1ー3 「いつかペンと制度の力で」
ばすんと、スタンプが紙に押される。日付と名前を付した隣に、イスタ第一銀行の意匠が赤い印影を付ける。
それが、三枚。
「拝見します」
受付台に並べられた書面に、アンリエッタは目を落とす。事業資金の貸付に関わる証書だった。数字や署名、印に間違いがないことを指し比べて確認すると、原本に当たる一枚を返し、残ったもう一枚の原本と写しを持ち帰るべく、丸めてもらって革張りの筒へと納める。
公文書・私文書の作成や申請の代行と、その正当性の保証。それが公書士の主たる職務に当たり、銀行とのやり取りにもよく駆り出される。きょうび細かい商取引くらいであれば関係者同士でやり取りは完結するのだが、とりわけ信頼性が重視される案件であれば、公書士が立てられることがままある。銀行融資などはそれに当たり、ロランは金融分野にも強い公書士だから銀行と商人の双方からお呼ばれがかかる。今日のアンリエッタはそうした依頼の、小間使いというわけだ。
同様の手続きをさらに二件行って、言い付けられた仕事が完了する。
あ、私、口座の確認を――あ、まだ手続き中? ええと、それはいつ頃に……。
銀行を後にする。
「だいたい時間通りかな」
通りに出て、東の時計塔を見やれば時刻は十一時を過ぎたところだった。昼時の鐘が鳴るまでには、今しばらくの時間がある。事務所の二人の昼食を調達して、明日は市外へ出張だからその準備も……と頭の中でスケジュールを組み立てつつ、中央市場へ向かって歩いた。今いるカストル地区は市民革命後に構想された地区で、市役所、税関、銀行、郵便局といった都市機能が集中する区域だ。市の第二の玄関口である東門の駅から目抜き通りを進み、ぶつかった中央広場をぐるりと回って避け、|北側の運河までを結んだ通り《ルゥエ・ドゥ・ゾーラ》を行った途中にある。街並みは新しく清潔で、近辺で働く人間の社会的地位も比較的高いが、列車と船の二つの交通網を繋いでいる格好になる道だから、四頭立ての馬車が荒々しく走り抜けていく光景も珍しくない。
通りの両端、人の通行用に一段高く設えられた道を進んで、アンリエッタの住むサン・ジェン地区へと踏み込めば、視界の先には市場が見えた。がやがやとした賑わいをその身に迎えつつ、アンリエッタは店舗群へ足を踏み入れる。
――食べたいものはありますか?
――なんでもいい。
――美味しいやつ。
同僚二名のまるで参考にならない要望を思い出しつつ、テント垣の道を抜けていく。バゲット、燻製肉、テリーヌ、ビスキュイ、酢漬け、腸詰め、ヌガー、キッシュ・トーリア……きょろきょろと食料店を見回しつつ歩けば、やがて端へ抜ける。
さて、と首を捻るアンリエッタである。一人であればさっとつまめるもので済ませるところだが、簡単過ぎればアニーが文句を言いそうではあった。目にした店とその混雑具合を思い浮かべた末、別の筋へと足を向ける。
結局、初日に連れて行ってもらったパイの店にしようと決めたのだった。本人の気に入りであれば、まず間違いはなかろう。
平日の昼下がりを回るたび撤収する青空市場ではあるが、老舗の位置は基本的に変わらない。出店の制度としてはごく簡単で、役所へ利用を届け出て区画を割り当てられるのだが、まとまった期間で申請すれば利用料も割り引かれるため、開店頻度の高い店舗ほど継続的に同じ場所で営業することになる。もちろん休みになっていることもあるので、そういう場合はぽかりと区画が空いたり、休憩所として使われたりする。
記憶を頼りに道を進み、目的の店を探す。苦も無く見つけて、既に七組の順番待ちになっていたが、他を探す方が時間が掛かるだろうと後ろへ並ぶ。前列の人の肩越しに商品棚を覗くと、山と積まれた角形のパイが見えた。
しばらく、手持ち無沙汰に待つ。周りの店を見るともなしに眺めた。小さな子どもが、道の先にある青果店の前に立っているのが見えた。あんな子も来るのだな、と思う。茶色がかった金髪はやや撥ねてぼさつき、裕福な家の子どもではなさそう、というのが遠目にも分かった。
「おや三日ぶり。アニーの連れだね」
パイ屋の店主が、順番が来たアンリエッタを目にして言った。ごきげんよう、と挨拶が続く。
「ごきげんよう。お昼の用意を仰せつかりまして」
「ごひいきにどうも。いくつだい?」
三つ下さい、と指を立てて注文する。彼がそれぞれ包む間に、鞄から苦も無く一ゲール金券を取り出した。片手だけで生活をこなすことも、この三日で大分こなれてきている。
ん、ホラ、サインだよサイン、わかんないの?
