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公書士アンリエッタ 〜いつかペンと制度の力で〜  作者: ke
第2話「インクの告げる邂逅」
9/29

2ー4

 さっき下から見上げた家は、見た通りに空き家だった。一部の調度類が持ち去られた跡があるから住人が退去したらしいことは窺えるが、そこがどのように持て余されて放置されているのかは、アンリエッタにはわからない。

 少女に先導され二階へ。一室の扉を開くと、開かれたトランクケースと荷物が散らばった奥の床に、一人の少年が寝そべる。布団代わりの数枚の衣服の下で……静かに、ほとんど何も音を発していないので、アンリエッタは一瞬嫌な想像をして立ち竦んだ。

「……」

 変わらず無言で兄の下へ駆け寄った少女が、傍に跪いて彼に触れる。青白い頬の一部に血色を認めて、我に返ったアンリエッタは少女に続いた。

 口許に手を当てる。呼吸がある。アンリエッタは安堵して、それから額の熱を確かめた。ずいぶんと熱い。被された衣服をはぐ。少女が着ているのと同じ、汚れの染みた緑のチェニックには所々に血の滲んだ跡がある。ちらりと隣を見る。彼のことをただ眺める、眺めるしかできないでいる少女を見る。

 アンリエッタは、自身の片腕に触れた。

「ちょっと、待ってて」

 腕を締め付けるベルトを緩めていく。革帯と首のバンドを外すと、少年を床から起こした。落ちた上着を一枚取り上げて彼に羽織らせる。お医者さん、と傍らの少女に言った。

「連れて行こう。私がおんぶするから、ついて来てね」

 頷きが返される。少女に補助をされつつ少年をおぶさると、わずかにアンリエッタの左肩が軋んだ。痛みを押して立ち上がり、その場を後にする。

 十歳かそこら、まだ大人びたところのない子どもの体はしかし、小柄なアンリエッタにはぐったりと重い。息を切らしながら道を駆ける。走って曲がって、人とすれ違う。

――おっと、病人かい?

 歩いていた年若い青年がそのように声を上げたが、アンリエッタには取り合う余裕がない。一瞥もせずにその場を離れていって、やがて先ほど受診した診療所へ辿り着いた。

 軒先で少年を抱え直し、玄関のドアに手をかける。がちがちと施錠された手応えがあって、扉は開かない。

 留守。

「ごめんください、おられませんか!」

 乾いた喉でなけなしの唾を飲み、言う。

「子どもが怪我をしているんです! おられませんか!」

「回診中じゃないかなあジョセフ(ドクトル)は」

 息急いて叫ぶ横から、声をかけられた。

「この時間なら、そうだ。僕も日取りを間違えて来ちまった」

 さっき道で声をかけてきた青年が隣に立つ。額に皺がよるくらいに見開いた眼。伸びた髪をボサボサにした彼は、丸眼鏡の奥の眼光をアンリエッタの背中へ向ける。

「怪我をしてるって? どうもそれだけでもなさそうだけど」

「あなたは」

「熱がある、でも咳はしてない」

 素性を訊ねかけたアンリエッタには取り合わず、青年は額に首に瞼と、少年の体のあちこちを触って具合を確かめてくる。

「目が赤いな。東の方で流行ってるってやつだろうかね」

「あの、服に幾つも血が付いていて。傷は確かめていないんですが」

「そいつは脱がさないと確かめらんないな」

 青年は待ってなと呟いて、膝丈の上着のポケットをまさぐりながら玄関の前に立った。鍵穴を覗き込む様子で屈んで、三本取り出した細い金具をそこへ差し込む。数秒弄って、やがてかちゃりと音が鳴った。

