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8ー1

 口座の検分を実施したのは、もちろん休日の朝早くのことだった。

 クッションで座面を嵩上げした執務椅子に、ちょこんと収まる。

 作業机に着席したルウィヒは、そのやや王侯然としたスタイルが悦に入ったのか、頬をふっくらと得意げに綻ばせていた。

 早朝、寝ぼけ眼をしょぼつかせながらアンリエッタに手を引かれてやって来たのとは対照的に、今はぱっちりと開いた眦を光らせる。興奮気味なその視線は、レームと一緒になって周囲の光景のそこかしこに向いた。隣の資料室からどたどたと聞こえる仕分けの音を背景に、部屋の角に立てられたオブジェやガラス戸の付いた棚、暖炉と一体になった時計などを眺める。役職付きの人間用であろうその部屋は人の応接にも使われることがあるようで、中央には長机とソファが置かれていた。

 組合の件で一芝居を打つ、二日ほど前の出来事だ。休業日のイスタ銀行の支店に、アンリエッタは兄妹を連れて訪れている。

「お待たせしておりますね」

 声のした方を見れば、資料室から一人の女性が出てくる。長い黒髪を畳むように頭の後ろでまとめている彼女は東洋系の顔立ちをしていて、細い鼻筋の横、やや目尻の上がる双眸には涼やかな印象があった。

「初めまして。フランツの下で働いておりますフォン・デュッケと申します。そちらのことは、フランツから幾らか」

 アンリエッタが名乗られたのに挨拶し返すと、フォンは兄妹の方へ目を向ける。

「あなたたちのことも、ちゃんと聞いていますよ。ルウィヒさんに、レームさん。本日はご協力ありがとうございます」

 微笑んで言われたが、立ち居振る舞いの油断なさがそうさせたのか、ルウィヒもレームも話し出せずに視線を返すばかりだ。フランツと対面した時もそうだったなと思い起こしたアンリエッタは一拍置いて我に返り、兄妹に言う。

「二人ともご挨拶。ほら、ルウィヒは立って」

 短い呼びかけに兄妹はアンリエッタへ目を配って、それから指示通りに動きフォンへ言葉をかける。笑いかけた表情をそのままに、彼女は「はい初めまして」と同じ挨拶を繰り返した。

 一仕事終えた兄妹はまたこちらを見やって、どことなく称賛を待ちわびたような眼差し達に、アンリエッタは仕方なく苦笑を返す。

「ずいぶん慣れたようですね。元々聞いてはいましたが」

「?」

「母親役です」

 言われた内容に気を取られたせいか、フォンが距離を詰めてきたのに遅れて気がつく。彼女はアンリエッタの脇を抜けてルウィヒの前に立つ。その小さな手を取って、しばらく少女を見下ろす。

「あの」

 しばし立ち尽くして、ようやくアンリエッタは声をかけた。フォンは振り返らないまま同じ姿勢を取って、やがてちょっと頬を綻ばせると手を離す。

 アンリエッタの方へ向く。

「失礼しました。本当に、意思の疎通ができるものなのかと思って」

「ルウィヒとは、何を?」

「いぬ、ねこ、りす」

「ええっと……?」

 いきなりの羅列に戸惑うアンリエッタである。

「当ててもらえるかしらと、試したんです」

「ああ、なるほど」

「それから、アンリエッタさんのことは好きですか、と」

「え?」

 言葉に不意を衝かれ、ついルウィヒの方を見た。少女もまたたじろいだ様子で、フォンとアンリエッタを見比べる。

「大好きみたいですよ。ついでに私はどうですかと聞いてみましたが、答えてもらえませんでした」

 冗談めいた声音で付け加え、わざとらしく「残念です」と嘆いてみせる。

「書類はそろそろお持ちできますから、もう少し待っていてください」

 背中を向けて資料室へ舞い戻る。

「あっち、どんなのか気になるな」

 後ろで言ったのは、いつの間にかルウィヒの隣に立っていたレームだった。

「でも、たぶん邪魔になっちゃうから」

「――構いませんよォ」

 アンリエッタが拒否しようとしたのに応える形で、フォンが奥から声を上げた。じっと視線で伺いを立ててきたレームに、ちょっと迷ってから頷いてやる。

「あんまり、触ったり動かしたりしないようにね」

 奥に駆け込む後ろ頭に言葉を投げたのには、「大丈夫ですよ」と隣室からフォンが答える。

「悪戯なんてできません。私の目がある内は」

 朗らかさを伴った声音は同時にどこか威圧的で、レームの方こそ平気だろうかと思い始めるアンリエッタである。しばらく資料室の方を見つめて、それから隣へ視線を戻す。椅子に座ったルウィヒが、ちらちらと興味深そうにあちらを見ている。そこに根差したみたいに椅子から離れようとはしないで、どうやらこんな小さな体にも責任というのは宿るものらしい。アンリエッタはこれまた複雑な心境で、けれども褒めてやりたい気持ちも確かにあって、ルウィヒの頭を撫でる。

 見上げる少女の顔がある。

 どうかしたの?

 訊ねてくる。

 偉いな、って思ったから。

 応えると、ルウィヒは気に入らなさそうに唇を尖らせる。

 だったら――言葉で言ってほしい。

 アンリエッタは目を瞬かせる。

 ルウィヒの手を握る力が、ほんの少し強くなる。

 エッタの声を聞くの、好きなの。褒めるの、ちゃんと耳で聞いておきたい。

「……今、エッタって」

 前にマルタがそう呼んでたから。だめ?

「ううん」とアンリエッタは受け入れて、頭を繰り返し撫でる。味わうみたいに目を閉じて、ルウィヒが頭を押し付けてくる。

「だめじゃないよ。ルウィヒは、とっても偉い子だね」

 囁いてやると、唇は得意げに薄い笑みを作る。

 背後から足音が聞こえた。

 数冊重ねた帳簿を抱えたフォンが、資料室からこちらの部屋に入ってくる。

 少女の仕事が始まる。

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