裏投げ
私たちのチームは二回戦で敗退が決まった。まだ試合中なのにだ。
畳の外から、相手の柔道着をつかみとれずに手間取っているチームメイトを見やった。相手の力が強くて、自分の組み方ができていない。完全に邪魔されて、相手に有利な状態だった。
「がんばれ! ファイト!」
すでに負けてしまった先鋒と次鋒が必死に声を挙げている。けれどもたぶんダメだろう、実力が違いすぎる。
今、試合をしている副将もなんとかしようと腰を落として、投げられないようにしている。だが、その後ろへの力を利用された。
「はっ!」
相手が気合い一閃、綺麗な大外刈り。両足がきれいに吹っ飛んで、宙に浮いた。そのまま落っこちるように畳に叩きつけられる。
「一本!」
審判が右手を高く上げる。文句のつけようもない。
完全に一本負けだった。
ああ、とチームメイトたちが嘆息を漏らしている。
「負けちゃった。相手強いよね」
「仕方ないよ、みんな黒帯だしさ。遊びじゃないんでしょ、推薦入学とか狙ってる感じするもん。相当本気でやってるよ」
何気なく交わされたそんな会話が、私の耳に届いた。試合はこれで四連敗。
次は私の出番。畳を踏み越えて、試合場に進む。帯を締めなおして、何度か頭を振った。
三連敗の時点でもう逆転の目はなくなっていて、副将戦と大将戦は消化試合になっているのだが、試合は続行されている。学生の団体試合は、最後まで行われるのが普通だった。
試合後の礼を交わした副将が私の前を通り過ぎていく。やるだけやった、という表情で、汗を袖で乱暴に拭っている。
「大将!」
呼ばれて前を向く。
たとえ負けていても、全力を尽くすんだ。
「牧田先輩、ファイトぉ!」
後輩たちの応援が耳に届いたが、今は集中。
一礼して、白いテープを踏みこえる。
相手はかなり大柄。百五十五センチしかない私とは、驚くほど体格差があるように見えた。目の前に立ってみると、威圧感さえある。
「はじめ!」
主審のその声と同時に、相手が飛び掛かるような勢いで突っ込んでくる。彼女は、私を完全に見下ろしている。私の顔の位置に、相手の肩があるような有様だった。これでそのまま押し倒されたらまずい。私は左側に回り込むように逃げた。
「ふっ!」
鋭く息を吐いて、突き出された相手の右手に自分の左手を突っ込む。引き手をとるつもりだったが、相手の柔道着がノリでもつけたみたいにバリバリだった。おろしたてみたいにカチコチで、驚いた。
「いいっ」
なにこれ、反則じゃないの。
全然、袖口がつかめない。相手の力で引き絞られて、乱暴に手が切り離される。組みつけもしなかった。
「牧田先輩! ファイト!」
「いけーっ、いけいけー!」
部員たちの声が聞こえてくる。私だって前のめりで戦いたいけど、そんなことをしたらすぐに組み倒されるか、放り投げられてしまう。
体重差がありすぎて、個人戦だと絶対に当たらないような相手だ。
こんな怖い相手に、自分の形を作らせたらあっという間に終わってしまう。その前に決めるしかない。
私はやや右後ろに一度下がった。その私を捕まえようと、相手が突進してくるその一瞬間。
「っ!」
無言の気合いを込めて、バネのように跳ね返る。掴みかかってきた相手の腕をとらえて、ほとんど同時に出足を払った。
しゃがみこむようにそのまま腕を引き続ければ、行き所のなくなった巨体が畳に叩きつけられる。
「技あり!」
一本ではない。ならば、ここからは寝技。私はすかさず捕まえた腕をそのまま引き込み、こちらの背中で相手の胸を押しつぶすような袈裟固めに入る。
相手が藻掻くよりも早く、私の左手は相手の首を抱え込んでいた。
「おさえこみ」
そのままでは体重差であっけなく解かれるから、万力のように両腕を引き絞る。締め技のように肺を押しつぶす。
相手がバタバタと足を動かして体を回そうとするが、そうしたところで私は動かない。
「技あり! 合わせ一本」
必死になって立ち上がられまいと粘っていたところでその声が聞こえた。私は技を解いて、立ち上がる。
中央に戻って礼。一度試合場から出て、もう一度、今度はチーム揃って礼。それでおしまい。私たちは畳から出て、そのまま会場からも外に出た。着替えて、帰らないと。
私は勝ったが、チームは負け。仕方がない。
制服に着替えた私たちは、会場の外で集められた。部長が少し声を抑えて今日の反省を口にしている。
「今日は負けてしまったけれど、まだ大会は続きます。明日の個人戦では、今日の反省を生かして挑みましょう」
「はい」
