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2ー1① 「インクの告げる邂逅」

 隣国の言語を修めていることはアンリエッタが此度の仕事に起用された理由であるらしいのだが、古イスタ語とヴィエルン語が混ざった方言を解することは流石に、困難を極めた。

『故郷の村では主に農作業に従事。家族は双方の祖父の代までご健在で、一族で同居。兄弟は弟が二人と妹が一人。ご両親のお名前は――』

 名前と出身と年齢、配偶者の有無に加えて聞き取りした親族の情報を読み上げてみせれば、目の前の娘は瞳をわずかに泳がせながらも頷いた。アンリエッタは平べったい丸缶に詰められた石粉いしこを娘の指先に付けさせると、今しがた情報を記入したカードの氏名欄に触れるよう、彼女に指示をする。それから、紙面に伏せた彼女の指に自分の手を重ね、三節の文から成るまじないを呟いた。代筆した署名が一瞬ぼうっと白く色付いたのを確認すると、アンリエッタは彼女から手を離し、書き込んだカードを娘に向けて差し出す。

『はい、おしまいです。この名刺は滞在中の身分証になりますので肌身離さずに持つようにしてください。あちらの列に並んで、船に乗り込む準備を』

 彼女らの用いる方言ではないにせよ、ヴィエルン語で話せば言葉の意味はある程度理解してもらえるらしい。女性はアンリエッタのした案内通り、難民輸送船の列へと向かう。

 視界を正面に戻す。都市郊外、列車駅から少し離れた運河の傍だった。地べたに置かれた席の向かいには十数人ほどの列が四つあって、座り込んだ彼らの前には整理役を当てがわれたアニーが立つ。こちらが手を上げて合図すると彼女はすぐさま気が付き、アンリエッタの列の一番前の男に身振り手振りを交えて指示をしてみせた。気安く肩を叩かれた彼が、のそのそとこちらに向かって歩いてくる。

 現在実施しているのは、避難民入管のための手続き業務である。隣国にして友好国のヴィエルンは東国ハーヴェルからの侵略に対抗中で、その戦線の後退のために、当該地域の住民を輸送する運びとなった。故国からの脱出を余儀なくされた彼らは列車に積まれ、国境を越えて地方を跨ぎマティルドの地に足を着けたわけである。

 その無辜の民の受け入れのために呼び寄せられたのが、ロランとアンリエッタ、それとよその公書士事務所の二人を合わせた四名だった。野外に即席に設けられた事務机に着席して、身分証作成に勤しんでいる。

 ――公的書類ですよね。書字は古イスタ語ですか?

 昨日、事務所で仕事について話された時、アンリエッタがまずしたのはその質問だった。

 いいや、とロランは机の書類に目を落としたまま否定する。

「現場で混乱するからな。綴り、文法は実用語で問題ないとのことだ」

「本人のサインは?」

「代筆し、霊的証印マナ・マルケで済ませる。手順については公書士試験の範囲にもあるが――」

「『其は誓う(トゥレジェ)此は信ず(ジュレフィァム)天も信ず(デュレフィァム)』」

 いかにも「わかるよな?」とでも言いたげにした上司の口振りにアンリエッタが小さく手を掲げて答えると、ロランは顔を上げて頷いた。

「うむ。鉛インクと珪石粉の費用は向こう持ちだ。別途役所への請求書を作成するのでそのつもりで」

 霊的証印マナ・マルケというのは、古くからある個人を同定するための手段の一つだ。鉛を混合させたインクに霊素マナを付与し、筆跡による識別を可能にする。代筆にも有効だし個人の同定に関して言えば無類の手法ではあるが、長期の保存に耐えないのと、印の抹消及び改ざんが容易であるために不正が横行するのが難点で、庶民の識字能力の向上と共に廃れていったという経緯がある。悲しくも役立たずになった魔法の一種と言われるが、こうして場面を選べば立派に活用ができるわけで、十分以上にまともな手法だろうとアンリエッタは思う。

