──いいえ。わたしがあなたとの婚約を破棄したいのは、あなたに愛する人がいるからではありません。
「──何故だ?!」
クーヘン伯爵家の次男であるパットは、納得がいかないといった風に、声をあげた。
ここは、王都にあるクーヘン伯爵家所有の屋敷である。現在は王立学園に通うパットが親元をはなれ、使用人と暮らしている。けれど、今日は違う。普段はそれぞれの領地にいるパットの両親も、婚約者であるオーレリアの両親も、応接室に勢揃いしていた。
パットはテーブルを挟んだ正面に座っているオーレリアに向かって、叫んだ。
「確かにぼくには、きみの他に愛する人がいる。でもその人は平民で、ぼくはその人と結婚はできない。だから、きみと──こんな言い方は卑怯かもしれないが、きみの家にお金を援助することと引き換えに、きみはそれを受け入れたうえで、ぼくと婚約してくれたんじゃなかったのか?!」
正面に座るオーレリアは、膝のうえに置いたこぶしを強く握った。
「……あなたの言う通りです。元より貴族の結婚など、政略的なものの方が多い。そんな中、没落寸前の我がヴェッター伯爵家に援助してくれたうえ、あなたのような優しいお方が我が家に婿養子としてきてくれるなど、まるで夢のようなお話でした」
「──なら、どうして? ぼくがきみを一番に愛せないから? けれどきみは、それでもいいと言ってくれたよね?」
パットが質問攻めにするが、オーレリアは答えないどころか、顔すらあげてくれない。
「お願いだ。どうか理由を教えてくれ。ぼくはきみが嫌いなわけじゃない。むしろ、他に愛する人がいると言ったぼくを、正直で誠実だと笑ってくれたきみにはちゃんと好意を抱いている。ヴェッター家のために、この身を捧げる覚悟もある。子どもだって──」
そこでパットは、はっとした。
「……もしかして、アデラインと会ったあの日、何かあったの? 学園を数日休んでいたのは、そのせい?」
それまで沈黙を貫いていたパットの両親はぎょっとし、顔面蒼白でパットに詰め寄った。
「お、お前……オーレリア嬢とアデラインを会わせたのか……っ」
「何てことを……っ」
「い、いえ。その……」
オーレリアはうつ向きながら「……違います。わたしが、パット様の後をつけて」と、膝のうえに置いたこぶしをぎゅっと握った。
「そう、なんだ。父上たちはオーレリアとアデラインを絶対に会わせてはいけないっておっしゃっていたけれど……オーレリアは前から一度アデラインに会ってみたいって言ってくれていて……。アデラインの部屋の扉がノックされて、出てみたらオーレリアがいて驚いたけど──ここまで来てくれたからには、アデラインを紹介しようと思って……アデラインも喜んでいたし」
それからパットは、もう一度、同じ質問をした。
「ねえ、理由を教えて? きみが学園を休みはじめたのは、その次の日からだった。きみはアデラインにあいさつしただけですぐに帰ってしまったけど、ぼくが見ていた限り、何も問題はないように思えた。なのにどうして──」
「…………言えません」
ぽつりと小さくもらされた言葉に、パットはますます混乱した。よくよく見ると、握りしめられたオーレリアのこぶしは、僅かに震えていた。
少しの間のあと、重く口を開いたのは、オーレリアの父親──ヴェッター伯爵だった。
「……逆にうかがいたい。理由を申して、本当によいのですかな?」
パットが不思議そうに首をかしげる。
「もちろんですよ。ぼくは、オーレリアとうまくやれていると思っていました。理由があるとすれば、ぼくに愛する人がいることぐらいしか思いつきません。けれどそれは、オーレリアはむろん、ヴェッター伯爵も納得していたことではなかったのですか?」
「……そうですな」
「ならば、どうして」
「それは──」
そのとき。
顔面蒼白でうつ向いていたパットの母親が「……やめて……やめてください!!」と、悲痛な声色で叫んだ。
「……やはり、あなたたちはご存知だったのですね」
これまでの様子から全てを察したヴェッター伯爵夫人が静かに呟く。クーヘン伯爵とクーヘン伯爵夫人は答えない。ただ、クーヘン伯爵の隣に座るパットだけが、訳がわからず動揺していた。