「疲れてるだろうし、早く休みなさい。明日も今日と同じ。駅に集合」
顧問の先生は特に何も言わない。彼は引率の役割だけで、柔道経験がないから何も言えないのかもしれない。
解散。皆、最寄り駅に向かって歩いていく。
家に戻ってみれば、父が家の前でタバコを吸っていた。私を待っていたのだろうか。
「おう、どうだった」
「二回戦どまり」
偽りなく結果を告げると、父は深く煙を吐き出した。
「わかった。まあ、明日も頑張れよ」
それだけ言って、家の中に戻って行く。私はそれを追わず、裏口から戻る。私の家は、銭湯をやってる。家業なのだ。
これを継がないといけない。兄弟はいないから、私しかいない。
つまり柔道をやっていられるのは、明日まで。けれども、結果を出せば。
「大学に行きたい。柔道は続けたい」
それと家業のせめぎあいの結果が、県大会優勝という目標。全国大会での実績。結果さえあれば、スポーツ特待として学費免除の可能性さえある。
だから、勝たなければ。これが最後のチャンス。最後の県大会。
翌日の個人戦、私は十分な気合いを入れて臨んだ。
立ち合いの一瞬で勝負を決める。
「一本!」
初戦の相手は、明らかに格下の一年生。突き出された組み手とりの右手を素早く抱えて、一本背負いにとった。
「牧田先輩、気合い入れ過ぎじゃない?」
そんな後輩たちの声が聞こえてくるが、こちらには余裕もない。軽く流して自分の次の試合に備える。
次の相手は開始と同時に突っ込んできた。一気に飛び込んできて、強引に吊り上げて投げるつもりだ。
「せいっ!」
その相手の気合いを腰を落としてこらえた。相手が姿勢を戻せないうちに、右足で相手の太もものあたりを一気に跳ね上げる。ぐるりと一回転して、相手の背中がそのまま畳に落っこちた。
「一本」
二回戦も終了。私のいる五十二キロ級は選手が多いが、それでもあと三回勝てば決勝だ。
県大会を優勝すれば全国大会が待っているが、次の対戦相手を確認して私は深く息を吐いた。
「牧田先輩の次の相手、柿内さんじゃない。かわいそう」
「勝てるわけないよね」
後輩たちは私に聞こえないようにそう言っていた。
柿内さんというのは、県大会の個人戦で優勝を何度もさらっている選手で、私も二度対戦していずれも負けている相手だ。確かに実力的には圧倒的な相手だった。
「第二試合場、藤岡高校、牧田美智!」
しばらく後、私の名が呼ばれる。私は試合場に入った。
「川西高校、柿内まどか!」
「はい」
相手も試合場にやってくる。しばらくぶりに見た柿内さんは、余裕たっぷりというような微笑みさえ浮かべている。
背丈は私よりも少し高いくらい。この相手に勝たねばならない。
「お互いに、礼」
主審の声に従い、頭を下げた。そして、足元のテープを踏み越える。
「はじめ!」
「せあぁ!」
開始と同時に気合いを入れて、私は釣り手を取りに行った。柿内さんが一瞬、動転したようだった。
前回の対戦では、いいように負けた。だが、今回は違う。私にとってはもう、最後の大会なのだ。絶対に負けられない。
動転している隙を突いて、一本背負いに切り替えた。しかし、すぐさま襟元をつかみ取られて背負えない。咄嗟だったが、私は無理やり力で釣りあげるよりはと考えて体を回転、相手の軸足を右足で払って巻き取る。大内刈りだ。
普通ならこれで完全に決まっているところだが、柿内さんはこらえる。懸命に左足で体を支えながら、後ろに下がったが、そこを追いかける。自分が崩れても、そのまま押し込む。さすがの彼女も体勢を崩して、横向きに腰から落ちた。
「有効!」
「おぉ!」
大した勢いもなく、なんとか押し倒したくらいだったが、ポイントがついた。誰かが歓声を上げたのが聞こえた。部長か、顧問の先生だろうか。
体勢有利なので、すかさず寝技に入る。柿内さんはうつ伏せになって防御姿勢だが、背中の帯に手を差し入れて無理にもひっくり返す。
「いけーっ! いけいけ!」
「牧田先輩、ファイトぉ!」
昨日と同じような声援。しかし、柿内さんはうつ伏せの姿勢からひっくり返ると同時に私に覆いかぶさった。
まずい、切り返されてる。攻守が入れ替わる。
「おさえこみ!」
上四方固めにとられた。早く抜けないと。顔の上に柿内さんのお腹が乗っているので、息が詰まる。こっちのお腹には相手のアゴが食い込んでいて痛い。
進路のことを考えたときから、柿内さんを倒さなければいけないことはわかっていた。だから、今までずっと練習に人一倍打ち込んできたつもりだ。遅くまで練習したし、休んでいる間は指南書も読んだし、合同練習にだって何度も行った。
