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1ー2 「いつかペンと制度の力で」

「睨まれちゃったねー出会い頭だってのに早々」

 アチャーて感じ。と、隣を歩くアニーは極めて愉快そうに肩をせり上げ、にやつく。アンリエッタが荒れ野に対峙するような気持ちで渋面を作ったのに、目をぱっちりと満面に笑んでみせる。くねった栗毛ブリュネットの下で作った笑顔は愛嬌こそたっぷりだがからかいを多分に含んで、どこか悪魔的にも見えた。

「ま、しょうがないやね。いきなりやってきて頼んだのが治療費の建て替えなんだから。元々むっつり顔なのが輪をかけてピリピリしちゃって」

 うう、と呻くアンリエッタ。

「あれ、相当、ご立腹でしたよねえ」

 うきうきとするアニーとは対照的に肩を落とす公書士見習いは、からりと笑い飛ばされる。

「あっはは。まあ心配ないんじゃない? 真面目にやってりゃ忘れてくれるよ。ただなに、悲劇は喜劇ってのはよく言ったもんっていうか」

「き、きげ……っ」

 およそ慰めに用いられたのではなさそうな文言に、アンリエッタは声を詰まらせる。職場では物静かに勤めていた事務員アニーは、事務所を出て陽の光を浴びた途端、すっかり軽快に声を発するようになっていた。

 くねりながらやや下りへと傾ぐ路地を進む。やがて道の先の方に、光の増した空間があるのを視界に捉える。小径を踏破し、大通りに出た。

「さて。もう通って来ただろうけど、ここがマティルド通りルゥエ・ドゥ・マティルド。目抜き通りってやつだね。東の駅から真ん中の広場を結んでる」

 右から左へ撫でる仕草をして道の全貌を示してみせると、進路は左に折れた。そっちに馴染みの居酒屋ブラッスリーがあるとかあっちの細道は川沿いまで続いているとか、そんな説明を受けつつ中央広場を目指す。通りはごった返すというほどでもないが、人や馬が途切れずに横行していた。週末は道沿いの出店も許されているらしく、また様相が変わって来るのだとアニーは話す。

「ま、落ち着いたらそっちも案内したげる」

 今の目的地はひとまず、アンリエッタの下宿先であった。移住の種々の手続きに先立って、賃貸の家主の下へと挨拶に赴くところである。

 本日は盗難の通報含め、街中を歩いて用事を済ませるつもりだと話せば、まだ着いたばかりで不慣れだろうとアニーが道案内を買って出てくれたのだ。こちらに責があるとはいえ、近寄りがたい雰囲気を示したロランとは対照的に親切な態度を見せるアニーに、アンリエッタは恐縮しつつもちょっぴりホッとする心地であった。

 のだが。

「くぅー! しかしお昼より早く外に行けるってのは、やっぱ気分良いよねえー」

 天に腕を突き出して存分に体を伸ばしつつ、気鋭の公書士事務所の事務員は宣う。「どーする、どっかカフェでも行く?」などとこちらへ誘いかけて、おそらくは体良く息抜きの口実にされたのだろうと察するアンリエッタである。

「あの。できれば今日中に手続きをあらかた済ませたくてですね」

「そっかー。んじゃま、屋台でも寄ってきますか」

 譲歩しているようなしていないような返事を寄越したアニーは、すたすたとアンリエッタを先導していく。程なくして、目抜き通りの端へと至った。

「プラース・ドゥ・マールシェ」

 ちょっと前に出てこちらに向き直ったアニーが、腕を広げ唄うように言った。

「こちらが中央広場兼、中央市場であります」

 胸に手を置き畏まった口ぶりでアニーが紹介したのに、「おお」と声を漏らす。入口に近付く内に人通りが集まっていることには気付いていたが、視界を埋め尽くす数の店舗群にはやはり感嘆するところがあった。開けた中に幾筋も通路を作って、その奥、小高くなっていく土地に敷き詰めるように尖塔や住宅が並ぶ。