「ど、どういうことですか。父上、母上。何かご存知なのですか?」
パットが詰め寄るが、二人はなおも無言を貫く。ヴェッター伯爵は、重いため息を一つ、もらした。
「……クーヘン伯爵。貴殿の息子と娘の婚約は破棄させていただく。よろしいですな?」
クーヘン伯爵より先に声をあげたのは、パットだった。
「ま、待ってください! ぼくとの婚約を破棄してしまえば、援助もなくなります。それで本当によいのですか?!」
「……オーレリアは、大事な娘なのです。それに、慰謝料が入れば、それを元手に何とか──」
「じょ、冗談ではない。アデラインのことはきちんと最初から説明していましたし、慰謝料を払う義務など……っ」
そこに割って入ったのは、クーヘン伯爵だった。
「……致し方ないですな。慰謝料はお支払いする。だが、このことは決して誰にも話されないよう」
続けてクーヘン伯爵夫人が「……どうか、お願いします」と頭をさげた。少しの沈黙のあと、オーレリアがそっと口を開いた。
「……それで、本当によいのですか?」
心配気な声色に、クーヘン伯爵夫人は苦笑した。
「……よくはありませんね。でも、どうしようもないのですよ」
そう言って、クーヘン伯爵夫人はパットに視線を移した。ただひたすら困惑する息子に、泣き笑いを浮かべる。その様子に、オーレリアはこれ以上追及することを止めた。
「……そう、ですか。あの、それでこれからどうなさるのですか? 次の婚約者を探すのですか?」
「それは……」
クーヘン伯爵はぐっと口を引き結んだあと、クーヘン伯爵夫人と顔を見合せた。クーヘン伯爵夫人が無言でうなずく。もしかしたら今日の話し合いの内容を、予め予想していたのかもしれない。
「……父上?」
首を傾げるパットに目線を移したクーヘン伯爵は、迷いながらも、口火を切った。
「──パット。お前は、アデラインと一緒になりなさい」
パットは、ぽかんとした。
「え……いい、のですか? ですが、父上たちはあれほど反対して」
クーヘン伯爵は、小さく笑んだ。
「ああ……いいんだ。お前は例えクーヘン伯爵家から除籍されたとしても、アデラインと一緒に生きたいと言った。けれど私たちはお前が……心配で。だが、愛する人がいてもよいと、愛する人の元に通っても笑って許してくれる令嬢は、オーレリア嬢以外にはいないだろう。それに、社交界にも噂は広まるだろうしな。だから──好きにしなさい。それでもお前が私たちの息子であることに変わりはない。それだけは覚えておきなさい」
「……そうよ、パット。学園を卒業したら、自分でお仕事を見つけなければならないけど、困ったことがあったらいつでもわたくしたちを頼っていいのよ……?」
温かい両親の科白に、パットは胸が熱くなる。突然の婚約破棄。理由も何もわからない。でも、いくら政略結婚とはいえ、他に愛する人がいる身で結婚するのは、アデラインにも、オーレリアにもどこか後ろめたさがあったのは事実だ。それでもクーヘン伯爵家のためには、平民のアデラインより、貴族令嬢であるオーレリアと結婚する方がいいのはわかりきっている。それに、将来の苦労も違ってくるのは、目に見えて明らかだ。
──でも。
「……はい、父上。母上。ありがとうございます。ぼくは自分でお金を稼いで、アデラインと共に生きます。決して、父上たちにご迷惑をおかけしないことを誓います」
パットの両親は静かに、こくりと頷いた。パットは微笑み、続いて、オーレリアに顔を向けた。
「オーレリア。もう、理由は聞かないことにするよ。きみには本当に、申し訳ないことをしたからね。いくら家のためとはいえ、他に愛する人がいて、その相手の元にせっせと通う婚約者なんて、誰だって嫌だよね──ごめん」
パットが申し訳なさそうに謝罪する。オーレリアは何かを言おうと口を開きかけたが、ぐっと唇を噛みしめ、それを呑み込んだ。
少しして。
「……いえ。どうか、お元気で」
絞り出すように言うと、最後に一つ、力なく笑った。
アデラインの両親は、クーヘン伯爵の領地で飲食店を営んでいた。町でも評判の飲食店で、クーヘン伯爵はよくアデラインの両親に頼み、屋敷に料理を持ってきてもらっていた。
