4章 羅針盤
この話を読むのは、本編『99章・敵の定義』あたりまで読んでからにしていただくとありがたいです。
鉄の扉の向うから囁くような声が聞こえた。
その小さな声も、無音に近い部屋の中ではやたらと耳障りだ。
扉を叩いてやりたい衝動に駆られるが、身動きの取れない状態では何もしようがない。
「またあのガキか? あいつ、ちょっとおかしいんじゃないか?」
「ありゃ病気だ、狂犬病だよ、狂犬病。誰かれ構わず噛みつかなきゃいられないのさ」
聞き慣れた中傷に、怒りどころから逆に笑ってしまいそうな気分になる。
「今度は何をやったんだ?」
「同じ小隊にいるヤツの鼻をへし折ったんだってよ」
一人の男が覗き窓から顔を見せる。
「よせよ、目を合わせると病気が伝染るぜ」
もう一人の男が止めるが、その声色には明らかに嘲る調子が現れていた。
俺はとりあえず覗き窓から見えた顔を頭の片隅に記憶する。
覗き窓が閉じると再び訪れた沈黙と暗闇、感じ取れるものが少なくなると神経が過敏になるのか、身体に痒みに似たわずかな違和感を覚えた。鞭を打たれた個所だ。
その不快感から身を動かそうとするが、ジャラリと重々しい鎖の音が鳴っただけでさほどその効果はかった。
苛立つ――不快感が助長し、無性に苛立つ。
その苛立ちに直結するかのように、不意に殴りつけてやった男の顔が浮かんだ――
「なんだその目つきは?」
妙に絡んでくるヤツは群れを成せば必ず一人はいる。今回は四人だが。
自分より年が若いというだけで、自分よりも格が下だと勘違いする馬鹿だ。
実力主義を唱える帝国軍でも、少年宿舎となれば他とあまり変わらないらしい。
「何とか言えよ」
一人に肩を小突かれるが大した力でもない。
わざわざ答えるのも億劫に感じるが、これ以上絡まれるのも煩わしかった。
「この目つきは生まれつきだ」
それだけ言って去ろうとすると、向けた背中に思わぬ一言を投げかけられた。
「おまえのことは知ってるぜ。西の田舎街出身だろ? 俺は隣街だったんだよ」
その言葉で足を止めたことに気を良くしたのか、さも嬉しそうに言葉を続けた。
「おまえの親父は道具屋だろ? あれだ、最後まで出兵を避けつづけた臆病者だったらしいな。挙句にトチ狂って、最期は国のやり方に異論を唱えて首を刎ね――」
そこまで耳にしたとき、振り向きざまに思い切り殴りつけてやった。
言葉の途中でいきなり殴られた男は、避けることも出来ずに蛙のように倒れると、鼻を抑えながらバタバタと足を動かす。
それを呆然と見下ろしいた三人は、我に返ると目を吊り上げて声を荒げた。
「てめえ! よくもやりやがったな」
「やっちまえ!」
――地にうずくまって怯える四人の顔を思い出し、無意識に口許が緩んだ。
その途端、ミミズ腫れになった右頬の傷がピリピリと痛む。
光の射さない部屋の中、独房と呼ばれるこの部屋は静か過ぎて、自分自身を浮き彫りにされるような居心地の悪さを感じる。
『人を殺めることには手を貸さない。俺は役立つ道具を作るだけだ』
道具屋を営んでいた父の口癖だ。普段は無口で頑固――いわゆる職人気質の男だった。
俺はそんな父を嫌っていた。他の大人は戦争となれば勇ましい様で家を出て行き、誇らしいげに胸を張って帰って来る。
比べて父はそれに背を向け、ただ黙々と大して役にも立たない日用雑貨を作るだけだった。
そんな父に周囲の人間は白い目を向けていたが、当の本人は全く気にも留めなかった。
それが子供ながらにもどかしく、自分は立派な兵士になってやる、と心に誓ったものだ
再び身を動かそうとすると、同じようにジャラリと重々しい鎖の音が鳴った。それと同時に胸元でペンダントが揺れる。
『おまえが道に迷わぬように、その御守りだ』
そう言って、唯一父がくれた物だ。
扉が付き、それを開くペンダント自体が小さな羅針盤となる。もっとも、すでに壊れていて針は明後日の方向を指しているが。
胸元で揺れるペンダントを見るでもなく視線を落としていると、鉄の扉が耳をつんざくような音を上げ始めた。
ゆっくりと扉が開き、暗い独房に仄かな光が射す。
眩しさに顔をしかめる俺を無視し、三人の兵士が無言のまま独房に足を踏み入れてきた。
