第一章 鬼と少女
昔々、人と妖怪が仲良く暮らす村がありました。そこに突然鬼が現れ、村を焼き、太陽を呑み込み、地を喰い尽くし、空を亡きものにしました。
人と妖怪は力を合わせて立ち向かいますが、鬼には全く敵いませんでした。
最早滅びるのを待つだけかと思われたその時、一人の白い髪の少女の祈りに応え、白龍が現れました。白龍は杖になり、少女に鬼と戦う力を与えました。杖の力によって、ようやく鬼に痛手を与える事が出来たのです。人と妖怪も加勢し、とうとう鬼を封じ込める事が出来ました。
いつしか杖はお祓い棒、あるいは「継辰」と呼ばれ、その使い手を「龍巫」と呼ぶようになりました。そして鬼を「羅喉群憤餓主」という名の神として、もう二度と災厄を起こさぬ様に祈り、祀りましたとさ。
(「龍巫草子」現代語訳)
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鬼鳴市に引っ越して来た辰灯 翔烏は、どこにでもいる普通の子ども……ではなく、ほんのちょっぴり変わっていた。髪は白くて、もみあげは渦を巻いていて、瞳は苺の様に真っ赤だった。
そして……とてもとても変わった運命を背負っている事が分かるのは、少し先、といってもすぐかもしれない。
「エミー、引っ越しの手伝いありがとう。でも段ボール重くないか?」
「先々代のお嬢様の恩義に比べればどうってことありませんわ、旦那様!」
翔烏の父親である辰灯 達也と、エミーは、引っ越しの荷解きで忙しなく動き回っていた。エミーは、代々辰灯家の召使いをしている。しかしお婆さんという訳ではない、人間ではないのだ。
二人が荷解きをしている最中、辰灯邸の側では、狐や猿みたいな者、セーラー服を着た下半身が透明の女が、噂話に花を咲かせていた。
「越してきたらしいぜ。」
「誰が?」
「辰灯のヤツだよ。しかも娘っこがいるって話だ。」
「その子が次の龍巫かな?どう思う?」
セーラー服の女は、首を傾げた。
「ま、今時人間襲うやつなんざ、時代遅れの老いぼれと変態しかいねェからな。龍巫様の仕事もそろそろ潮時かなァ……おっ、あの家のおっさん、随分ムフフな事考えてるなァ?」
セーラー服の女は怒った顔をして、首を横に振った。
鬼鳴市は、人間ではない、見えないけれどもいる者達がたくさんいる、人間達もその事を然程気にしない、とても変わった街だった。
そんな変わった街で、翔烏は今、
「凄い近くにあるんだねー。お向かいさんじゃん。」
「ええ、お向かいさんですね。」
家の向かいのすぐそこ、辰灯神社の大きな赤い鳥居の前にいた。近くの電柱には、「鬼鳴市岡美丘二丁目」(おになりしおかみおかにちょうめ)と書いてある小さな立て札がある。
「行こ!おばあ。早く挨拶しに行こ!」
「待ちなさい。まずはお辞儀をしないと。」
翔烏の祖母である辰灯 すばるは、黄色い瞳の目を細めながら言った。翔烏は荷解きの最中に退屈しないよう、すばるの元に預けられたのだ。
「……はい、行きましょう。」
「ねえおばあ、この鳥居、注連縄が逆じゃない?」
「ここでは、それで良いのですよ。」
鳥居の向こうは、辺り一面木に囲まれていた。
木々のざわめく音、鳥の声、土を踏み締める音……さあっと風が吹き、翔烏の真っ白な髪によく似合う赤いリボンが揺れた。
しばらく歩くと、何重もの赤く、やはり注連縄が逆に付いた鳥居と、大きな狛犬と、もっと大きな建物、本殿が姿を現した。
「おおー!ここにその…鬼鳴様がいるの?」
「…ええ、いますよ……もう何年も。」
「おばあより年上って事?」
「ワタシの祖母よりも年上ですよ。」
「はああぁ……」
翔烏は言葉にならないぐらい驚いた。自分の祖母の祖母より年上なんて、想像もつかなかった。
……そんなに長い間ここにいて、退屈しないのだろうか?
