3.
単独での女王蜘蛛討伐に加えてこれらの功績もあり、国連は連邦特別褒章をもって軍曹殿に報いた。それは類を見ない名誉であるのと同時に、三族を終生養っても尚余るほどの財貨を保証するものである。
けれど軍曹殿は、この栄誉に先んじて呪いを受けていた。
死に際の女王蜘蛛が編んだ邪毒、肉を蝕み骨を腐らせる死呪は、気術の達者たる軍曹殿ですら防ぎ得ぬほど強力で、そして悪辣だった。
その解析結果は時間的矛盾を訴えた。数日で対象を死に至らしめる呪染の除去には、数十年以上の時間が必要とされた。
国連は戦力、声望の両面から軍曹殿を失うのを恐れ、同時に彼の卓越した技術の途絶も危惧した。その結果緊急に組成されたのが胞衣法術であり、その特殊術式を構築、維持する為の車椅子である。
仮想構築された胞衣で包む事で軍曹殿の肉体に作用する時間を停滞させ、その間に浄化霊力を練り上げ、集積する。そして一定の期間ごとに胞衣を解き、軍曹殿を蝕む毒素の解呪を行う。
一見合理的なそれは、実に非情な手段だった。
命を永らえる事が叶ったとしても、完全な自由を取り戻すまでに半世紀近い時が流れてしまう。それは一個人には長すぎる断絶だ。親しい友も係累も、おそらくはその殆どが逝去してしまっているだろう。だというのに本人の体感上は、わずか2日ばかりしか過ぎていないのだ。通常時間に復帰した軍曹殿を待つのは、おそらく孤独しかない。
ある意味死刑宣告にも似た処置であったが、軍曹殿はこれに応じるに当たってただひとつだけ条件を出し、それだけで後は全てを呑んだ。
曰く「施術期間中は我が身を国に戻し、その守護に当たらせるべし」。
初期の襲撃による滅亡を免れた世界各国は、現在それぞれの国教が展開する大規模な遮蔽結界により守護されている。しかし残念ながら、これも完璧ではない。
界面下への潜行を持つタイプの蜘蛛は、その異能により結界壁をすり抜けて、浸透作戦を展開しうるのだと過去の例が証明している。
前線で常時力を振るえなくなった軍曹殿は、この奇襲への対策として、カウンターテロとして自身が用いられる事を望んだのだ。
彼の体を包む時の胞衣は、その目的上、開封と再構築が比較的容易に組まれた術式である。そして短時間の活動であれば、呪詛進行も極めて薄弱だ。
軍曹殿はその二点に着目した。常時用いれぬのならば、有事にのみ用いればよいと考えた。危急においては胞衣より出でて一個の刃に立ち戻り、敵戦力を阻止、或いは殲滅。然る後法術を再展開し、休眠状態に戻ればよいとしたのである。
状況を考慮した短い討議がなされ、軍曹殿の提案は可決された。
かくて、軍曹殿を長とする、ただ二名の部隊が編まれた。
戦力としては極少、ほぼ単身に等しい部隊だ。だが浸透作戦を行う蜘蛛は元より少数であり、更に軍曹殿の卓越した戦闘能力は、彼の大戦果が証明するところだった。大部隊を運用するよりも、むしろ機動性に優れるとさえ言えた。
軍曹殿の他にはもう一名、常に彼の傍らにあり、術式のメンテナンスと有事に際して胞衣のオンオフを行う世話係が付くべしとされた。
上が軍曹殿を高く評価していると知れるのは、この世話係を魔術技官と定めたところだ。
自身も魔女たる私が高言するのは少々ははばかられるのだが、実のところ、一小隊よりも魔術技官ひとりの方が貴重な存在である。魔女を抜きにした部隊の運用は、現在ほぼありえないと言っていい。
心霊手術による負傷兵の救護能力に加え、自らの霊基構造を分割して生む使い魔は、その同時性から戦場での通信手段として欠かせない存在となっている。
更に魔術技官とその使い魔は、精神感応の媒体としても機能する。発声として出力された思考をダイレクトに周囲に伝播する事が可能なのだ。つまり魔女のひとりが居れば、部隊内に言語の壁は存在しなくなる。万能の生きた同時通訳機というわけだ。
また使い魔は機器に憑依──動物や人間にも憑かせうるが、これは連邦条約により規制されている──し、それを手足の如く自在に操る。主に物資輸送に用いられる術技だが、その気になれば爆薬を破壊目標まで、自分の足で歩いて行かせる事だってできる。
無論これらはほんの一例。他にも個々人の資質と用途に応じた活用法が星の数ほども存在している。
よって戦場で名を知られるような魔女ともなれば引く手数多であるし、優れた魔女と共に在る事は兵士のステータスとなっていもいるのだ。
技術が必要とされるとはいえ、その魔術技官を惜しげもなくただひとりに付けるのだから、全く厚遇は並みではない。
そして最初にこの役を務めたのが、私の祖母である。志願しての就任であったそうだ。
祖母はかの撤退戦の折、軍曹殿の部隊にいたのだと聞いている。下衆の勘ぐりであるやもだけれど、祖母は軍曹殿に淡い想いを抱いていたのかもしれない。
そんな祖母もやがて結婚をし、母を産んだ。
母に魔女の才は現れなかったが、私は幼少の頃からその血を色濃く見せた。退役した祖母は手ずから私を教育し、私が15の歳を迎えると、自身の後任の後任として私を推した。
私が軍曹殿の部隊に配属されるのを見届けると、その年の冬を待たずに60と少しの生涯を閉じた。
そうして私は日に三度、軍曹殿の車椅子を押して担当地域の外周、一周およそ5kmを周回する事となったのだった。