2ー1② 「インクの告げる邂逅」
「ロラン!」
高らかに声を上げた彼女は、深い青のジャケットの下に、格子柄のキルトスカートを穿く。アンリエッタの目にはなかなか力を入れてそうに見える出で立ちのその女性は、のそりと顔を上げたロランを正面に見下ろし、威風に息をついた。
「ごきげんよう。今日の仕事は、どんな塩梅だったかしら」
「別に。面倒な作業だが特別なことはない。大体、お前も同じ仕事をしたはずだろう」
それなりに馴染みの仲なのか、ロランの物言いはアンリエッタに対するそれよりも一層ぞんざいだ。そしてその態度を迎え撃つかのように、女性は挑戦的な仕草で鼻を鳴らす。
「ふふん。ま、難しい内容ではなかったものね。ちなみに貴方は何人相手にしたのかしら? 私はそう、ざっと六十八人くらいなのだけど」
『ざっと』とか『くらい』とか付ける割にえらく半端な数字の申告ではあったが、とはいえ自分よりはずいぶん多い数で、彼女もまた熟練の公書士なのだろうとアンリエッタは思う。
さておき仕事ぶりを問われたロランはといえば、「そんなもの知るか」とにべもなく言い、アニーの方へと目を向ける。意を得た様子の事務員が、横から女性に数字を告げた。
聞いた途端、女公書士は目を見開く。
「な、なな、じゅう……! 僅差ですらないなんてっ」
愕然と声を震わせる。が、すぐに気を取り直して淑女は胸を張った。
「そ、そう来なくてはね、ウチに引き入れる甲斐もないと言うもの! 私は多少自分の方が不出来だったからと言って部下に辛く当たるようなことはないから安心することね、ロラン!」
何の話をしているのだろう。
「何の話をしているんだお前は」
頭に浮かべたのと同じ言葉が響いて、焦ったアンリエッタは反射的に口を押さえる。ついつい発言してしまったものかと思ったが、どうやら違ったらしく安堵する。
「あの――すみませんこちらの方は」
傍らのアニーにこっそり訊ねる。「あ、そっか」と思い出したふうに彼女は声を上げた。
「アンちゃんは初めてだもんね。こちらはニーナ先生。二等公書士でよくウチのロランと張り合ってんの。今をときめく二十八歳」
「私は、実質、一等公書士よ! あと歳を言うのはやめて」
牙を剥いて表わされた抗弁に、アンリエッタは首を傾げる。二十代も半ばを過ぎれば『老嬢』などと揶揄される場合もある昨今、ニーナが年齢に関して敏感なのはさして不思議なことではない。けれども『実質一等公書士』だと称する事情に関しては、どうも即座には測りかねた。
二等公書士と一等公書士の違いは、簡単に言えば実績の差だ。納税、相続、金融、不動産など、公書士が活躍するいくつかの領域について、『ある一分野において相応の知識と業務歴を有すると認められる』のが二等公書士で、それを二つ以上の多分野において有すると認められるのが、一等公書士の要件である。つまるところ彼女の実力が一等公書士に相当するということなのだろうが、とすれば二等公書士に甘んじなければならない理由は実績か、それとも別の何かか。
疑問符を浮かべたアンリエッタをよそに、後ろからまた別の声がかかる。
「困りますよ、先生」
端っからからかう口調で言ったのは、若い男だ。黒シャツに縦縞のズボンを履いた上に赤銅色のフロックコートを着て、服装のスタイルこそ似ていても上下を黒にまとめるロランと比べると、何とも軽やかな印象がある。
ニーナの傍へと歩み寄ったその青年は、ひょろりと長い体躯を屈ませ、彼女のことを見下ろす。
「肩書と年齢を外したら先生のこと、名前以外紹介できなくなってしまうでしょう」
「え」
と降った指摘に切なげな鳴き声を漏らすニーナ。
「そんな、ことは。いくらでもあるはずでしょうっ、……あるよね?」
