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公書士アンリエッタ 〜いつかペンと制度の力で〜  作者: ke
第6話「送る羽ばたき、明ける後悔」
31/45

6ー5

「手紙で知らせてくれてもよかったのに」

 窓の外、通りに出て行く三人の背中を見下ろしながら、マルタはそう口にした。フランツに頼んで、レームとルウィヒを連れて席を外してもらったところだった。

「私たちが、見捨てろとでも言うと思いましたか」

 母と二人残された部屋の窓際で、「そんなこと」とアンリエッタは首を振る。

「実際ね、なんとかしてもらおうって考えたりもしたの。でもちょうどその時にフランツさんに会ったりとか……仕事でも色々あって、それですっかり頭から抜けちゃってて」

 いかにも呆れて、けれどもどこか承知していたふうに息をつくマルタ。

「何かあれば、いつでも頼ってもらっていいんですからね。それを忘れないで」

「うん」

 素直に応じて、それから訊ねる。

「母さんは、一人でここまで?」

「いえ、ルグランさんと一緒です」

 先日母の手引きによりアンリエッタの婚約者になりかけた、あのルグランである。

 兄からアンリエッタの居場所を聞き出し、それで旅行の準備をしていた際に、ルグランからお供をするとの申し出があったという。

「まあですから、研究と新規開拓を兼ねた休暇ということになりますかね。あなたのこともいったんは片付いたところですし、ある意味では、丁度良い時機だったのかもしれません。お父さんにも電報を出していますから、あちらの用事が済めば来てくれるんじゃないかしら」

 今は国外に出ている父は確か、夏までにはイスタに帰るという話だったか。仕事の分担上離れて暮らす場面の多い両親であるが、夫婦仲は良い方だ。父が割合母にべったりなところがあって、だから報せを受け取ったあちら側はもしかすると蒼然としている可能性もある。会社に影響は出るまいかと、苦々しさと諦観を半々にしたような気持ちでいたアンリエッタの表情をどう受け取ったのか、マルタは補足を加えてくる。

「……心配せずとも、もう結婚しろなどとは申しません。無理に連れ戻すつもりもありませんし、この地で頑張るというのなら、あなたのやりたいようになさい」

 そういえばそんなこともあったかとやっと思い出したくらいで、出立前にあった懸案についてすっかり忘れていたアンリエッタは、マルタの出した話題にむしろ意外さすら感じてしまう。

 そして同時に、ずいぶんと態度が軟化したな、とも。

 不思議な心地で眺めていると、気付いたマルタがこちらを見やって、ついとすぐまた視線を戻した。あなたが出て行ってから、と外を見たまま話し始める。

「新しい人を呼んだんです。あなたよりも若い女の子を、二人。後から来た子は何とか馴染んでくれたけどもう一人は、すぐに辞めてしまった」

 いつもぴんと張り詰めた声音を出す彼女にしてはしんみりとした調子で、マルタは続ける。

「教育とか人間関係とか、上手く助けてあげられなくてね。他の若い子に入った頃のことを聞いたら、あなたによく面倒を見てもらっていたって……何人かの例を真似してみて、それで、なんとか」

 述懐する母の横顔がふとこちらを向いて、目が合う。

「部門長たちから聞きましたが、あなた、彼らにも手紙を残していたんですってね。細かい仕事の調整については助言をもらっていたから不具合はなかったけれど、新人のフォローまでは手付かずになっていたって」

「……それは、私も悪かったと思う。どうせ意味がないんだろうって意地になっちゃって、教育のことまでは書かなかったから」

 首を振るマルタ。

「いつの間にか、ずいぶんと助けになってもらっていました」

 本当、今さらね。そう自嘲したマルタにアンリエッタは目を伏せて、言う。

「別に、小さなことだよ。ちゃんと気遣ったらきっと、誰にでもできることだから」

 原料の加工状況や機械の好不調、出荷予定の細かな時間の変化など、現場を覗いて見聞きした状況を伝達して、調整を促していたというだけだ。一様に数字に表わされる変化ではないので押さえるべき勘所こそあるにせよ、これだってあの時マルタが言ったように、あそこに長くいる者なら自ずとこなせるようになる仕事である。

「ですが、それでもです。あなたがいなくなるまでは、必要だってわからなかったことだもの」

 マルタは今度こそアンリエッタの方へしっかりと体を向けて、幾分か、憚るように顔を伏せてみせる。

「あの時、何にも変わらないみたいに……あなたの働きを無碍にすることを言ってしまって、ごめんなさい。今まで助けてくれて、どうもありがとう」

 いつなん時も意向や苦情を伝えてきたマルタの率直さが、今は自分への謝罪と労いのために用いられている。その意外さにアンリエッタは目を瞠って、凝らした視界の中の母の顔が、ふっと微笑んだのを見た。