「アンリエッタさんはサン・ジェン地区だから、あっちに抜けてったとこだね」

 北西、斜面に上っていく街並みを差してそう言うと、アニーは両手を腰に置いた。

「さ、なんにする?」

「別に私は特に……粥でもスープでも」

「ふーむ。じゃ、苦手なものは? 牛、豚、鳥、羊に鹿……」

「お肉が食べたいんですね?」

「んふふ。ま、お近づきの印ってやつ。せせこましいこと言わないで豪勢に、ってね?」

 親睦を引き合いに出されると倹約を望んだアンリエッタも強くは突っぱねられない。じゃ、美味いミートパイ(パテ・トーリア)を食べに行こう。そう言って雑踏を縫い始めたアニーの背中に、仕方なしについて行く。

「――四つ切のパイをひとつとー、あと赤を一杯!」

「は? お酒までっ?」

 目当ての屋台に着いて耳にした注文を勢い訊き返すアンリエッタである。仕事中ではという言葉が喉から出かかるが、アニーはといえばそれが何かと訊ねんばかりにあっさりと頷く。

「うん。アンリエッタさんは? 飲まないの?」

「……結構です。パイだけで」

 ぶすりと半眼になってオーダーを告げると、店主が準備しつつ会計を告げる。占めて一ゲールになると言われたアニーは、右から左へ伝言するかの如くアンリエッタと目を合わせた。

「だって。アンリエッタさん」

「はあ、一ゲール。――って、んん? あの?」

 精一杯疑問符を浮かべて訊ねるが、アニーが代金を出す様子はない。ただただ「どうぞ」と手のひらで示してアンリエッタの清算を促す。

「お、お近づきの印というのは」

「そ。だから御馳走してもらおうって。案内するし」

「ええと! 私お金は」

「あるじゃん、そこに。四〇ゲールも」

「……!」

 早速たかられているのだとアンリエッタが感付いた目の前で、アニーはもう料理を受け取っている。欠片ほども邪気を覗かせない不良事務員の緑の瞳が、店主とアンリエッタと金子を納めたその懐を順番に見つめる。「ん?」と咲いた彼女の笑みをとどめにして、圧に負けたアンリエッタは一枚金券を取り出すのだった。

「にしてもさ、なんでわざわざこの街に?」

 店舗の横に設けられた卓に着くと、アニーはそんなことを訊ねてきた。

「南の出身でしょ。帝都に行ったって良かったじゃん」

 帝都というのは、此国ここイスタの中央に位置する首都・カルゴのことを指し、マティルドはそこから北東へ向かった場所にある小都市だ。対してアンリエッタの出身地であるニムは南方の地域で、当然のこと直行する列車もないので、移動には帝都を経由することになる。

 であればどうしてわざわざ首都を通り過ぎてこちらに来たのかと、アニーの質問はそういう意味だ。

「だって、ロランさんは優秀な公書士じゃないですか」

「ウチの先生はそりゃまあデキる人みたいだけど。帝都なら他にスゴい人はいっぱいいんでしょ」

「いやあ」

 と、アンリエッタは卓の端に目を落とし、頭を掻いた。

「恥ずかしながら、断られてしまいまして」

 苦笑混じりに言う。こちらを覗き込むような仕草で、アニーが首を傾げる。

「それってアレ? 女だからってこと?」

「なくもないかもしれないですが、なにせあっちは求職者の数が違いますから」

 都会で働きたがる見習いは多い。資格を取った後は熟練の公書士の下で経験を積むのが決まりだが、そこで築く関係性やノウハウにはどうしても地方色が出る。必然、最初の土地に骨をうずめる可能性が高くなるわけで、皆がこぞって集まりそしてあぶれて行くという寸法だ。都会で、しかも目ぼしい公書士に教えを乞うとなると、結局は金とコネがモノを言う。