両親と共に、よく屋敷に来ていた同じ年の可愛いアデライン。屋敷からあまり出ることのなかったパットがその女の子を好きになるのに、あまり時間はかからなかった。
──けれど、数年経ったある日。
アデラインの家に賊が入り、両親が殺されてしまったのだ。一人残されたアデラインは、王都にいる親戚の元に預けられることになった。
「あと二年したら、ぼくは王立学園に通うことになる。そしたら絶対、アデラインに会いにいくよ」
「……うん、うん。待ってる。絶対に、会いにきてね」
そんな会話を最後に二人は別れ、手紙のやり取りを続けて二年後。二人は約束通り、王都で再会した。
アデラインはとうに親戚の家から追い出されており、カフェで仕事をしながら、一人で懸命に生きていた。別人かと思うほどに痩せ細ってしまったアデラインを見て、パットは考える間もなく、アデラインを抱き締めていた。
「──これからは、ぼくが力になるから」
そう言うと、アデラインは子どものように声をあげて泣きはじめた。幸いにして、パットは次男だ。平民であるアデラインとの結婚も、叶うかもしれない。そう考えたパットは、さっそく両親に手紙を送った。
両親は優しい人だ。けれどやはり、はいそうですかというわけにはいかなかった。当然だろう。貴族の子どもとして生まれたからには、それなりの役目というものがある。
『まだ学園に入学したばかりで、時間はある。もう少し、よく考えてみなさい』
父親からの手紙には、そう綴られていた。思いやりがある両親だからこそ、失望させたくない。期待には応えたい。そんな思いから、パットは一つの可能性にかけた。
愛する人がいて、その相手の元に通ったとしても、受け入れてくれる令嬢を探してみよう。都合が良すぎるかもしれないが、もしかしたら。
そうして見つけたのが、同じクラスとなったオーレリアだった。
貴族社会は狭く、噂はあっという間に広がるものだ。
オーレリアが学園に入学したときにはすでに、ヴェッター伯爵家が借金を背負っていることが周知されていた。家を立て直すため、恋愛結婚はあきらめ、どんな条件であろうと、お金を援助してくれる人が相手ならば、家のために受け入れよう。そう覚悟していたオーレリアに話しかけてきくれたのが、パットだった。
「その、何だか弱みにつけこむようで申し訳ないのだけれど……」
パットは、愛する人がいると語った。けれど相手は平民で、でも定期的に会いたくて。それでもよければ、考えてみてくれないかと。
はじめて会話してみたが、見た目も話し方も温厚で、オーレリアは好印象を抱いた。だから、迷いながらもオーレリアはこう答えた。
「……それは、構いません。でも、あの……ご存知の通りヴェッター家はお金に困っていて、ですね……援助はしてくださるのでしょうか……?」
とたん、パットは目を輝かせた。
「え、本当? この条件でも、ぼくとお付き合いしてくれるの?」
「……えと、はい」
「そっか、ありがとう。援助のことは、ぼくの判断で約束はできないから、父上に相談してから返事をするよ。少し時間をもらえるかな?」
今度はオーレリアが「! よ、よろしくお願いします」と目を輝かせ、頭をさげた。
両親の承諾をもらうため、クーヘン伯爵の領地に直接赴いたパットが次に学園に顔を出したのは、それから十日間も経ってからのことだった。
「オーレリア嬢!」
何の音沙汰もなかったある朝。学園の廊下を歩いていたオーレリアを呼び止める声があった。振り返るとそこには笑顔のパットがいた。
「パット様……」
正直、何かあったのではないかと不安だったオーレリアは、静かに安堵していた。そんなオーレリアに近付いてきたパットは、さっそくだけれど、と口火を切った。
「父上が、ぼくが言った条件を呑んだうえでぼくと結婚してくれるなら、喜んで援助すると約束してくれたよ」
オーレリアは「ほ、本当ですか?!」と興奮気味に声をあげた。
「もちろん。それでね。善は急げとばかりに、きみの両親──ヴェッター伯爵にあいさつに行きたいと言っていて」