「さ、鬼鳴様にご挨拶する前に手と口を清めましょう。」
おばあに促され、手水舎で手と口の中を洗った。水道の水より、口当たりが良い気がすると思った。
そして、いよいよ鬼鳴様……本当の名前はあんまり読むのが難しかったので、前に読んでもらった……ラゴムラノフツクガヌシに挨拶する時が来た。
五円玉をお賽銭箱に投げ入れ、お辞儀を二回して、大きな縄を思い切り振った。カランカラン、と乾いた鈴の音が鳴り響いた。
二回手を叩いて、「辰灯 翔烏です。ご先祖様からお世話になってます。もし暇だったらうちに遊びに来てください。」と心の中で伝えた。伝わったかどうかは分からないけれど。
「おばあ、鬼鳴様。私の話聞いてたかな?」
「……そうですね。きっと聞いてますよ。何をお話したのですか?」
「秘密。おばあは?」
「ワタシも秘密です。」
ぷっ、と笑みが溢れた。すばるも笑った。
「奥にも面白い物がありますよ。……面白いというのは語弊があるかもしれませんが。」
「どっちなの?」
「……そうですね。面白い物と、面白くない物、というのが正しいですね。」
「おおー。」
二人は本殿を回り込んで進んでいった。鳥居を潜った時の様に、木に囲まれた道を歩いていくと……大きくてごつごつした岩と、その前にタワーみたいなつるつるした岩があった。つるつるした岩には文字が書いてある。……けど、読めない……。
「奥の岩は要石、ここに鬼鳴様が封じられています。手前は慰霊碑、つまり亡くなった人達を慰める物です。」
おばあが教えてくれた。
「ここで人が死んだの?」
「妖怪もたくさん亡くなりました。……鬼鳴様のせいで。」
「鬼鳴様が?どうして殺したの?」
「……分かりません。」
おばあの皺だらけの顔に、また少し皺が加わった様な気がした。何かを考えている様な、苦しそうな、悲しい様な、そんな皺だった。
「……もう行きましょうか、おじいさんが待ってますよ。」
さっきまであった皺は無くなり、いつものおばあの顔に戻った。戻ったが、戻っていない気もした。
「…うん。」
少しもやもやした気持ちになりながら来た道を戻り、本殿を通り過ぎる時に、「じゃあまたね、鬼鳴様。」と言ったが、やはり返事は返って来なかった。
「……それでね、おばあは分からないって。おじいはさ、なんで殺したと思う?」
すばるとその夫である辰灯 勇の住むアパートにやって来た翔烏は、もやもやをぶつける様に勇に聞いた。
「ん~…そうだねぇ~……仲間に入れて欲しかったのかねぇ」
「えっ」
「人も妖怪もな、ひとりぼっちだと、誰かに意地悪したくなるのよ。だから、鬼鳴様も、意地悪して構って欲しかったのかもしれないねぇ。」
「うーん……意地悪で殺すのは、良くないよ。」
「そりゃあそうだねぇ。翔烏ちゃんは、誰かに意地悪するような子になっちゃいかんよ。」
おじい、おばあとテーブルを囲み、テレビを観ながらそういった話をした。……誰かを殺すのは、最早意地悪ではない。理由があったら意地悪していいのか。いや…そもそも理由なんてないのかも……
「はい翔烏ちゃん、みかんの筋が取れましたよ。」
「あっ、ありがとうおばあ!」
考えていてもしょうがないので、もう考えない事にした。テレビからは「今週はおおむね晴れ、時々曇るでしょう」等と聞こえてきた。
引っ越しの荷解きも終わり、おじい、おばあと別れ自宅に帰って来た。達也からは荷解きの作業のせいで疲れた顔をしながらも、「何か面白い事あったか?」と聞かれ、エミーからは「明後日は学校でございますね!」と言われつつ、風呂や夕食諸々を済ませ床についた。この家は前の家より広く、たくさん部屋もある。今寝ている部屋が自分の部屋だ。
……眠れない…家が変わったからだろうか…
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夜も更けてきたが、本当に全く眠れる気がしなかった。仕方がないので家の中を探検してみる事にした。
達也達を起こさない様にそっと歩いていると、
「お嬢様、どうなさいました?」
びっくりした。エミーが小声で声を掛けていた。
「エミー…!どうして…!?」
「エミーはこの家を守るのが仕事ですから。それよりどうなさいました?御手洗いですか?」
「えっとね…眠れないから…ちょっと、探検、家の中でしようかなって…。」
口に出すのは少し恥ずかしかったし、やましい気持ちもあった。怒られて寝室に返されるかと思った。