 とはいえアンリエッタも、話に聞いた以上のことを本当は知らない。明かした事情は口から出まかせだった。

 ふーん、とこちらを見つめるアニーは声を漏らし、酒を煽る。

「世の中なんでも思い通りにはいかないよね。いきなし今日素寒貧になったみたいに」

「う……」

 苦しく声を這い出したアンリエッタをよそに、アニーがミートパイを頬張る。アンリエッタもならって残りを平らげる。肉と香辛料とバターの風味の中に、ふと煙の匂いを嗅ぎ取った。店の表の方を見れば、一息付いたらしい店主がテントの隅でパイプをふかしている。先日、兄の書斎に顔を出した時も似た匂いがしていたと、アンリエッタは思い出す。

 ――別に、お前の人生だ。いちいち反対するつもりはない。だがね。

 かぶりを振って卓に目を戻し、食事を終えた指先を拭う。向かいのアニーがこくんと口の中のものを飲み込む。ロランはね。そう彼女は言う。あのむっつり顔の通り不愛想な奴だけど。

「でも、案外情のある男だよ。仕事をこなせば邪険にはしないから、そこは安心していい」



「遅い」

「やり直し」

「いやすまない、一度読めば理解すると思っていた」

「君には紙もインクも時間も惜しんで欲しいのだがね」

「この際どうだ。その裏紙で、製紙工場に謝罪文でも書いてみては」

「がっかりする気持ちもわかるが、私もまた君以上に絶望している」

「うむ。つまり、全て書き直しだ」

 もう何度目か突き返された書類に指で皺を作りつつ、すごすごと机へ戻る。途中、事務員アニーと目が合った。

 情がある、というのは?

 口の動きだけで問い掛ければ、アニーはにやつき、声には出さずに「ファイト」と返してくる。二つの拳でファイティングポーズを作った彼女にため息をついて、アンリエッタは部屋の隅、書棚前のデスクの椅子に手をかけた。

 ロランがじっと、こちらに目を向けている。

 見られていると思っていなかったアンリエッタはびくりと椅子を引く動作を止めたが、といって眼差しの意図は図りかねたので、きょろきょろと辺りへ視線を配った。

「ええっと。あ、何か必要な資料が」

「そういうのは自分でやる」

「はあ。では何か他に御用が?」

「別にない」

 であればなんだと言うのだろう。訝しんで彼のことを眺めるが、すぐに答えは出てこない。この二日で、書類を検める眼力と罵倒にまつわる表現力の確かさについては身に染みているアンリエッタだから、即座に要件を出してこないのがなんとも意外に感じた。

 彼の口が、緩慢に動くのを見る。

「その、打ち解けたようだ、と――」

 アンリエッタのこめかみは続く小言に警戒して強張ったが、言いたいのはそれだけだったらしく、ロランは視線を注いだまま口を噤む。どうやら会話は終わっていないらしい。

「私と、アニーさんのことですか」

「ん」

 打って変わって言葉少なで、ほとほと職人気質(かたぎ)な人物なのだと思うアンリエッタだった。

 アニーの方を見ると、彼女はしたり顔で頬杖を付いている。

「まあ、奢って貰っちゃったからねー。仲良くしないと」

 それは、普通思っていても口にしないことではなかろうかと思う。

「奢るというか、かつあげというか」

 軽く苦言を呈すと、「わ、冷たい!」とアニーはわざとらしく両手を上げ、目と口を丸く開く。二日足らずですっかり同僚とみなしてくれたらしく、彼女の言動は先のサボタージュと同様に奔放になっていた。

「じゃ、もう一緒にランチはなし?」

「そういうわけじゃないですけど。ご馳走はできませんよ」

 えー、と不満げに声を上げたのには軽くひと睨みを送ったが、アニーはちっとも気にした様子がない。ため息をついてアンリエッタが視線を戻せば、厳しく眉を寄せる一等公書士の顔が見えた。

「借りた金で見栄を張るのは、感心せんな」

 などと言う。

 私から誘ったんじゃないのに!

 喉から出かかる言葉を飲み込んで、アンリエッタはようやく席に着く。

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