8ー4
壁の隅を見つめてそっぽを向く彼の耳の後ろ辺りを、しばらく撫で続ける。
「僕もだよ」
ふとそう言って、少年は横目にこちらを窺う。
すぐまたそっぽを向く。
「アンリエッタのことが、好きだ」
「うん」
「……もちろん、ルウィヒだって同じで」
「うん」
「あいつに関しては、聞かなくてもわかってるかもだけど」
「うん」
「僕らはだから……大事なんだ、その、アンリエッタのことが」
「うん」
「……」
「知ってるよ」
「え」
「ちゃんとわかってる。ね、あの時だって、守ってくれたんだもんね」
先日の、久方ぶりのマルタとの面会の時のことを示して、言う。
「ありがとう。おかげで、ちゃんと母さんと話ができた。二人のおかげ。レームとルウィヒは優しくて、とっても偉い」
唇をかすかに開けたままにした少年の眼差しが、焼き付けるみたいにじっと見上げている。
「私もね、二人のことが大事。いつも頑張ってくれて、ありがとう。レームもルウィヒも、いつも私のこと助けたいって思ってくれてること、ちゃんとわかってるよ。本当に、本当にありがとう」
「そ」
吐息交じりに声を挟んで、レームは落ち着かなさげに視線を左右に配った。
「そんなの。いつも頑張ってるのはアンリエッタの方だろ」
「そうかな?」
「そうだよ」
「……そうかなあ?」
「そうだってば!」
ちょっとふざけてわざとらしく首を傾げてみせたのに、レームが声を大きくする。アンリエッタは無邪気な気持ちになって笑って、やがてまた、少年と目を合わせた。
「ね、レーム。あなたは知ってる? お互いのことが大事で、大好きで、ほっとけなくて、助けになりたい……そういうのがなんて言うのか」
すぐには答えられずに、レームの視線が辺りをうろついた。
変わらずじっと彼を見つめたままで、言う。
「家族だよ」
見開く少年の瞳が、見えた。
「それは、家族になりたい、って思う人たちなんだよ」
じっくりと教え聞かせるみたいに声をかける。
レームが、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。
声にならない呟きを幾らか漏らして、それから訊く。
「……アンリエッタ、も?」
「うん」
「僕たちだけじゃ、なくって?」
「そうです」
「――っ」
力を込めて頷く。
呆然と浮かぶレームの表情が、みるみるくしゃりと潰れる。
その内に隠すように俯いて、アンリエッタは彼の額を胸元へ抱き寄せてやる。
「明日」
少年の、くぐもった声が耳に届いた。
「ルウィヒにも教えてやらなきゃ」
「そうだね――」
と、同意して横に目をやって、心臓が跳ねた。
寝床から身を起こしたルウィヒが、こちらを向いている。
「れんが」
不服そうな声とともに、不機嫌な眼差しを送る。
ぶすりと尖った唇と寄せた眉が見えた。
もしかしなくても、仲間外れにされて拗ねている。
「ルウィヒ、えっと」
執り成そうとアンリエッタが言葉を探す間に、少女は寝床を下りて近付く。とたとたと、歩み寄るにつれて速度を上げて、アンリエッタとレームの間、脇腹の所へと飛び込んだ。
「わっ」
「ルウィヒ、あのね――」
おかあさん?
「……!」
しがみ付いてきたルウィヒから声が届いて、アンリエッタの言葉が詰まった。
エッタが、私のお母さん?
「……うん。そう。上手くできるかは、わからないんだけど」
頷いて、言葉尻を小さくしつつもそう言うと、ルウィヒはふるふるとアンリエッタの懐に入れた頭を動かした。
そんなことない、きっと。
「うん」
嬉しい。
「うん」
でも、二人だけで話したのは、ゆるせない。
「……そうだね、ごめんね」
別に、いい。私たちにだって内緒はあるから。
伝えられた言葉に疑問のニュアンスを返すと、ルウィヒはしばらく黙って、そして伝う。
ごめんね、私も大好き。
腰に回された少女の腕の力が強くなる。
やがて、洟を啜る音が耳に届く。
震える小さな背中を、アンリエッタはゆっくりと撫でてやる。
焦がれるような胸の迫りがルウィヒからは伝わって、アンリエッタもまた、つんと鼻を痛めて涙ぐむ。
「うん――わかるよ。私も、ルウィヒのことが大好きだよ」
そう言うと、懐の中で少女が頷いた。
抱き寄せて、二つの額の熱が胸と腹に触れる。
目を閉じ、何も言わないで、胸の奥の疼く感触に、じっくりと寄り添う。
そのまましばしの時間が経って、ふと、レームの頭が胸から離れた。