ふと聞こえた発言は、彼女に対するものではない。ちょうど金券への署名を終えたアンリエッタは、さっきの青果店の方を見やった。何かトラブルだろうかと、目を凝らす。
気が付く。
「――カバン!」
思わず、声を上げた。聞き付けた少年がこちらを見て、腰から腹の方へ抱え直したそれと、アンリエッタのことを見比べる。先日地面に突き飛ばされた彼女がなくした鞄を、年端もいかぬ少年が所持している。
小さな体が踵を返した。
「待って!」
叫んで、逃げたのを追いかける。
「おおいっ、パイは」
「ごめんなさい! 置いておいて!」
叫んだ店主にそう頼み、びゅっと走り去った子どもの背中を追った。首に吊った左腕を不自由に庇いつつ、石畳を蹴る。同様に体の左右の振りがアンバランスな走りをする少年は、けれども上手に人波をかわすものだから、近付くどころか見る間に姿を小さくした。
「わたしの、かばんっ――」
天に喘いで声を漏らした。やがて追いつく無理を悟って減速する。とぼとぼと歩いて、立ち止まった。
「もう!」
悔しく腕と足を振り、地面を強く踏んづける。
ぴしりと肩に痛みが走って、アンリエッタは情けなく体を丸めた。
「ごめんください!」
勢いよく戸を開けて来訪を伝えると、奥の席に座っていた男性がこちらに注目する。片手に載せた帳面から目線だけを上向けて、アンリエッタのことをじっと眺めた。
「お客さんかな」
「客ではなく、善意の通報者です」
答えてずんずんデスクに歩み寄ると、男性はぱたりと帳面を閉じ、組んだ脚を下ろす。
「すまないが昼休みでね。この通り、皆出てしまっている」
「警官規則に定時の昼休息の規定はなかったはずです」
「こりゃまた、物知りなお嬢さんだな。だが、何事にも地域に合わせた実態というものがある。警官は、あの無限に働く機織り機とは違って、生き物なのでね」
「ここマティルドでの規則がそうなっているという話です。分署ごとに変わっていたら滅茶苦茶になるでしょう。あと、フラット社製の最新の紡績機であっても、トラベラやロール、スピンドルなど可動部の調整が必要です。無限に動かすなんてできません」
「トラベラ、と……なんだって?」
訊き返されたが、つい補足してしまった機械の解説については関係がないので、繰り返さない。
「大体そちらは、応対のために駐在されていたのでは?」
問えば、男性はたいそう面倒そうに目を細めて、ため息をついた。
「まあ、来ちまったもんは仕方ないな。あちらへどうぞ」
茶髪の頭を掻きながら立ち上がると、入り口横にある応接椅子への移動を促してくる。
「それで? 本日はどういった御用向きで?」
向かい合って着席すると男性は再び脚を組んだ。アンリエッタは胸元に片手を添え、言う。
「私、アンリエッタ・ベルジェと申します。三日前、盗難の被害届を提出した者です」
「あー、本官はフランツだ。盗難ね、そりゃ大変なことだ」
「……こちらの分署で通報をしたんですが、内容をご存じない?」
フランツと名乗った男は、調書をぱらぱらとめくりながら肩をすくめた。目をつまらなさそうに細めて記述を追う彼はいわゆる警官服を纏わず、リネンのシャツにタイは締めずカーキ色のベストのみ羽織る、といった出で立ちをしている。
「すまないが赴任したてでね、ご覧の通り制服もない――おお、あったぞ。二十一歳、女、髪は肩下の亜麻色、やや小柄で丸い目鼻」
「私のことはどうでも良いんですが」
「なるほど怪我をして、鞄を盗まれたと。残念ながらまだ見付かってはいないな。さぞご心配ではあるだろうが、今しばらくお待ち頂きたい」
顎を傾けて述べたフランツに、アンリエッタはふるふると首を振った。
「先ほど鞄の行方はわかったんです」
「ほう。なら解決か」
「いえ、取り返すことはできていなくて……十歳くらいの男の子が持っていました。汚れている様子でしたし、金券の使い方も覚束ないようでしたから、浮浪児ではないかと思います」
ふうん、とフランツの反応はいかにも他人行儀である。
「で? さっさとその少年をひっ捕らえて欲しい、と?」
首を振るアンリエッタ。
「窃盗についてはもう問題にしませんから、探して、しかるべき場所で保護して頂けませんか」
フランツは顎髭を撫で、こちらを見つめるばかりだ。アンリエッタは重くなりつつある唇を、さらに開く。
