サイカイ
大きな扉の取っ手を持ち上げ、どんと一回鳴らした。重い。電車の暖房で温められたはずの指はすでにかじかんでいて、鉄製の取っ手も冷たいとは感じなかった。
もう一度持ち上げようとしたところで、走ってくるような足音が聞こえた。
勢いよく扉が開き――という訳にはいかなかったが、何かが体当たりしてきたような衝撃で、扉が少しだけすき間を作る。
「い、今すごい音が」
「アルト!? ちょっと待って……ふぬっ、んん……!」
扉が少しずつ、少しずつすき間を広げていく。見た目だけは運動のできそうな体躯が見え始めるが、あくまで徐々にしか扉は開かない。ようやく人が通れるほどの広さになった時、両腕に全体重をかけていた彼はぱっと顔を上げた。
「アルト!」
向こう側で青年が破顔する。すると、のろのろとしか扉を開けられなかった人物と同じとは思えないほどの強い力で、私をぎゅっと抱きしめた。幸せな気分に浸るのも束の間、ギイイと重たそうな音が耳の後ろから聞こえてきた。
「わっ、葉巳、葉巳扉! はさまれる!」
「え? あ、ふぇわあああっ」
彼は慌てて私を中に引きいれた。三つ編みが捉えられるギリギリで、扉は大きな音を立ててしまった。
「ご、ごめん……」
「……私ね、こう、ばあんって扉を開けてくれる葉巳を期待してたんだけど……見た感じ、相変わらず力なさそうだね」
鍵を閉める後ろ姿に言う。身長もそこそこあるし、華奢というほどでもないのに、葉巳は力が弱い。彼のプライドのため言いこそしないものの、おそらく腕ずもうをしたら私が勝つと思う。
彼は振り返って、二、三度、手を握ったり開いたりした。
「きん……筋肉トレーニング、してるんだけど」
「どんなの?」
「えっと、フライパン振ったりする。あと歩くの禁止で、走ったりだけする」
何ともコメントのしづらいトレーニング方法である。多分、フライパン両手でしかも上下とかに振っているだろうし。
私は久々に見る葉巳を観察した。
どこもかしこも相変わらずだ。フードのついた白いトレーナーに、足首の見える細身のパンツ(ちなみにこの服装は真冬も真夏も大して変わらない)。それらに不釣り合いなチェック柄の薄いブランケットを羽織っている。サイズも少し小さい。黒髪に、おだやかな目元。その緑色の目は子供っぽくきらめいている。
悔しそうにうつむいていた彼が、ふと言った。
「アルトは、背、伸びた」
「え、そうかな?」
「さっきぎゅってした時、前このへんにあった頭が、今、このへんだった」
自分の腹と胸のあたりで力いっぱい手を水平に振って見せるが、思わず笑ってしまった。
「半年でそんなに伸びないからね? 十センチぐらい違ってる、それ」
「じゅうご?」
「あ、年? うん、15だよ。葉巳は22だよね」私はうなずいた。
「……うん」
「ちょっと、なにすねてるの」
七歳年上の青年は、ブランケットの端をいじりながらそっぽを向いた。
「アルト、どんどん大きくなる。俺、もう背伸びないのに」
「葉巳がもっと大きくなっちゃったら、私会話するのに疲れちゃうよ」
すでにいつも見上げないといけないのだ。これ以上首を曲げたくない。
「じゃあ座って話せばいい。歩く時は、俺がアルト抱っこすればいいでしょ」
「抱っこはちょっと……」それを普通として歩きながら会話するのは、絵づら的にも微妙だ。
「俺、アルト10人ぐらい抱っこできる!」
そう言うが早いか、彼は私を抱き上げた。思わず声を上げてしがみついたが、意外と彼の腕は安定していた。常識と、少しぷるぷると震えているところから10人はまず無理だろうが、歩くことぐらいはできそうだった。
珍しく、私が見下ろす体勢になる。私の方が身長も年も下なのに、腕力のなさに耐えつつも挑むような視線を向けてくる葉巳は、上目づかいがとても似合っていた。
いたずら心がさわいで、彼の頬をつねってみる。
「ひゃむっ」
「葉巳は、しゃべるの前よりもスムーズになったね」
「ふぇ、ほんひょ!?」
手を放すと、彼は嬉しそうに笑った。
「テレビ、買ったから。見ながら、練習した! アルトにもっと、俺の言葉、聞いてほしい」
葉巳は、発話能力に少し問題がある。けれど知識は豊富で、文章能力にいたっては人並み以上だ。ただ、脳と喉をつなぐ神経のはたらきが悪いという。頭の中には普通に存在している文章が、声に変換する段階で情報を欠落させたり、発話するのに楽な言葉へと勝手に単語の置換を行ってしまったりするらしい。
当人でない私には、正直難しい脳プロセスは分からない。だが、少しずつ丁寧にしゃべろうとする葉巳のテンポは、多く話す方では私にとって、むしろちょうどよかった。