8ー3
もしかすると各々、酒が入っていたのが良くなかったのかもしれない。
三度声を発せば皮肉を混じえるロランではあるが、流石曲がりなりにも客商売をしている身というべきか、母親の前でまで皮肉たっぷりにアンリエッタのことを評したりはしなかった。
どころか、褒める。
仕事の手際に慣れないところはあれど覚えは良いとか、誠実さに嘘はないのでじきに顧客にも親しまれるだろうとか、同僚ともすぐに打ち解けていたし、だから信頼して仕事を任せているとか、普段はあまり言わないことを言う。
そんな言動に、どんな期待を感じたのか。
一応さりげなさを装いつつも投げられたマルタの問いかけが、娘を嫁に取るのはどうかという趣旨のものであった。すわ何を言い出すのかと慌てたのはアンリエッタだが、ロランの方はと言えば、不快そうにも面倒そうにもせずに、まずは「大変光栄なお話です」と答えを返す。
――ですが私のようにぶっきらぼうな男より、彼女にはきっともっと相応しい御相手がおられることでしょう。それに私は、そこにいるアニーという女性を生涯愛することを心に決めています。ですから
言葉が途切れたのは、アニーが振りかぶったらしいパンプスがこめかみに直撃したからだ。よほどの威力であったのか、ロランは一時くらくらと辺りを見回した。
どしどしと大股で近寄ってきた彼女のことを見下ろして、言う。
――痛いぞ。
――うるさい。拾え。
苦情を拒否して命じる。従順なもので、ロランは無言で床に転がった彼女の靴を取りに行く。拾って戻ってくるのを腕を組んで見届けたアニーは、普段の態度からは思いもよらないほど冷たい声で、言った。
――その気、ないって言ってるよね。何でこんなとこで言うの。
――断る理由を話しただけだ。お前には何の関係もない。
――あのね。迷惑だっつッたんだ、この唐変木。
――……。
剣呑な声でなじったのに、ロランは無言で応じる。拗ねるように目を逸らしたのを見かねてか、アニーは深くため息をついてみせた。彼の腕を引っ張って、玄関の方へ引きずっていく。
――ごめんね、ちょい離席。皆さまは気にせずお楽しみに。
扉が閉まる。
かん、かんと外階段から足音が響く。
室内は変わらず静まり返ったが、シモンがニーナを茶化したり言い返されたり、ルウィヒがアニーに預けられたグラスをしげしげと眺めたり、ついには傾け始めたのを大わらわで止めに入ったりしている間に、場の雰囲気が戻った。
「……ロランさんのあれって、好きってことだよね」
「うん、まあ、そのはず」
ついつい断定しそびれる。想定にない宣言であったので、自分の判断の正確さを測りかねた。
「アニーは、ヤだったのかな。怒ってたし」
「どうだろう……」
アニーの普段の態度を見るに付け、そうロランのことを邪険にしていたふうでもなかったとは思うのだが、色恋にまつわる眼力には自信がなく、またも断定を避けた。
少年のたいそう純朴な眼差しが、こちらへ注がれる。
「アンリエッタはもしかして、こういう話は詳しくない?」
「……お恥ずかしながら」
目を逸らしながら言い落とす。我ながら、情けない回答ではあった。が、本で学んだ知識で恋愛経験の乏しさを誤魔化すよりは良かろうとも思う。
「ちょっと、わかるかも」
わかられてしまうと少し空しいのだった。意味合いを探ろうと、くすくすと息を漏らして言ったレームをじとりと見つめれば、今度はあちらが目を逸らす。
「わかんないんだけどさ、ちゃんとは。でも何となく」
つまり、何となくで察せられるくらい縁がなさそうというわけである。事実ではあるし改善も見込まれないので仕方がないのだが、若干の居た堪れなさを抱えるアンリエッタだった。
「そういうこと、これまで一度もなかったの?」
幸か不幸かこちらの微妙な感慨が漏れ伝わってはいないらしく、レームはさらに問いかけてきた。
「そうじゃない、けど」
「けど?」
意外なほど詰めてくる。アニーらが問い詰めて来た時には脇に控えていたのとは打って変わって、少年の態度は幾分積極的だった。
アンリエッタは、ちょっと戸惑いながら窓の方へと視線を上げ、口を開く。
「えっと。好きな人は、いたんだ。でも少し……いや、結構前のことだから」
目を細める。
山あいの低い空の下で二人歩いたことを思い出す。
暮れゆく西日で金色に染まった原の中を、並んで進んだ。
体にはうずうずと怖いまでの充実があって、世界はくっきりと、つぶやかな輪郭を露わにして。
足取りはひどく、軽やかだった。
「……僕の、知らない人?」
外、暗い空の先、ずっと遠くの光景を見つめていたアンリエッタにレームが訊ねた。頷くと、少年はさらに問いかける。
「今はどこにいるの?」
訊かれて視線を落とす。膝の先に、はだかる部屋の壁がある。
「……どこなんだろう」
そんなふうに返してしまう。
相槌もなかったので隣を見れば、あまり納得いってなさそうに唇を引き結ぶレームがいた。誤魔化されたように感じたのかもしれなかった。
「ごめん。変なこと言ったね」
少年のこめかみの辺りに、指を触れる。
「今はレームとルウィヒが、大好き」
微笑み見下ろしてそう言うと、レームの眦に不満げなものがたまる。
「これ、ごまかしてるでしょ」
「……そんなことないよ」
「笑ってるじゃん」
「ごめん。でも、本当だから」
「……良いよ、もう、別に」
ふいと軽く鼻先を背けたレームに、いっそう目を細める。
実際その場凌ぎで口にしたのでは、なかった。拗ねる表情をずいぶん可愛らしく思ってしまって、それでつい笑ってしまった。