忌々しいほどに両手両足の自由を奪っていた鎖、それを三人で手際よく取り外す。
身体が自由になると、着いて来い、と短い命令を受け、俺は兵士の後に続いた。どうせ、どこに連れて行かれるのかは分かっている。
上半身に服を纏わぬまま予想した通りの部屋に連れて行かれると、そこには偉そうな髭を生やした中年の男が待っていた。
少年兵の訓練を預かる責任者――いけ好かない男だ。
男はジロリと横目で睨みつけてくると、呆れたようにわざとらしいタメ息をついた。
「またおまえか。今度は四人を相手に大立ち回りを演じたらしいな」
嫌味ったらしい口調がいちいち癇に障る。
俺が何も応えないでいると苛立たしげな足取りで歩み寄り、思い切り左の頬を張られた。しかし、散々に鞭打たれた後だ、それに比べたら遥かにマシだ。
わずかに笑って見せたことが気に障ったらしく、今度は右の頬を張られた。
それでも俺が声の一つも上げずにいると、白じんだように鼻を鳴らして胸元のペンダントに目を留めてきた。
「なんだそれは?」
そう言ってペンダントを掴まれると、俺はわずかに狼狽したのだろうか、そいつは嫌な笑みを浮かべてきた。
姑息な人間は相手の弱みを握ったとき、皆がみんな同じ笑みを見せる。
「軍人の身でありながら女々しく首飾りなどと――」
言いながらペンダントを引きちぎり、一度手許で遊ばせた。
それから見せつけるように顔の前で左右に揺らし、満足げに目を細めたかと思うと、ペンダントを掌の上で滑らせるようにして床に落とした。
一度俺に視線をよこし、鼻を鳴らすと蟻を踏み潰すようにペンダントを踏みつけた。
相手は俺が悔しがっていると思っていたのだろうが、その実これといった感情は湧いていなかった。
もう壊れていて役に立たない。構うことはない、はずだった――
パキリと何かの割れる微かな音が聞こえた。羅針盤のガラスだろう。
その音を耳にした途端、俺のこめかみのあたりで何かが引きちぎれるような感覚があった。
背中を向けた男に衝動的な殺意が湧き上がる。
ガラス棚に飾られたサーベルに目を留め、ガラスを割ると中のサーベールを手に取った。
ガラスが割れる音で振り返った男の顔は、滑稽なほど強張っている。
俺はゆっくりと歩み寄ると、後退る男の額にサーベルを突き立てた。
耳の奥でドクドクと脈が鳴り響き、自分の荒い息遣いがどこか遠くから聞こているようだった……。
少年兵だろうが、上官殺しは死罪。
帝国領土からボロ雑巾のようになりながらも東へ逃げ続け、野盗まがいに金品を奪う。
初めは『まがい』だったことも、しばらくすると文句の付けようがない野盗になっていた。
お決まりのパターンだが、『お決まり』ということはそうなる人間が多いということだ。
多いだけに、そうなるのは容易く時間もかからない。身を落とすのは誰でも出来るということだろう。
同類が集い、気付けば昔と同じように『狂犬』と呼ばれる。だが、同じ呼び名でも異なるのは、どこか尊敬と畏怖の念が込められていたこと。
そんなヤツらを引き連れて、わずかな金品のために行商人や旅人を襲う――その実体は、狂犬どころか小汚い水路を彷徨うドブネズミだ。
懐に手を潜り込ませ、歪んだペンダントを引き出す。
扉を開けて中の羅針盤を見ると、ガラスは割れて針は折れ曲がっていた。
(道に迷わぬように、か……)
自虐的に笑いペンダントの扉を閉じると、遠くの道に男の姿を見た。
今日の獲物だ。
「命が惜しかったら荷物を置いていきな」
いつものように取り囲み、決り文句で脅しをかけた。その台詞を言う役もいつも決まっている。
その芸の無い台詞に、男は怯える素振りも見せず、ただ困ったように苦笑いを浮かべていた。見るからに冴えない男だ。
取り囲んだ仲間の一人が刃こぼれの酷い切先を向ける。
震えて荷物を置いていく――それがいつものパターンだったが、今回は違った。
男は向けられた切先に怯むことなく逆に一歩踏み込むと、あっさりと腕を捻り上げて剣を奪ってしまった。
男は奪った剣に視線を落とし、刃こぼれを確認するように指先で軽く触れる。
「剣の手入れはちゃんとした方がいい」
そんなことを言いながらタメ息をつく男に、他の連中が剣を片手に襲いかかる。