「! わ、わかりました。さっそく、両親に手紙を書いて、早馬で送るとします」
「そうしてくれると助かるよ」
そうして、怖いぐらいにトントン拍子で話しは進んだ。互いに利害が一致していたから。パットも、オーレリアたちも、そう思っていた。けれど今思えば、クーヘン伯爵たちは、相当焦っていたのだと思う。
愛する人がいる。それを理由に、パットがオーレリアを蔑ろにすることは決してなかった。月に数回はデートしていたし、キャンセルはおろか、遅刻されたことすら一度もなかった。
そして二人でいるとき、オーレリアが話をふらない限り、パットはアデラインの名を口に出すことすらしなかった。
パットは紳士的で、とても優しかった。そんなパットに少しずつ、少しずつ、オーレリアが惹かれはじめていた、十二月のこと。
「わたし、一度、アデラインさんにお会いしてみたいです」
学園の食堂で昼食をとっているとき、オーレリアは唐突に、正面に座るパットにそう告げた。パットがキョトンとする。
「突然、どうしたの?」
「わたしの中では突然、というわけではなかったのですが……前からお会いできたらなとは思っておりました。パット様はわたしに気を遣ってあまりアデラインさんのことはお話しになりませんが、時々うかがうアデラインさんの人となりに、もしかしたらお友達になれるかもしれない、と……」
「友達?」
「はい。わたしは家が借金を抱えていることもあり、この学園ではどうしても引け目を感じてしまい……あまり友と呼べる存在がおりません。アデラインさんはわたしとパット様の婚約を承知してくれているとおっしゃっていたので、もしかしたら──ああ。でも、いくら政略とはいえ、やはり愛する人と婚約した女になど、会いたくはないでしょうか……」
「そんなことはないよ。アデラインも産まれ育った故郷をはなれて以来、朝から夜まで働きづめだったから、友達をつくる余裕もなかったみたいなんだ。だからきっと、喜んでくれると思う……のだけれど」
「……けれど?」
パットは、それがね、と苦笑した。
「実は、父上たちからきつく言われていてね。オーレリアとアデラインを絶対に会わせてはならないって。まあ、当然のことだとは思うけど」
オーレリアは、確かにと思いながらも「でも、双方が会いたいと言っているのなら、クーヘン伯爵もきっといいと言ってくださると思いますよ」と笑った。
「そう、だね。そうかも。なら、父上に手紙を書いて、承諾を得ることにするよ。これは、きみの家に援助するための条件の一つでもあったから」
オーレリアは僅かに目を見開いた。
「わたしとアデラインさんを会わせないことが、ですか?」
「うん。そうだよ」
「……何だか、随分と気を遣っていただいていたみたいですね」
「それはそうだよ。何せ、無理を言ったのはぼくだから」
「いえ、そんな……借金のある家に婿養子としてきてくださるだけでなく、援助までしていただけるのですから……わたしはもう、それだけで感謝してもしきれないのに、こんなに気を使っていただけるなんて……」
「それは、オーレリアが優しい子だからだよ。ぼくはきみにも、ちゃんと好意を抱いているよ。ありがとう。アデラインと仲良くなってくれたら、ぼくも本当に嬉しい」
パットが優しくはにかむ。オーレリアは胸が少しだけ高鳴った気がしたけれど、気付かないふりをした。
友達になりたいのは、嘘偽りないオーレリアの本心。
──でも。
(……アデラインさんと会って、この人にはかなわないって、想いは決して届かないって、早く思い知りたいな)
これも、本当。
だからだろうか。
街で偶然見つけたパットの後を、こっそりつけてしまったのは。
休日の昼。予定もなく、一人で街を歩いていたオーレリアの視界に、少し先の街角からすっと姿を現したパットの姿が入った。手に荷物を持ち、いつもオーレリアとデートのときには決して着ない平民の服に身を包んだパットはそのまま、オーレリアから見て左側に進んでいった。
オーレリアは、直感した。
アデラインのところにいく途中なのだと。
アデラインに会いたいと申し出たのは、二日前。まだクーヘン伯爵からの返事はきていない。だから、アデラインにはまだ会えない。でも。
