「愛していない」と公言した魔導卿の夫に離縁状を差し出したら、なぜか結界を張られて閉じ込められました
「君を愛することはない。三年前、そう言ったのは閣下、貴方です」
私は、テーブルの上に置かれた純白の紙――離縁状を指先で押し出した。
向かい側に座る夫、イグニス・ルミナス魔導卿は、手に持っていたティーカップを凍りつかせたように静止させている。
「……何の冗談だ、エルセラ」
「冗談ではありません。契約の更新をしない、それだけのことです」
窓から差し込む朝日は、今日も残酷なほど美しい。
昨晩、彼は夜会でカミラ様をエスコートしていた。私は一人、屋敷で彼の魔力を安定させるための特製スープを作って待っていたというのに。
悲しくはない。ただ、すとんと腑に落ちたのだ。
私の席は、もうここにはないのだと。
「カミラ様との仲は、社交界でも有名ですわ。私は身を引き、実家へ戻ります。お荷物は最小限にまとめました」
「待て。カミラとは、あいつが勝手についてきただけで――」
「説明は不要です。三年間、私なりに貴方を支えてきたつもりですが、それも昨日で終わりにいたします。……お世話になりました、イグニス様」
私は席を立ち、優雅に一礼する。
泣いて縋るとでも思ったのだろうか。彼の瞳が、見たこともないほど細められ、激しい動揺に揺れている。
「行かせないと言ったら?」
「閣下、貴方に私を止める権利はありません。この結婚は『互いに干渉しない』という契約だったはずですから」
私がドアノブに手をかけた、その瞬間。
――ッ!
空気が、物理的な重圧を伴って震えた。
バキバキと音を立てて、部屋の四隅から紫電が走り、屋敷全体を包み込むような巨大な魔力の膜が展開される。
「……何、を」
「結界だ。私の許可なく、この敷地から出ることは、蟻一匹として許さない」
振り返ると、そこには「冷徹な魔導卿」の仮面を剥ぎ取った、一人の執着に狂った男が立っていた。
イグニスは、椅子を蹴り飛ばすような勢いで私に歩み寄り、その強い腕で私の肩を掴む。
「間違っていた。愛さなくていいなどと言った三年前の自分を、今すぐ殺してやりたい。……どこへ行く。君がいない世界など、私は許さない」
「離してください」
「離さない! 離すものか! 君がいないと、私はまともに眠ることさえできないんだ。あのスープも、香炉の調合も、私の魔力を抑えられるのは君だけだ!」
それは、愛の告白というにはあまりに傲慢で、けれど悲痛な叫びだった。
彼は私の首筋に顔を埋め、子供のように震えている。
◆
イグニス様による「屋敷封鎖」から三日が経った。
そんな中、結界の隙間を縫って現れたのは、自称・愛人のカミラ様と、私の実家である伯爵夫妻だった。
彼らは「エルセラを説得して、イグニスの機嫌を直させよう」という浅はかな目論見で、応接間に踏み込んできた。
「エルセラ! 貴方、何様のつもり!? イグニス様にこんな真似をさせて……早く結界を解くよう言いなさい!」
カミラ様がヒステリックに叫ぶ。隣では私の両親が「伯爵家の面汚しめ。魔導卿への不敬で首が飛んだらどうする!」と私を責め立てた。
三年前の私なら、震えて謝っていただろう。
けれど、今の私の背後には、冷え切った魔力を帯びた「最強の盾」が立っている。
「……私の妻に、随分な物言いだな」
冷徹な声と共に、部屋の温度が数度下がった。
背後から伸びてきたイグニス様の腕が、当然のように私の腰を抱き寄せる。
「イ、イグニス様! この女が貴方を困らせているのでしょう? 私が代わりに――」
「カミラ、君は勘違いをしている。私が彼女を閉じ込めているのではない。私が彼女に、ここにいてくれと『懇願』しているんだ」
イグニス様は氷のような視線をカミラ様に向けた。
「昨晩の夜会、君が勝手についてきたせいでエルセラを傷つけた。その落とし前はつけてもらう。君の父が進めている魔導具の利権、あれはすべて白紙だ。……それと、今後二度と私の前に姿を見せるな」
「そんな……ッ!?」
絶望に顔を白くするカミラ様に、イグニス様は追撃の手を緩めない。次は、私の両親に向き直った。
「伯爵。貴方方もだ。『身代わりの出来損ない』と彼女を呼び、虐げ、我が家に売り払った記録はすべて押さえている。……エルセラに支払われるべきだった支度金を横領していたこともな。今すぐ全額返還しろ。できなければ、貴家の爵位剥奪を陛下に進言する。……エルセラ、これでいいか?」
彼は私を覗き込み、まるで捨てられた仔犬のように、私の顔色を伺った。
私は静かに微笑み、彼の手を優しく握り返す。
「ええ。もう、十分ですわ」
激昂することもない。ただ、私を「道具」としてしか見ていなかった人々が、自分たちの愚かさで自滅していく様を、私はどこか遠いことのように眺めていた。これが「冷却」――今の私には、彼らに向ける感情さえ残っていない。
衛兵に引きずられていく彼らの叫び声が消えると、応接間には静寂が訪れた。
「……エルセラ。これで外の雑音は消した。君を苛むものは、もういない。君は、ここにいてくれるか? 契約ではなく、私の妻として」
イグニス様は私の髪に顔を寄せ、深く息を吸い込む。その指先が、離せば消えてしまうとでも言うように、微かに震えていた。
私は少しだけ意地悪く、彼の胸に指を立てた。
「そうですね。毎朝、私のスープを『美味しい』と言って完食してくださるなら。あと、カミラ様のような女性を二度と近寄らせないこと」
「約束する。……スープは一滴も残さない。女は、視界にさえ入れない。君以外のすべてを捨ててもいい」
それは、帝国の最高権力者とは思えないほど、重くて、甘くて、独占欲に満ちた誓いだった。
「ふふ、合格です。……旦那様」
私が初めて彼をそう呼ぶと、イグニス様は耐えきれないといった様子で、私を壊れんばかりに抱きしめた。
窓の外、屋敷を覆っていたはずの「拒絶」の結界が、温かな光に溶けていく。
監禁されたはずの檻の中は、今、世界で一番甘い居場所に変わっていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
「無自覚に執着していた旦那様が、逃げられそうになって初めて壊れる」という関係性と、冷却系のざまぁを楽しんでいただけたなら幸いです。
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