練習量では絶対に負けていない。
かなり変形気味の固めだったが、じたばたと藻掻いて肘と腰でこじるようにひっくり返す。
「解けた、技あり!」
なんとか跳ね返したが、十秒以上抑え込まれていたようだった。そのままやり返したいところだったが、
「まて!」
主審の指示により、私たちは離れる。元の位置に戻った。
「はじめ!」
有効はとったが、技ありをとられている。私は変わらず、積極的に攻め入った。
多少の無茶はかまわず、組み手がとれたら即時に技を仕掛ける。何度も背負ってみたし、足もかけていったし、昨日のような出足払いもやってみた。
どれもがうまくいかない。柿内さんは力強く、こちらから背負いに行っても上から押しつぶされ、出足払いは牽制にさえならない。
何度目かの「まて」がかかったところで、柿内さんに指導が入った。私が攻撃を続けるせいで、防戦一方になっているからだ。
しかしそれでも、残り時間は減っている。
「まて」
一本背負いで投げ切れず、崩れた私の背中に、再び「まて」がかかる。残り時間はほとんどないはずだ。
「はじめ!」
荒い呼吸を繰り返しながら、私は少し様子見。それから柿内さんが前に出ようとした一瞬をついて、飛び込む。低い姿勢から一気に伸びあがって、無理やり入り込んだ。
一気に大外刈り。突進の勢いまでプラスして、押し倒すしかない。
技ありをとれば逆転するが、それで満足している場合ではない。この攻撃で一本をとって決める。
「おお!」
どよめきが聞こえた。
柿内さんは崩れなかった。私の全力を出した大外刈りだったのに、彼女は一歩後ろに下がっただけだった。
瞬間、ぐるりと私の視界が回転。気が付いたら背中に畳がバシンと叩きつけられていた。
「一本! それまで」
立ち上がれない。
私は全力でやった。どうしてこうなったのか、何もわからない。
それでも礼は大事だ。試合後のものは特に。立ち上がって、中央まで歩いている段階でようやく「ああ、裏投げで返されたのか」と思い当たった。
「お互いに、礼」
礼を終えて、試合場から出たところで柿内さんが近づいてきた。
「ねえ、いい試合だったね」
右手が差し出されてくる。私はそれを見て、ゆっくりと右手で握り返した。笑おうとしたつもりだが、無理だったかもしれない。
彼女はそのまま踵を返して、行ってしまった。
「やっぱり柿内さんは強かったね」
誰かが言っている。
そんなことは知っていた。
だからできるだけの努力をしたつもりだった。断言できるが、やれる限りのことをしたはずだ。それで負けた。
私は呆然としていた。
部員たちも、部長も、私にはその日話しかけてこなかった。
「三年生はこれで引退だ……。みんなは来年も頑張ってくれ。じゃあ、解散。」
大会が終わってから、部長がそんな話をしていたが、ほとんど聞き流してしまった。
最寄り駅についたら、みんなそれぞれ分かれてしまう。ほとんどの部員は徒歩で帰っていったが、私はバスに乗った。一人になりたかったからだ。
一番後ろの座席の、端に座った。カバンを抱えて、下を向く。
油断をしたつもりもない。全力を尽くした。
それでこの結果?
それならどうやったって、なにをしたって最初から勝てるわけもなかった。
私がやってきたことは、ただ無駄な努力だった。そんなものを、ずっと青春なんていってありがたがってきたんだろうか? まるでバカみたいだ。
カバンのジッパーが開きかけて、中の柔道着が少し見えた。黒帯を巻いている柔道着。
目の奥が熱くなって、思わず目をこすった。指が濡れて、雫がこぼれていく。
手の中に、柿内さんの握手の感触が残っている気がした。カバンでこすってそれを消す。
あんな、あんなふうに握手なんてしてきて。負けた私が惨めすぎるだけじゃない。
そういえば昨日、後輩たちが「遊びじゃないんでしょ、私たちとは違う」なんて言っていたっけ。けれども、私だってそうだった。遊びなんかじゃなかった。
一体誰がこんな、たった一人の勝者のために他の全員を悔し涙の海に突き落とすような、残酷なことを考え出したんだろう。
せめてその海をかき分けていくからには、負けた私たちが誇れる選手であってほしいけれど。けれども、今はただあなたが憎い。あなたが気持ちよく勝つためだけに、私の努力はあったんじゃない。
私はのろのろと停車ボタンを押した。もう下りなくてはいけない。
開いたバスの扉の外は綺麗に晴れていて、カンカンとした日差しが照り付けていた。




