ヒミツ
「葉巳は、怖くないの?」
ヤケになったのか、葉巳は鍵を足で蹴り始めた。意外と大きな音がして、私は肩をびくつかせた。脚力は割とあるらしい。
「だってここ……葉巳の家だよ? 自分の家に訳も分からず閉じ込められて、怖くない?」
「んー……あんまり」
ガンッ
彼のスリッパが、鍵の上でへにゃりと曲がっていた。
「アルトがいるから。俺が一番、こわいのは――」
ガンッ
「アルトが、俺の前から、いなくなっちゃうことだけ」
ようやく足を下ろす。やはりドアに変化はない。
葉巳は静かに私を見た。さっきのような、幸せいっぱいの笑みではない。その言葉は必要以上に脆く、気軽に飲み下したら跡形もなく消えてしまうように思えた。
「……いなくならないよ」
無意識に、傘を両手で握りしめる。
「どこにもいかない。葉巳がいいって言ってくれるなら、側にいたい」
彼は一度まばたきをして、それから、いつものように笑ってくれた。照れを表すかのように、ブランケットの端をつかんだ両手をばたばたさせる。
私は体の向きを少し変え、小さく息をついた。心臓が不規則に収縮しているように感じる。目も渇いている気がする。
嘘をついた。
今日、私は葉巳に、言わなければならないことがあるのに。先延ばしにしたところで、どこかで告げなければならない。いつかこうすると思っていたこと。これから――私は――
もう一度、傘の柄を強く握る。
まだだ。こんな状況下で言い出すことではない。先に、どうにかしないと。
「どうにかって、何を?」
髪をかするぐらいの近さから葉巳がぴょこっと顔を出し、私は驚きのあまり硬直した。
「え、え……口に出てた?」横を見たまま、かろうじてまばたきをする。
「うん。どうにかしないとって」
彼の顔が引っ込み、思わず上がっていた肩を下ろす。つぶやいてしまっていたのは、その言葉だけだったらしい。
再び息を吐き出したところで、ふとひっかかるものを感じた。
私はくるりと葉巳に向き直った。
「『何を』?」
「だって、別に、このままでもなんにも困んない。紅茶はもっかい作れるし、あ、でも、アルトの上着は返してもらわないといけない」
彼はしょぼんと落ち込んだ。私は開いた口がふさがらなかった。
「外、出られないんだよ?」
「もともと、そんなに出ない」
「私が帰れないんだけど」
「お泊りすればいい!」ぱあっと顔を輝かせる葉巳。
「もし出られないままなら、食料とかも必要になってくるし」家の中で遭難、というワードをちらつかせてみる。
「さっきの部屋から、倉庫、に下りれる。鍵のついてないドアだから、たぶん開くよ。食べ物以外にも、いろいろあるんだ」さすがお屋敷、非常時の備えもばっちりという訳か。
「っ、他の部屋に入れなくな」最後の抵抗とばかりに挑む。が、あっけなく遮られた。
「だいじょうぶ! とくべつ大事な場所とかないもん」
……怖くないのかと聞いた自分が愚かだった。
葉巳は本当に、訪れうる危機に対して興味がないだけなのだ。いつか何とかなるだろうし、ならなければそれでもいいと考えている。本当に、こんな妙な状況でなければ、尊敬したくなるような神経の太さだ。
この数分で何度目かになるため息をつく。
「……あ、でも」
私のカチューシャについた花の飾りをいじりながら、彼が言った。
「図書室は、使えなくなるといやだなあ」
そういえば、彼は無類の本好きだった。私は前に一度だけ見た、大規模すぎる図書室を思い出した。
前の持ち主である富豪も、相当の読書家であったらしい。ホールと言ってもいいその図書室は、屋敷の最上階、つまり四階までの吹き抜けとなっている。円形の部屋の壁一面には、本がびっしりとつまった棚が備え付けられていて、迷路のように階段が交錯していたはずだ。富豪の趣味で学術書よりも小説の方が多いそうだが、葉巳はジャンルを気にせず読み漁っているようだった。
ようやく前向きな意見が出たのを機に、私は彼を引きずっていくことにした。
「じゃあ図書室に行ってみよう!」
「アルトいれば暇じゃないから、別に……」
「ほら、私じゃ場所分からないから案内して」
葉巳は渋々といった様子で、私の前へ行く。さりげなく、手をつなぎ直すことも忘れなかった。