「……」
露骨に黙り込んだ部下らしき青年に、ニーナは声を絞り出す。
「ほら相続関係に詳しいとか慈善活動にも精力的とか!」
「……」
「えっと、優しくてびじ、いや、優秀で、部下思いの」
「誇らしいですね」
「え」
いきなりの賞賛に、地面に向けて辿々しく呟いていたニーナの顔が上がる。
「優しくて優秀で部下思いでおまけに美人だなんて。いやご自分で称してしまえるくらいなんだから、きっと本当にそうなんでしょう」
「――っ、ま、た、ばかにして……!」
灯りかけた希望を慇懃なからかいに砕かれ、ニーナは沸々と肩をせり上げた。はだけるのも構わずに足を上げ、まっすぐに彼を蹴り付ける。
「この、ぼんくら! たまには上司を敬え!」
少なくとも部下思いではなくなった瞬間だった。いや、立腹しつつも部下として従えている辺り、慈悲深い部類だと思うべきなのかもしれない。
ストライプのズボンに次々と足形を付けられている光景をよそに、アンリエッタは当の青年についてアニーから聞く。
「このおふざけ君はシモン。ニーナちゃんとこの下働きで、三文記事の名手」
「……? 公書士の方ではなく?」
彼も机に座って手続きをしていたように思ったのだが。アンリエッタの疑問には、こちらに顔を向けたシモンが答える。
「そちらは本職ではないからね。資格は親の顔を立てるために取ったんだ」
何気なく言ったが、実際そう簡単なことではない。資格を取るための試験には旧イスタ語の書取り能力と一定の法律理解、多種の行政手続きの知識が求められる。親の支援があるなら学習の伝手もあっただろうが、それでも一朝一夕で何とかなるものではない。
「ということは、お勤めは新聞社に?」
「いや、記事を買ってもらっている。公書士業は言うなれば小遣い稼ぎさ。情報収集を兼ねた、ね」
それはすでに本職ではないのでは。言葉が出かけたのを止めて口を噤むアンリエッタである。人の本分を収入の如何だけで判断するのも詮無いことと思われたのだった。彼だって、余人に何か言われようと自分の態度を崩したくはないだろう。
アンリエッタがそのように認識を改めている横で、「勝手に兼ねるんじゃない!」と上司からまた一つ蹴りを受けるシモン記者。
「あなたはどうせ、避難民からも根掘り葉掘り聞きだして記事のネタにしようとしてたんでしょうが」
「悲劇の民の声を形にするのは重要な使命ですよ」
「こっちの仕事も、重要な、使命よ! 数をこなしなさい数を!」
そんなふうにけたたましい叱咤とのらりくらりとした抗弁が行き交う内に、移動の準備が整う。行き先の違いからか二台の馬車が用意された。その場を仕切る役人から声を掛けられると、ロランはさっさと乗車席へと上ってしまう。
「あ」
とこぼしてその動向を見届けるニーナ。
アニーやシモンも馬車へと向かう中立ち竦んで、何か用事だろうかとアンリエッタがその姿を眺めていると、彼女はこちらへ顔を向けた。目が合って数瞬の間があって、「こほん」とニーナは咳払いをする。
「ごめんなさい、うっかり聞きそびれてしまったわね。あなたはロランのところの見習いさん、で良いのかしら?」
確認に肯定し、言う。
「すみません、こちらこそ聞くばかりで――アンリエッタ・ベルジェと申します」
「ニーナ・クレマンよ、よろしく」
手を差し出されて、握手をする。
「苦労は多いかもしれないけれど、お互いにがんばりましょうね」
「はい。……」
賛同しつつ、ふと言葉を探して目を逸らしたアンリエッタを、ニーナは不思議そうに見つめる。
「どうしたの、何かお悩み?」
「いえその――近々、ご相談したいことがあって」
告げた申し出に、ニーナは丸くした双眸をぱちぱちと動かしてみせる。