっくりと走り出し、館が次第に遠のいていく。その光景に視線を向けたまま、私は男に向かって口を開いた。
「いい? 貴方はあくまで使用人として雇うのよ。だから、三つだけは確実に覚えてちょうだい」
「三つ?」
男に代わって妹が小首をかしげる。
「まず一つ。客商売なんですから言葉遣いには気をつけなさい。二つ。これも客商売には必須、笑顔を覚えなさい。そして三つ――」
懐からある物を取り出して男に投げて渡すと、男はそれを手に取り首をかしげた。
「それはね、花の種よ。これから、花は貴方が育てなさい」
断わることを許さぬ強い口調で告げると、男は目を閉じ、うな垂れるように顔を伏せた。
喜んでいるかのどうか、いまいち私には分からない。
「良かったね、レイルズ」
笑って声をかけた妹に絶句する。
レイルズ? この男の名前だろうか?
「貴方、レイルズっていうの?」
「私は何者でもなく、また何者にも成り得ぬ者。――名は無い」
「じゃあ、レイルズっていうのは……」
「名前が無いと不便でしょ? だからずっと前に私が付けてあげたの」
妹が当然のように言った。
「ちょっと待って、雇い主は私よ。名前を決める権利は私に有るんじゃないかしら」
「あら、姉さんはレイルズの名前なんて気にもしなかったでしょ?」
妹と言い合いながら、チラリとレイルズの様子を盗み見する。
レイルズは手にした花の種を大事そうに両手で包み、愛しげに眺めていた。
飽きることなく、いつまでも眺めていた。
――中庭の一角、レイルズの姿が目に留まった。
黙々と花に水を差すその姿が、私の心をとても穏やかなものにさせる。
彼は、どうしてあの館に花があることを知ったのか? それは今だに聞いてはいない。
彼はあの夜、どうしてその花を直に見てみたくなったのか? それも聞いてはいない。
もしかしたら妹は聞いているのかもしれないが、私にはどうでもいいことだ。
大事なのは、彼が今も花を育てつづけているということ。
新たに移り住んだこの館は、レイルズの育てた花で溢れている……