しかし、男は宙に舞う木の葉のようにノラリクラリと攻撃を避け、奪った剣一本で次々に倒していく。俺はというと、その間に一歩も動くことが出来なかった。
致命傷を与えることはなく、ただ戦意を削がせる程度の傷で済ませる。圧倒的な腕の差がなければ出来ない芸当に、俺は完全に見蕩れてしまった。
残りが自分だけとなり、我に返って慌てて飛びかかったが腕の差は歴然だ。あっさりと跪いた俺に出来るのは、ただ男を睨みつけて強がりを吐き出すことだけだった。
「いいぜ、殺せよ。俺は狂犬らしいからな、生かしておいたら必ず喉元を食い破るぞ」
空虚な言葉を吐き出す。
男は困ったような苦笑いを浮かべて頭を掻くと、傍らに倒れる仲間の襟首を掴み上げた。
短く漏れ出る仲間の悲鳴。
男は剣を立てると、眼球に切先を向けて俺の方に視線だけを向けてくる。
「君は殺さない。君はね、そこで人の恐怖というのを目にし、自分自身が恐怖するといい。――どんな顔をするのか楽しみだ」
男が薄い笑みを浮かべる。その笑みは背筋が凍るほどに冷たく、恐怖というものを俺に与えた。
唖然とする俺を尻目に男は再び視線を落とすと、切先をさらに近づけ眼球を抉りにかかる。
その直後、許しを請う仲間の悲鳴と俺の声が重なった。
「止めろおっ!」
その叫びに合わせ、切先が眼球に触れる寸前で男は動きを止めた。
男が俺にゆっくりと顔を向けてくる。
睨みつける俺に向かって男は満足げな笑みを浮かべると、仲間の襟首をそっと放して剣を地に投げ捨てた。
男の殺気が消えると同時に、自分が震えていたことにやっと気付いた。
片膝を突いたまま動けないでいる俺に向かい、男は歩み寄ってきて目の前で同じように片膝を突く。
「今、私を止めようとしましたね。――君は狂犬ではないよ、狂犬はそんな理性を持ち合わせてはいない」
男は真っ直ぐに見据え、静かにそれだけを言って立ち上がる。
俺は、額に汗を浮かべたまま呆然とし、男はさらに言葉を続けた。
「悪いことは言わない、これに懲りたら足を洗いなさい。残念ながら、君の瞳を見る限り賊に向いているとは思えない。君は少し道に迷っただけだ」
男の言葉がいやにはっきりと聞こえ、道に迷わぬように――そう言った父の声が不意に耳に甦った。
「ちくしょう、ちくしょう! 殺してやる、必ずあんたを見つけ出して殺してやる!」
「君の腕じゃまだまだ無理ですよ。せめてあと五年は必要ですね」
そう言って去って行こうとする男の背に、俺はありったけの脅し文句を並べ立てた。
「必ず見つけ出して!」
しかし、男は気に留めた様子もなく晴れた空を一度仰ぎ見ると、何事もなかったかのように俺を置き去りにしていった。
遠ざかる男の背を睨みつけながら頬を拭う。
悔しさか、惨めさか、それとももっと別の何かか、親父が打ち首にあった日以来の涙が頬を伝っていた――
あの日に言われた五年、その倍を越える年数が流れたが、命を奪う機会は訪れなかった――永遠にそんな日は来ないだろう。
「ほら、早く来て下さい、賊が逃げちゃいますよ」
どこかのんびりとした呼び声に顔を向けると、あの日と変わらぬ困ったような苦笑いがそこにはあった。
俺が頷いて返すと、小さく吐息を漏らして俺に背を向ける――あの日と変わらぬ背だ。
隣に並ぶと、小首を傾げて不思議そうな眼差しを俺に向けてくる。
「何を笑っていたんです?」
「笑っていません」
「さっき笑っていたじゃないですか」
「いいえ、笑っていません」
「やれやれ、カーク君は本当に頑固ですねえ。きっと職人だったというお父上に似たんでしょうね」
そう言われ、思わず口許が緩んだ。父親似――何度も母に言われた言葉だ。
「あっ! 今は間違いなく笑ったでしょ!」
「いえ、笑っていません」
「……」
あの日に追った背は、今も変わらず俺の行く道を示す。
その背を追うかぎり、もう道に迷うことはない……
久々の更新です。
ええ、実はこの4章は、ずっと前に更新する予定でいたので、すでに書き上がっていました。
本編の方でちょっとした変更があり、投稿するタイミングを失っていた話です。
一時は、ボツかな?と思っていた話なので、投稿する機会があって良かったです。