(……会いたい。アデラインさんに。わたしがパット様を好きになる前に)
オーレリアは決意するようにこぶしを強く握りしめると、パットが進んだ方向に足を向けた。
アデラインに会えるのが嬉しいのだろう。機嫌良く、足早に歩くパットは、後ろにいるオーレリアに気付く様子はない。若干の寂しさはあったが、おかげでオーレリアは尾行を続けることができた。
ほどなく、街外れの年季が入った三階建てのアパートに着いた。入り口で立ち話をしていた年配の女性たちに慣れたようにぺこりと頭を下げ、パットがアパートに入っていく。
(間違いない。ここがアデラインさんの住んでいるところだわ)
アパートの向かいにある物陰に隠れながら、オーレリアが確信する。さて。たいした策もなくここまで着いてきてしまったものの、これからどうしよう。突然訪ねたところで、迷惑になるのはわかりきっていただろうに。
そんなことを悶々と考えていると、アパートの入り口にいる年配の女性たちの会話が、オーレリアの耳に入ってきた。
「あれが例の青年かい?」
「そうだよ。あんたは見るの、はじめてだったかねえ」
「あたしはここに住んでないからね。しかし、見た目は普通の青年じゃないか。ここいらじゃ珍しいぐらいに、礼儀正しくて、品も良さそうだ」
「詳しくは知らないけど。おそらくは、どこぞの貴族様の子息だと思うよ。あの子の両親が二度、ここに訪ねてきたことがあってね。身なりや仕草が、そんな感じだったんだ」
「へえ、そうなのかい」
「ああ。どうやらアデラインちゃんが地方にいるころ、家族ぐるみの付き合いがあったそうだよ。……けれど結局、再会は叶わなかった。そしてあの青年は──狂ってしまったのさ」
聞き耳を立てていたオーレリアは、思わず息を呑んだ。狂う、とは何だろう。あの青年とは、おそらくはパットのことに間違いない。けれど、あんなに優しく穏やかなパットには、あまりに似つかわしくない言葉だった。
「そうか……再会しようとしたその日、だったんだねえ。アデラインちゃんが亡くなっているところを、あの子が見つけてしまったのは」
(…………え?)
オーレリアは、ぴたりと動きを止めた。年配の女性たちの会話は続く。
「そうさ。両親と一緒に発見したからまだ良かったものの、あの子一人だったら、今頃アデラインちゃんの死体はそのままで、白骨化していたかもしれないよ」
「怖いこと言わないでおくれ」
「あり得る話さ。だってあの子の中では、確かにアデラインちゃんは生きているんだ。誰もいないあの部屋に通い続け、誰もいない部屋で、一人で会話をしているんだからね」
「そりゃ……可哀想ではあるが、少し気味が悪いねえ」
「──あ、あの!」
二人の会話を遮るように、気付けばオーレリアは物陰から出て、震えながら声を張り上げていた。
「ああ、驚いた。何だい、あんた」
二人の年配の女性が目を丸くする。オーレリアは、はっとしながら「す、すみません」と頭を下げた。
「い、今の話を立ち聞きしてしまって、ですね……あの……わたしは、パットさ……んの学友でして、近々アデラインさんと会わせてもらう約束をしていて……」
年配の女性の一人が、ああ、と声をあげた。
「確かに、あの青年の名前はパットだったね。そうかい。あんたは、あの子の学友なのかい」
「……はい。それで……立ち聞きしてしまったことはお詫びします。あの、先ほどのお話なのですが……っ」
顔面蒼白なオーレリアに、女性たちは顔を見合せ、気の毒そうに顔を曇らせた。
「……あの子があんたに、アデラインちゃんと会わせると約束したのかい?」
「わ、わたしが、パットさんから度々アデラインさんのお話を聞いてて、お友達になりたいから一度会ってみたいとお願いして……でも、パットさんのお父様がわたしとアデラインさんを会わせるのを反対されてて……えと、今日はたまたま街でパットさんを見かけて、思わず後をつけてしまって……」
軽くパニック状態のオーレリアの背中を、年配の女性は「大丈夫かい?」と、心配そうにそっと撫でてくれた。