しかしエミーは、
「それでしたら、良い部屋がございます!こちらに来てください!」
と、逆に未知の部屋に案内してくれるようだった。ほっとして後を付いていくと、そこは物置き部屋だった。高そうな壺や、何に使うのか分からない物までいろいろ置いてある。
「この家に置いてある物は自由にしていいって、おばあ言ってたよね?」
「はい!使うも売るも壊すも自由でございます!」
「いや…壊すのはよそうかな…。」
話しながら物置き部屋の中を探索していると、一際目を引く物があった。
それは赤い杖の先っぽに折った紙の様な物と、白い龍が付いた物だった。
もしかして、これは…。恐る恐る手に取ると、棒が淡く輝いて…とても手に馴染む様な気がした。
「ねえエミー、これってさ…!」
「ええお嬢様!それこそケイトでございます!」
やっぱり、これがケイト…!これがあれば自分も魔法が使える!翔烏は今、高揚感に満ちていた。
「エミー!これで私飛べるかなっ!飛んできて良い!?」
「えっ!?それは…」
「家にある物は自由にしていいっておばあも言ってたよ!」
「ぐっ…それは…!……エミーも一緒に行きます。それからすぐに帰ること、約束出来ますか?」
翔烏は二つ返事で約束し、玄関の外に飛び出した。エミーに『飛べるようになれ!』と唱えると、飛べる様になった。
「まさか本当に…!浮いたのは初めてでございますー!」
と喜んでいるが、この冒険で一番浮かれているのは実はエミーかもしれない。
翔烏はケイトに跨り、『飛べ!』と唱えると、ケイトは翼の様な耳を広げて飛び立った。
夜風と夜景と星空が、優しく二人を包み込んだ。
エミーと他愛のない話をしながら辰灯神社の上空を飛んだ。家に帰ったその後の事は、なんだかとても疲れたという事しか覚えていない。
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翌日、翔烏は飛び起きた。静か過ぎる、辺りが暗すぎる。……そしてその暗闇の中から、苺の様に真っ赤な瞳が、光った。
暗かった部屋は突然明るくなり、天井に逆さまに立った何かが姿を表した。
……その「何か」は、土毛色の肌で、毛先が青みがかった黒いぼさぼさのくせっ毛、顔中に包帯を巻いていて、目元に青い模様とほくろがあって、黒くてぼろぼろの着物みたいな服を着ていた。逆さまになっているだけでも異質だが、佇まいまで不自然だった。首は傾き、足は凄い内股だ。
……そして、右側に、渦を巻いたもみあげがあった。暗い中では爛々と光っていた瞳は、何故だが、淀み濁っている様に見えた。
「………」
「何か」は、先程から見開いた目でこちらを見つめている。全く動く気配が無い。
いや、動いて、床に立った!……ッ!私を、扉に追いつめて…まずい!扉は……開かない!!こんな時に限って!!
スン、スンと鼻が息を吸い上げる音が聞こえてくる!匂いを嗅がれている!!
スンスン……スン………グルルッ……
「何か」は匂いを嗅ぎながら、猛獣の様な唸り声を上げた。先程から、「何か」は先程から何も喋らない。喋る事が出来ないのだろうか?そもそもコミュニケーションが取れる存在なのだろうか?
一か八か、翔烏は賭けてみる事にした。
「わ、私は翔烏…。辰灯 翔烏!あんたは!?」
「何か」は、先程まで見開いていた目を細め、頭に直接響く様な不思議な声で、口を動かさずに語り始めた。
「………我ら、は、外より、この内側に没する者共………器…我らには……器が…必要だった……然らば、内側より…出づる存在と成れば……相応しき内側の存在になれると………だが不自由……酷く不便だ………我らの力を御し切れぬ…不完全な物…我らの器………奪われた……奪う……今も………我らから…溢れて…湧いて…広がるのだ……虚ろが…否…我らは完全なる者……虚ろなど無い……虚ろ、が……埋めて…埋め合わせを………してやると、言っている…しょうちゃん。」
……全然分からなかった…!何で私の名前を知っているの!?私の理解力が無いのか!?どう返すのが正解なんだ!?絶対対応を間違えたら大変な事になるヤツだ!!そういうのホラー映画とかで観たもん!!
翔烏は視線を逸らしながら思考を巡らせるが、「何か」は突然目を見開いて叫び声を上げ、驚いて視線を戻した。瞳は小刻みに震え、瞳孔が猫の様に縦に閉じている。
轟音とも呼べる声が響いたというのに誰も部屋の前に来る気配が無い。達也でもエミーでも早く来て欲しい…!