 扉を開く。

「は? え?」

「さ、どうぞ入って」

「あの、今、鍵を」

「僕のラボに運んでもいいんだが、こっちの方が早いからね」

 扉と彼を見比べて狼狽したアンリエッタにあっさりとそう返し、青年はずんずんと中へ踏み入っていく。勝手知ったる様子で廊下の途中の一室を開け、こちらを見た。

「何してる? こっちの部屋へ運んで」

 呆然と突っ立っていたアンリエッタはその指示で我に返って、戸惑いつつも玄関をくぐる。

 指示された部屋は、患者用の病室らしかった。ベッドとスツールが二組置かれて、それで中のほとんどを占める簡素な部屋だ。青年は診察室の方へ向かったのか、部屋の中にはいない。

「とりあえず座らせて。あとカーテンも」

 戻ってきた彼が後ろからそのように言う。従ったアンリエッタは少年を椅子へ下ろし、少女が部屋の奥のカーテンを開けた。幾つかの器具を乗せた台車を青年は中へ運んで、少年の前へと立つ。

「そういえば名乗ってなかったな。僕はオッテンバール、よろしく」

 アンリエッタもまた名乗り返して、少女の方を見る。話す間に彼女は傍に寄って来ていて、こちらの手首の辺りに指を触れる。

 ルウィヒ。レーム。

「あなたがルウィヒで、お兄さんがレーム?」

 訊ねれば、頷きが返される。やり取りに片眉を上げたオッテンバールは、しかし何も言わずに器具を取った。片眼鏡モノクルのような格好で反射鏡が据え付けられているバイザーを、頭に被る。

「……喉を見る。支えて」

 レームの顔を持ち上げて口を開かせた青年は、アンリエッタに保持するよう指示をする。少年の口腔に銀色のヘラを突っ込み舌の奥をしばらく覗くと、別の器具を手に取った。きったない服だなと悪態を吐きながらレームのチェニックをたくし上げ、手首の動きでアンリエッタへ持つよう合図してくる。聴診器をレームの胸に当てて数か所確認し、音を拾うラッパの部分を別のものに交換すると、また同様に何か所か聴いた。

「ふう、大体見立て通りだな。爺さん婆さんはたまに死んでるみたいだけど、そうじゃなけりゃ寝てれば治るやつだ。あとは、怪我の方か」

 シャツは切っちまおう。そう言って裁ちばさみを取り、肌着の前後中央を切り分ける。脱がせて、はっとするほど傷跡がある小さな体を、ざっと検分した。

「どれも小傷だが、右肩はかなり腫れてるな」

 一方よりも二回り以上膨らんでいるのを示して言う。確かに目に見えて大きな異常はその部位だった。一昨日アンリエッタと遭遇した時走り方がおかしかったのはきっと、この肩の怪我のせいなのだろう。よほど強く打ち付けているらしく、腫れの程度は、似たような箇所の怪我をしているアンリエッタよりも、だいぶ酷く見えた。

ヒルを使うか。準備するから、そこの水で拭いてやって。この後ベッドへ寝かせる」

 オッテンバールはブリキのバケツを指差してそう言うと、がたがたと台車を転がして部屋を出て行った。アンリエッタはルウィヒと協力してレームの体を拭っていく。タオルを三枚費やし、上半身の他に髪と顔と足を拭き上げた頃、オッテンバールはまた台車を押して戻って来た。ガーゼや包帯を載せた上には、痩せた黒い蛭を数匹収めた瓶が見えた。

 数か所の小傷に消毒と処置をした後、うつ伏せにベッドへ寝かせる。オッテンバールは、尺取虫然とした長細い軟体を瓶から器用に取り出すと、レームの右肩へと吸いつかせた。繰り返して六匹、兄の肌に取り付きぴくぴくと吸血する軟体を、ルウィヒが不思議そうな眼差しで眺める。

「小一時間で吸い終わる。噛み痕に薬を塗って軽く止血すればおしまいだ。君らの手伝いももういらないから、手を洗って消毒しときな。服も軽く拭いとくと良い」

 オッテンバールはそう言うと、もう一方のベッドに寝転がる。ああ、と思い出したふうに声を上げた。「もう一つ」と人差し指を立て、それからルウィヒのことを親指で指す。

「洗ってやったら? はっきり言って、臭うよ」

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