その温もりに、オーレリアは少しだけ冷静さを取り戻すことができた。
「……す、すみません。取り乱してしまって……」
無理もないよ。もう一人の女性が呟いた。
「突然こんな話を聞かされたら、誰だって動揺するさ。あたしだってこの人から聞かされたとき、ひどく動揺したもんさね」
優しく、気遣うような声音に、オーレリアはある決意を固めた。
「あの……パットさんとアデラインさんのことについて、詳しく教えてもらうことはできないでしょうか」
「詳しく、かい? でもねえ。あの子の親から、口止めされていて……」
「そうは言いつつ、あんた、あたしには話したじゃないか」
「それはあんたがしつこく聞いてきたからだろ? 昔馴染みだし、あんたにだけさ」
「このアパートの大家であるあんたが、一番事情を知っていると思ったからねえ」
オーレリアは背中を撫でてくれた女性に顔を向けた。
「大家さん、だったのですね……」
「まあねえ。アデラインちゃんの様子がおかしいからと、あの青年の父親に医者を呼んでくれと頼まれたのがあたしでね」
「……それは、いつ頃のことだったのですか?」
「十月の中旬ごろだったよ。ほとんど毎日アデラインちゃんを訪ねてきたあの子を数日見かけなくなって、どうしたんだろうって思ったら、朝から両親連れで現れて。地方にある実家に帰っていたんだって言ってたねえ」
オーレリアは知らず知らず「……十月の中旬」と、呆然と呟いていた。それは、オーレリアとの婚約のため。ヴェッター伯爵家への援助の承諾をもらうため、パットがクーヘン伯爵の領地に直接赴いていた時期と重なっていたからだ。
「パットさんが数日王都からはなれていたあいだに、アデラインさんは亡くなっていたのですか……?」
「みたいだねえ。医者によると、死後半日は経ってるようだと言っていたよ」
「ご病気……だったのでしょうか」
「いいや、ご両親を亡くして、そうとう苦労したんだろうね──過労死、だったそうだよ」
オーレリアが目を見張る。
──もしも。わたしのために実家に帰っていなければ、パット様はアデラインさんを助けることができていたのだろうか。
その可能性に、全身がぶるりと震えた。
「大丈夫かい?」
「……は、はい。それで、クーヘンはく──いえ、パットさんのご両親は、今のパットさんの状態をご存知なんですか……?」
「まあ、ねえ。あたしのところにアデラインちゃんの部屋の家賃を持ってきたとき、言っていたよ。精神科医にも見てもらったが、駄目だった。アデラインちゃんの死を無理にでも理解させようとすると、心が壊れてしまう可能性があるんだってさ。だから、しばらくは何も言わず、見守っていてくれ──ってね」
突然。オーレリアの脳裏に、三人の顔が浮かんだ。パットと、クーヘン伯爵。そしてクーヘン伯爵夫人だ。
はじめてパットが両親を連れてオーレリアの家を訪ねてきたことを思い返してみる。あのときの三人の様子はどうだったろうか。
いま聞いた話が全て事実で、オーレリアの予想通りの流れなのだとしたら、あのときすでに、パットはおかしくなっていた。それをクーヘン伯爵たちは、理解していた。確かに妙に婚約について焦っているような印象は受けたものの、それ以外は特に何も気にならなかった。
この女性たちが嘘をついているとは思わない。けれどはじめて会ったこの人たちより、パットたちを信じたい。そんな想いが、オーレリアの中で芽生えた。
──信じたくない。きっと、そんな想いが無意識に優先した結果だろう。
わかっていても、この目で確かめずにはいられなかった。
「……アデラインさんの部屋は、どこでしょうか」
掠れた声に、年配の女性二人はぎょっとした。
「まさか、行くつもりかい?」
「……よした方がいいと思うよ。あんたの精神も、おかしくなるかもしれない」
「かも、しれません……でも、どうしても、この目で確認したくて……」
それから何度か説得されたが、オーレリアは折れなかった。大家は根負けし、アデラインの部屋の番号を教えてくれた。
アデラインの部屋は、二階にあった。階段を上がってすぐ左手にある部屋の前に立つと、オーレリアはごくりと生唾を飲んだ。