「何か」は落ち着きを取り戻して目を細め、瞳孔は元の丸に戻り、満足気な唸り声を上げる。
「………そうだ。逸らすな……見せろ………もっと。」
翔烏の瞼を指でこじ開けながら、「何か」は言った。
「言ったな………嘗て……暇なら遊びに来いと………。暇だ……退屈だ……つまらない……とても……少しは……紛れている……今は。」
……いつだ!?いつの話をしているんだ!?そもそも会った覚えが無い!!本当に誰だ!?暇なら遊びに来い…!?暇なら……
「辰灯 翔烏です。ご先祖様からお世話になってます。もし暇だったらうちに遊びに来てください。」
過去の自分の声が、こだまの様に響いた。そんなまさか、この、この「何か」は……!!
「…羅喉群憤餓主……!?」
「………そう呼ぶ……劣等種共は…皆……好かぬ名だ………。」
「何か」は、羅喉群憤餓主だった。当たってしまった。当たらないで欲しかった。どうやらこの名前で呼んで欲しくなかったらしく、ただでさえ不機嫌そうな顔が更に不機嫌になった気がする。
「……じゃあ何て呼べば良いの…?鬼鳴様…?」
右側に傾いていた首を左側に傾け、いかにも機嫌が悪いと言いたげに唸った。これも駄目らしい。
歯の間から息を吐きながら、考える。何故こんな事をしているのか、自分でもよく分からなかった。
「………羅喉、様」
「羅喉群憤餓主」と「鬼鳴様」を合体させたが、壊滅的なネーミングだ。もっとましな名前を考えている最中、羅喉群憤餓主の左側に傾いていた首が、右側に傾き……そして、瞳孔が大きな丸を描いた。
「………認める。……そう呼ぶが良い………比類無き我らを……。」
どうやら気に入ったらしい。以前の呼び名との違いが全く分からないが、本人(人じゃないけど…)が良いなら良しとしよう。我らって何だろう…?
羅喉様は、辺りをきょろきょろと見回しながら、部屋を歩き始めた。時折スン、スンと鼻を鳴らし、目は互いに違う方を見ている。カメレオンみたいだ。
そして、勝手に襖を開け、また鼻を鳴らした。
「……それ、私の布団だよ…。」
恐る恐る声を掛けた。こちらに顔は向けなかったが、替わりに耳が犬みたいに動いた。
羅喉様は布団が余程興味を引くらしく、ボフボフと鳴らしたり、擦ったり、匂いを嗅いだり……噛みついた!?
「止めて!よだれが付くでしょ!!」
羅喉様はこちらに視線を向け、ゆっくりと身を引いた。不思議な事に、よだれは付いていなかった。
「………これは、何だ。…道具か?……何に使う…?」
この人は、布団を知らないのか。考えてみれば、何年も封印されていたのだから無理もない。さっき辺りを見回していたのも、知らない物がたくさんあったからだろう。
「それは布団だよ。寝る時に床に敷くの。」
「……寝る…時……?…床………?………床で眠れば良い………。」
「うーん。確かに床でも良いけど、布団で寝ると気持ちいいんだよ。」
羅喉様は、眉間にしわを寄せた。不機嫌だからではなく、何か考えている様だった。
すると突然、布団を引きずり出した。床に敷こうとしている。
「あー!そっちは掛け布団!敷き布団を先に敷かないと!」
「………布団とは……種類があるのか…?……分からん……。」
「えーっと、えー……私がやった方が早い!ケイト!」
翔烏の呼び掛けにケイトは直ぐ様駆け付けた。羅喉様の眉間のしわは、更に深いものになった。
封印された時の嫌な記憶を思い出させてしまったのだろうか?顔色を伺いつつ、魔法で布団を敷く。
「敷き布団、枕、掛け布団……はい!布団の完成!」
羅喉様は、しばらくケイトを睨み付けていたが、ゆっくりと翔烏に視線を戻して言った。
「………ここに、……横になるのか……?」
「うん。枕に頭乗せて、掛け布団を体に掛けるんだよ。」
羅喉様は言われた通り掛け布団を体に掛け、枕に頭を乗せ横になった。しかし体が大きすぎて、布団に収まりきっていない。
「どう?気持ちいい?」
「………悪くない。」
布団の中でもぞもぞと体を動かしながら、羅喉様は言った。
寝返り、うつ伏せの体勢になりながら翔烏を見つめる。
「………まだ…足りぬ…か……。口惜しい………。見ているぞ……汝を……永遠に………。」
そう言った瞬間、羅喉様はフッと目の前から消え去り、後には空の布団だけが残っていた。
最初から最後まで、分からない事だらけだった。羅喉様は、人間や妖怪を憎んでいたのではなかったのか?何故自分と仲良くしようとするのか?
「お嬢様!朝食の支度が出来ましたよー!」
何も分からないまま、一日は始まりを迎えようとしていた。