「や――っと終わったぁー」

 最後の一人を送り出すと、アンリエッタは机に伏せた手に額を置いて、突っ伏す。午前に二十五、午後に十七の四十人余りの身分証を作成すれば、さすがに脳と体は疲労を訴えるのだった。しょせんは手のひら大のカード、文量はそれほどでもないのだが、異国語で質問しつつ方言を周到に聞き分け、なおかつ短時間でイスタ語にして書き起こす作業は、一件一件にそれなりの労力を要した。

 と、背中を押される感触がある。

「おっ疲れぇ。いやあ、がんばったねえ」

 労いの言葉を寄越すアニーの按摩を、アンリエッタは心地よく受け入れる。体を起こし、頭上の彼女の方に目を向けた。

「アニーさんも。四人分の補助作業、どうもありがとうございます」

「そうもー足が棒よ。雰囲気も辛気臭いし参っちゃうぜ」

 言いながら体重をかけてきたので、「わわわ」と声を漏らしてしまうアンリエッタ。しまいに頭まで撫でられ始める。

「傍から見てて面倒そうな仕事だなーって思ってたけど。さっすが、しっかりこなして偉いねアンちゃんは」

「いやあ、そんな」

 そうまでして褒められると悪い気はしないもののなんだか気恥ずかしい感じもして、アンリエッタは這い寄る事務員の手を押しのける格好で剝がしてしまう。隣のロランに遊んでいると思われるのもまずい。

「私なんて大したことは。たぶん所長はもっと受け持たれて」

 順番待ちの列は時々調整されていたので、各々の作業ペースに応じた人数を対応したはずである。アニーは数える仕草で両指を動かしながら、瞳を上向ける。

「えっと? 二人合わせて一一八で、アンちゃんが四十二人だから」

「七十六……私より三十人以上も」

 つい隣の方を見る。十歩ばかしの距離を隔てた隣の机のロランもまたこちらに目を向けていて、以前の時のようにばちりと目が合った。反射的に首を動かして視線をスライドさせたが、逸らすのもおかしいかと思ってうろうろと左右に動かす。

「なんだ」

 仕事の手際に不服を申し立てられるかとドギマギしていたアンリエッタに眉を寄せ、ロランが訊ねてくる。あ、いや、その。アンリエッタは小さく掲げた右手を肩の辺りでうろうろさせた末、やがて膝に置いた。

 頭を下げる。

「すみません、あまりお役に立てず」

 言って、あちらの表情を窺う。視界には、怪訝に寄せる眉の下のまなじりを胡散臭そうに細めるロランがいる。

「何がだ」

「ロラン所長に倍近くも」

 見つめるロランは、むすりとした表情を動かしもしない。

「何か手落ちは?」

「え」

「ミスはしていないのか」

「……今考え着く限りではありません。証印も、全て反応を確認してあります」

「なら、良い。じきに馬車が来るので帰る準備を」

 眉根の皺を消したロランはふいと前を向き、ひと時仮眠をするみたいに腕を組んで目を閉じてしまう。手早いことに机の上はすっかり片付き、手提げの革鞄が置かれるのみである。

「たぶん、結構、助かったと思ってんじゃないの」

 ロランに対しぱちくりと目を瞬かせていたアンリエッタの耳元に、アニーの囁き声が届いた。

「アンちゃんがいなきゃ、五割近くは自分で捌くとこだったろうし」

 本日受け入れたのが二百人弱だというので、アンリエッタの持ち分を分散させれば確かに、そのくらいの数にはなる。

「私も気楽だったしね。やっぱ小さな女の子とかはあんなオジサン怖がるだろうし。よその事務所に回すって手もそりゃあるけど」

 よその、という言葉で、アンリエッタは気になっていたことを思い出す。

「そういえば隣にも――」

 口にして振り返りかけた所で、二人の傍を誰かが横切った。ヒールの靴をずんずん進ませ、我らが所長の前へ立つ。

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