第1巻 第1章 ― プロローグの始まり
月明かりの下、スラム街の外れにひとりの少年が座っていた。
年の頃は十七。長い黒髪に痩せた体、そして目には黒い布が巻かれている。
彼の名は――デヴィッド。
少年は立ち上がり、スラムを後にする。明るい月光がその道を照らしていた。
やがて彼の目の前に広がったのは、文明に満ちた世界。
少年少女たちは手を取り合い、幸福に輝く笑顔を浮かべて歩いている。
彼らは何の重荷も背負わず、明日への恐怖もない。ただこの瞬間を生き、未来を案じることもない。
だがデヴィッドは違った。
彼の生きる世界は苛烈で、食べられるものは何でも口にし、明日を望むことすらしない。
彼にとって明日は存在しないも同然――今日を生き延びられるか、それだけが問題だった。
ベンチに腰を下ろし、デヴィッドは心の中で呟く。
「俺はずっと、価値のない人生を歩んできた。
どれだけ努力しても、どれだけ耐えても、どれだけ苦しんでも――
結局は、この日を迎えてしまった。」
――この日が、俺を永遠に変える。
――この日を境に、明日を迎えることすらできないかもしれない。
「運命……」無表情の笑みを浮かべ、口にする。
「俺を選んだ運命よ。明後日に死のうがどうしようが――構わない。」
「望んだわけじゃない……だが、覆せないものは覆せない。」
ベンチから立ち上がり、デヴィッドは警察署へと歩き出す。
通りすがる人々は彼を凝視し、道を避ける者もいれば、視線すら合わせられない者もいた。
やがて署に辿り着いたデヴィッドは、中へと足を踏み入れる。
「これが……警察署か。」
彼は普通の人間のように目で見ることはできない。だが、その代わりに全ての感覚が研ぎ澄まされていた。
「運命」が現れて以来、世界にはエネルギーが満ち、彼は己独自の方法で“見える”ようになったのだ。
受付には、退屈そうに座る男が一人。デヴィッドを見て、面倒くさそうに尋ねる。
「何の用だ?」
「……俺は選ばれた。」
その言葉に、男の顔色が変わる。警戒の色を浮かべながら問い直す。
「本当か?」
「ああ。」
男は机の下のボタンを押す。次の瞬間、署内が赤い光に染まり、放送が響き渡った。
「コード・ブラック! コード・ブラック!」
黒いローブを纏った四人が現れ、デヴィッドに近づいてくる。
「ついて来い。」
そう言って彼らは歩き出す。デヴィッドも無言で従った。
エレベーターに乗り込み、「-E」と記されたボタンを押す。
下降した先に広がっていたのは、白一色の空間だった。
そこにはただ一つ――中央に椅子が置かれているだけ。
「運命の最初の試練……いや、これは試練ですらない。ただの“序章”だ。
ここで死ぬか、生き延びて力を得るか。俺からの忠告だ、少年。誰も信じるな。
この序章において、お前を殺そうとする者しかいない。」
言葉を最後まで聞き、デヴィッドは淡々と答える。
「信じる? 俺は自分すら信じていない。」
男は口の端を歪め、笑った。
そこへ白衣を着た男が歩み寄る。手には患者ファイルを持ち、柔らかな笑みを浮かべていた。
「こんにちは。私は検査医師のドミトリーだ。」
「デヴィッド。よろしく。」
「デヴィッド……美しい名だな。アメリカ出身か?」
「分からない。」
「残念だな。私はロシア出身なんだ。」
デヴィッドは軽く頷く。
「無口なようだな。まあいい。プロローグでお前に何が待っているのか説明しよう。」
ドミトリーは唇に不敵な笑みを浮かべ、声を潜めて続けた。
「椅子に座れば、二つのことが起こる。
一つ目――お前は無意識の中に沈み、“運命”から番号と属性を授かる。それが生存の助けになる。
二つ目――プロローグへ送られたとき、戦場と、そこに潜む悪魔を見ることになる。」
すべてを聞き終え、デヴィッドは短く答える。
「理解した。」
「ハハ、いい返事だ。では始めよう。」
椅子に座らされたデヴィッドは、拘束具で固定される。
「そうそう、言い忘れていたが……もし失敗して死んだ場合、お前を殺した悪魔がその肉体を奪う。
……だから死なないことだな。そうでなければ、我々が処理しなければならない。健闘を祈る。」
その言葉を最後に、デヴィッドの意識は深い闇に沈んでいった。
――気づけば、虚無。何もない空間。
「ここは……?」
思考した瞬間、声が響く。
『人間番号003が出現。プロローグを通過する義務がある。
彼に与えられた力は――“闇の感覚”と“闇の親和”。』
「……これがドミトリーの言っていたことか。
番号003――これは誰もが付与される番号だ。だが、“称号持ち”と呼ばれる者がいる。
彼らは信じられないほどの力を持ち、高位の悪魔すら一人で打ち倒す。
高位の悪魔は南部コロニーを滅ぼすことができる存在……。
俺には夢のまた夢だ。……この序章すら通過できるか分からない。」
運命の声が続く。
『番号003の力は全て授与された。今よりプロローグへ送還する。』
冷気が走り、景色が変わる。
振り返った瞬間――三メートルを超える悪魔が立っていた。
デヴィッドの表情は恐怖に覆われる。
「こ、これは……!」