そして、震える手で軽く、ノックをした。
はい。
声と共に、扉が開かれた。顔を出したのはアデラインではなく、パットだった。オーレリアの姿に、目を白黒させる。
「え、オーレリア? どうしてここに?」
心底驚いた様子のパット。だが、焦った様子はない。いつも通りの、パットだった。少し安心したオーレリアは、口を開いた。
「す、すみません。あの、街で偶然パット様をお見かけして、きっとこれからアデラインさんのところにいくのだと思ったら、居てもたっても居られず……」
「はは、そうなんだ。ちっとも気付かなかったよ。探偵の素質、あるね。うーん。でもあいにく、父上からの返事はまだきてなくて」
「わ、わかっています。あの、わがままを承知でお願いします。アデラインさんと、あいさつだけでもさせてもらえませんでしょうか……っ」
鬼気迫る勢いのオーレリアに、パットは目をぱちくりさせながらも、少し待っててくれるかな、と部屋に引っ込んだ。かと思えば、すぐに出てきた。
「アデラインも、きみにあいさつがしたいって。二人がいいなら、父上もきっと許してくれるよ。それに、こんな街外れまできてくれたきみを何のもてなしもせず帰すなんて、できないからね」
笑顔のパットに、オーレリアは思った。ああ、やっぱり先ほどの話は全て嘘だったのだと。
「さあ、どうぞ」
招かれ、お邪魔します、とお辞儀しながらオーレリアは部屋に入った。そこは外観と同じく年季の入った、小さな部屋で。部屋は玄関から難なく全てが見渡せた。左奥には机と椅子があり、右奥には寝台があった。
ぱたん。
背後で、パットが扉を閉める音がした。
「アデライン。この子がオーレリアだよ」
パットが寝台に近付き、笑顔で話しかける。けれどそこには、誰もいない。
「? どうしたの、オーレリア。アデラインがあいさつをしているよ?」
顔から血の気が引いていくなか、気付けばパットが、こちらを向いていた。オーレリアは一歩、後退りしていた。
「あ、ああ……すみません……ぼーっとしていました。は、はじめまして、アデラインさん。お会いできて、う、嬉しい、です……」
どこに目線を合わせるべきかわからず、オーレリアは頭を下げながらあいさつをした。パットが「アデラインも嬉しいって」と笑う。
そして。
「そうだね、うっかりしていたよ。お茶を出さなきゃね」
誰もいない空間に向かって、パットが会話をする。オーレリアはその状況が受け入れられず、パニックになりそうな自分を抑えるため「あ、あの!」と叫んだ。
「び、びっくりした。どうしたの?」
「わ、わたし、急用を思い出してしまって……ごめんなさい……っ」
「ああ。それじゃ、街まで送っていくよ。ここは少し物騒だから」
「だ、大丈夫です。まだ日は高いですから……っ」
早くこの空間から抜け出したくて、オーレリアはパットが止めるのも聞かず、部屋を飛び出した。アパートの入り口にはまだあの年配の女性たちがいて、心配そうな目でこちらを見ていた。オーレリアは二人に向かってぺこりと頭を下げ、急いでその場を後にした。
走って走って。賑やかな街まで来ると、ようやくオーレリアは足を止めた。荒い呼吸を繰り返しながら、馬車を探す。
地方にある実家の場所を告げたオーレリアは、馬車に揺られながら、一人涙を流し続けた。
それが何の涙だったのか。
オーレリアにもよくわかっていなかった。
ただ、ただ。
怖くて、ショックで、哀しかった。
実家に着き、突然の帰省に驚いた両親の顔を見るなり、オーレリアは泣き崩れた。
「ど、どうした、オーレリア」
「いったい、何があったの?」
おろおろする両親に、オーレリアは「……ごめんなさいぃ……っ」と両手で顔を覆った。
「ヴェッター家のためなら、何でもする覚悟でした……でもわたしでは無理です……背負いきれません……っっ」
「お、落ち着いて、オーレリア。あなたの好きな紅茶を淹れてきますから、そこに座って。ね?」
母親に促され、オーレリアは応接室の椅子に腰かけた。父親が隣に座り、心配そうにオーレリアを見つめる。
少しして。
紅茶の香りと、久しぶりの味に幾分か落ち着きを取り戻したオーレリアは、静かに、これまでのことを二人に語りはじめた。