「教育機関か修道院に申し出れば何らか引受先が見つかるのでは、と――。難しいでしょうか?」
「ここでやってる仕事じゃあないな」
「……ちなみに被害届を取り下げることは」
「おすすめできんね。お巡りを動かすのに必要なのは命令か賄賂か仕事だ。現行犯で見かけでもすれば別だが、仕事じゃなけりゃ探すまでのことはしない」
「……」
アンリエッタは言葉を探して黙り込む。けれども抗議を秘めた視線は下げずに注いで、それが効いたのかどうか、フランツはしようがなさそうに鼻息を鳴らした。
「逆を言えばだ、犯罪者であるなら探す」
「え?」
「だから、まるで出来ない話でもないと言ったんだ」
「ご協力頂ける、と?」
「せいぜい口添えをする程度だがな」
後ろ頭を掻きながら、フランツは続ける。
「学校にせよ修道院にせよ、しばらく身柄を預かる程度はするだろ。今のご時世、裁判で子どもを擁護する団体もあるくらいだ。見受け先を探すのもそう手間取ることじゃない。あちらと連携するかどうかは、ここの責任者の判断次第だがね」
手のひらを掲げてそう言われる。近年、子どもに対する量刑に環境や背景が大いに考慮されるようになったことは、彼の話した通りだ。
とはいえ。
「前科が付くのは避けられないでしょうか」
犯罪歴が里親に対してマイナスな印象を抱かせることは、依然として変わらない。
「言ったろ、おすすめしない。あんただって一人じゃ探せないから話しに来たんだろう」
彼の言葉には答えないまま、アンリエッタは顎に指を置いてしばし考える。フランツのことを一度見やって、それから口を開いた。
「こうするのはどうでしょう? 盗んだのではなく、拾ったことにする」
あのなあ、とため息交じりの声が返った。
「こんな場所でンなこと持ち掛ける奴があるか。大体、そいつと口裏を合わせることもできんだろうが」
確かに、仮にフランツの協力を考慮に入れたにしても、他の目を盗んで少年に話を持ちかけることは難しい。状況によっては、そういう誘導を行う機会もないまま彼が罪を認めてしまう場合だってあり得る。
「はい。なのでそちらの調書に、『やはり所持していたのは二〇〇ではなく、二五〇ゲールだった』という証言を加えましょう」
「はあ?」
いきなり何を言い出すのかといった具合で眉を歪めたフランツに対し、アンリエッタは説明する。
「供述の修正によって、私に関する心証を悪くするんです。架空の金銭被害を訴え出ている可能性を浮上させれば、双方の言い分を精査しておこうと考えるのも自然になります。そこでフランツさんに」
「待て待て待て待て!」
慌てた様子で言葉を遮る。
「あんたは一体何を言ってる? そもそも被害者だろ、どうしてわざわざ立場を悪くする必要があるんだ」
「捜査をかく乱できれば、フランツさんの方も介入しやすいのではないか、と。偽証を指摘される余地こそありますが、最終的に記憶違いであったとすれば、さしたる問題には発展しないと思います」
「俺が話しているのは企みの中身じゃなく、あんたの動機の方だよ。理由がないだろ」
「私の?」
そこから躓いているのかと思うアンリエッタである。
「ですからあの子の窃盗罪を立件させないために」
「そうじゃない、見ず知らずのガキだろ」
「確かに面識はありませんが、ええと……それが?」
「それが、って」
言葉を詰まらせたフランツのことが、アンリエッタにはよくわからない。ここまでの会話に、何か絶句する要素などあっただろうかと思う。瞬きを繰り返したアンリエッタにフランツは唇を歪めて、それから息をついた。
「まあ、良い。あんたの案に乗ろう。子どもが鞄を所持していた目撃談と、損害金の修正、それが今日行った供述ということで良いな?」
確認に頷く。
「どうか、よろしくお願い致します」
念を押して依頼すると、中断していた説明の続きをして、打ち合わせを終える。
「フランツさん」
分署を辞去する段になり、アンリエッタは改めて彼の名前を呼びかけた。
「ありがとうございました。調書を読まれたので御存じでしょうが、私は公書士をしています。フランツさんも何かお困りがあればご相談に乗らせて頂きます。御用向きの際にはどうぞ、ロラン公書士事務所へ」