「ここにはね、それを伝えたくて来たんです。もちろんあなたが心配だからというのも本当ですが――とにかくそういうことですから、結婚云々をもう言うつもりはありません。少なくとも、しばらくは」

「しばらくは、ね」

 ちょっと皮肉っぽく言葉尻を繰り返してみせると、マルタはごく軽く息をついた。

「大体、子供を二人も連れるようになった人の紹介なんて、そう気軽にできませんよ」

 悪戯っぽく批判を受けたアンリエッタは、なんとも言い返しがたい気持ちで耳の下を掻いた。

「でも、ずっとの話じゃないよ。あの子たちの引受先が決まるまでのことだから」

「……そうなのですか?」

 今度はマルタが意外そうに、目を二度瞬かせた。

「私はてっきりもう、あなたが自分で引き取るつもりでいるのかと思っていましたよ」

「いや、そんな」

 向けられた眼差しに戸惑って、つい俯いたアンリエッタはきょろきょろと足下を眺めた。

「私の所、なんて――。仕事であまり一緒にいてもあげられないし、きっとここより、もっともっと良い場所が」

「あなたはそう思うのでしたら、同じように二人に言ってみなさいな」

「――っ」

「きっと怒り出して、もしかすると泣き出すんじゃないかしら」

 突き放すように言われて口を噤んだアンリエッタに、「まったくあなたは」と、マルタはさらに非難を向ける。

「あんなに慕われて、一体何を言うんですか。あの子たちはさっき、あなたのことを守ろうとしたんですよ。頼るばかりじゃなくそんなふうにしてもらうのにどれだけの信頼が必要か、あなたは本当にわかっていないのですか?」

「……」

「お互いのことだから、あなたに全くその気がないのなら仕方がありません。ですが、よく考えることですね」

 何も言えずにいるアンリエッタに向かって、「それに」とマルタは付け加えた。

「だいたい気楽なものではないですか。いざとなれば私のところへやれば良いんです。巣立たせるなりそのまま雇うなり、どうとでも面倒を見ます」

 外の光に照らされて、マルタの横顔がよく見えている。

「そうであるなら、何の憂いもないはずでしょう?」

「……うん」

 短くそれだけ答える。

 マルタが、ただ窓の外を見る。

 ねえ母さんと、アンリエッタはマルタに呼びかける。

「あの子が――ルウィヒがね、私の仕事を手伝いたいって言うの。役に立てるかもしれないって、そう言っていて。だけどそれが本当にあの子にとって良いことなのか、私にはわからなくて」

 だから、手放しにその姿勢を称賛することができない。

 よりにもよって自分の運命を捻じ曲げた者たちが植え付けた力を使って。

 どこまでも大人たちの都合に翻弄されている状況が、アンリエッタにはどうしようもなく歯がゆい。

「なんですか。そんなこと」

「え?」

 呆れたふうに言われたアンリエッタは、意図が飲み込めずに母のことを見つめた。はっと口許を抑えたマルタがいかにも口を滑らせたという様子を見せて、一度首を振る。

「ああ、いえ……そんなことと言うのもおかしいですね。あなたの立場からすれば確かに、由々しき事態なのかもしれません。ですが」

 そこで言葉を切って、マルタは一度息を吸う。抱えた荷を下ろした時のような吐息交じりの声で、アンリエッタに言う。

「ですけどね、結局そんなのはあなたと変わらないじゃないですか。与えられたものを受け取っているだけでは満足できなくて、やれることをやろうとしたがる。抱き抱えているこちらのことなんて気にも留めないで、腕の中から飛び出して行ってしまう。そんなの、まるであなたと一緒じゃないですか。きっと小さくても……同じなんだと思いますよ」

「なら――」

 なら母さんはどうするの?

 訊ねようとして言葉を飲み込む。

 そんなことは、今の彼女を見ればよくわかることだった。

「お母さん」

 ぽつりと言う。呼びかけにマルタは何も答えずに、アンリエッタの言葉を待つ。

「何も言わずに出て行って、ごめんね」

 心にしこりのまま残っていたことについて、謝罪を述べる。

 別に構いませんと、横顔は眦を細くしつつそう言って。

 変わらず穏やかな静寂を保ったまま、ただ彼方の景色を眺め続けた。

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