パットに愛する人──アデラインがいることは、両親も承知していた。けれど話が進んでいくにつれ、二人の顔からも血の気がどんどん引いていった。
「──クーヘン伯爵はそれを知ったうえで、今回の婚約を承諾したのか……っ。どうりですんなり援助を申し出たわけだっ!」
父親が吐き捨てる。母親は「……オーレリアに、おかしくなってしまった息子を託そうとしたのでしょうか」と、オーレリアの背中に手を添えながら呟いた。
「……クーヘン伯爵たちがこのことをご存知なのかは、まだはっきりとはわかりません。大家さんから話を聞いただけですから。でも──アデラインさんのことは……っ」
オーレリアが涙を流し、頭を抱える。母親はオーレリアをそっと抱き締めた。
「……ええ。あなたがその目で確認したのですから、間違いはありませんね──あなた、どうしますか?」
「決まっている。すぐにでもクーヘン伯爵たちと話し合い、事実を確認したのち、婚約は破棄する。この隠し事は、あまりにひど過ぎる」
「──お父様! パット様は何も悪くありません。ですからどうか……っ」
「張本人であるクーヘン・パットを交えないわけにはいかん……が、私とてそれはわかっているとも。安心しなさい」
「……はい。よろしくお願いいたします……」
オーレリアの脳裏に、最後に会ったパットの顔が浮かんだ。いつもと変わりなく、いや、いつもより満ち足りた顔をして、笑っていた。
(……パット様。どうであれ、あなたは幸せなのですね)
このままでいい、とは言えない。本人が幸せなら、なんて。けれど、オーレリアにはどうすることもできない。
「……ごめんなさい、パット様」
小さく呟き、オーレリアは一筋の涙をこぼした。
オーレリアとの婚約が破棄された日の、夕刻。
「アデライン。調子はどう?」
アデラインの部屋を訪れたパットが、寝台の上に上半身を起こして座っているアデラインに話しかけた。アデラインがにっこりと微笑む。
「悪くないわ」
「そう、良かった。きみは過労で倒れたんだから、無理はしないでね」
「ふふ、大丈夫よ。いまは仕事もしていないし……でも、家賃も生活費も払ってもらって、ごめんね」
「そんなこと、気にしなくていいんだよ。それより、きみにとても大切な話があってね」
「まあ、何かしら」
「前に会った、オーレリアのことは覚えているかい?」
「ええ、もちろんよ。あなたが言っていた通り、優しそうなレディだったわね」
「そう、なんだけど。実は今日、婚約を破棄されてしまって……」
「え? ど、どうして?」
「それが、よくわからないんだ。理由は教えてくれなくて……でも、父上と母上は何だか納得しているみたいだった」
「……もしかして、私のせい?」
「まさか、違うよ。だって、それははじめから伝えていたんだから──でも、正直に言えば、ちょっとほっとしたんだ。オーレリアはとても良い子だから。やっぱり、彼女を一番に愛してくれる人と一緒になってほしいと、心のどこかで思っていたから」
「……そうね」
「でね。父上が言ってくれたんだ。お前はアデラインと一緒になりなさいって」
「! それって」
「うん、そうだよ。ぼくときみとのこと、父上と母上は、認めてくれたんだ。だから、ぼくが学園を卒業したら、結婚しよう。ぼくたちは、もうずっと、ずっと一緒だよ。二度とはなれたりしない」
──同じころ。
アパートより少しはなれた場所にとまる、クーヘン伯爵家の馬車があった。
クーヘン伯爵とクーヘン伯爵夫人が、アパートの方にずっと目を向けている。
控え目で、優しい印象を持ったオーレリアは、アデラインに似た雰囲気をしていた。だから、期待してしまった。結果は──ただ、オーレリアを深い哀しみに巻き込んでしまっただけだった。
こうなってしまえばもう──。
「私たちにできることは、もう、あの子を見守ることだけだ……」
「……そうですね。心が壊れてしまう可能性があるのなら、いっそ、このまま──」
ぽつぽつと、雨が降り始める。
それはまるで、誰かの代わりのように、空が泣いているようだった。
─おわり─




