4ー5
夜中。
軒先の花壇に腰掛けるレームをアンリエッタは見つける。
酒を飲んだせいか眠りが浅く、まだ暗い時間に目覚めてしまって、それでレームがいないことに気が付いたのだった。ルウィヒはアンリエッタの隣のベッドで寝息を立てて、だからこっそり連れ去られたのではなさそうということはすぐに知れる。部屋を見渡してもおらず、外にいるのかとアパルトマンを出た。ぐるりと建物の周囲を回る途中で姿を見付け、ひっそりとアンリエッタは安堵する。
「レーム」
傍に寄って声をかけると、少年がこちらを見上げた。察したふうに半開きにした口で息を吸って、視線を前方へ逸らす。
「ごめん、勝手に出て」
「ううん。フランツさんも、前よりは物騒じゃなくなったって言ってたし」
「うん」
「でもまた外に出たくなった時は、気にせず起こしてくれても良いから。ね?」
「……うん」
応答したもののあくまで前を向いたままでいるレームには立ち上がる様子がなく、その反応を見て取って、アンリエッタは彼の隣へ座る。
「眠くないの?」
「うん。……たまに、そうなんだ。普段は外まで出ないんだけど、今日はちょっと身体が熱って、それで」
「大丈夫?」
反射的に、少年の頬に触れる。
「お酒、間違えて飲んじゃったとか」
ワインを少しという程度なら心配なかろうが、アニーが持ち込んでいた薬草酒は強いし、独特なクセがあった。味見くらいの量としても子どもには何か負担があったかもしれない。瞳を覗き込んで様子を窺うと、レームはちょっと狼狽えた様子で身を引き、「別に、平気だから」と呟いた。逃げるようにやや離れて、座り直す。触れた感じも見た感じもそう異常はなさそうだったが、よそよそしくするその反応がアンリエッタには少々切ない。今に限らず、傍に寄るとわずかに距離を取られることが、普段からよくあったのだった。一緒に暮らし始めたとはいえ日が浅く、まだまだ打ち解けられていないということだろうが、気遣って緊張しているとするならば気の毒だった。
(アニーさんなら)
もっと、上手に親しくなれるのだろうかと思う。人当たりの良い気安さと押しの強さはアンリエッタも体感してきたことである。ほんの短い時の間でルウィヒは懐いていたしレームとの距離も近くなっていた。
(確か)
抱きついたり、していたのだったか。
「――えい」
「わ! な……っ」
後ろから捕まえるように、少年の両肩に腕を回した。ややもたれつつ引き寄せる。ふいをつかれた動物みたいに、レームはびくりと身じろぎしてこちらを見やる。
「な、なに? なんで」
先ほど以上に強い狼狽を示したのが意外で、きょとんとするアンリエッタである。
「今より打ち解けられるかもって。あれ? 変だった?」
「変、っていうか」
「アニーさんがこういう感じだったし、大丈夫なのかなって」
「あれは、その、……」
黙ってしまう。
「レーム?」
「と、とにかく。離して。暑いから」
「あ……そう、そうだね。ごめんね」
辺りはむしろ肌寒いくらいではあったが、もごもごと消え入りそうな訴えを素直に受け入れ、身を離す。おそらく、どうも、失敗したらしかった。嫌な気持ちにさせただろうかと心配して、もう一度「ごめんね」と小さく謝る。頭にもたげた後悔で俯いていると、すっと軽く肩がぶつかって、レームが身を寄せてきたことに気が付く。
アンリエッタは不可思議に思って彼を眺めて、レームはただ明後日の方へ目を逸らした。
「肩は」
しばらく経って、ぽつりと口にする。
「もう本当に痛まない?」
前にも訊かれた問いかけでは、あった。アンリエッタは一目でわかるくらい深く頷いてみせて、答える。
「うんもうすっかり。お医者さんからも大丈夫って太鼓判をもらったし。私よりレームは」
言いかけて、口を噤む。声にしなかった続きをレームは受け取って、答える。
「僕は別に、大丈夫。痛まないし」
「……そう、だね」
声を落として相槌を打つ。
「指の方は? 血は出てなかったと思うけど」
「うん」
彼の左手。ガーゼを巻いて傷口を保護してある人差し指を見る。これがもっと大きいものでも、それこそ骨が折れてしまってもレームは無自覚でいられる。
つい、先日のことだ。仕事から帰るとルウィヒに血相を変えて駆け寄られ、しがみつかれた。レームが包丁で指を切ったのだと知って部屋に入れば、少年と対面して座るオッテンバールの背中が見えた。
――そこの動物、ちょろちょろ鬱陶しいから捕まえててもらえるか。
ルウィヒについて悪態を寄越した彼の傍らには、鮮血のついた布が落ちている。惜しいね、もう少し早く来れば骨が見れた。とんでもないことを宣いながら縫合処置をするオッテンバールの奥、じっとこちらに眼差しを向けていたレームと目が合う。
ごめん、汚して。野菜も。
静かに傷口を縫われる彼から謝罪を寄越され、アンリエッタは思わずぎょっとした。出血に気が付かずに皮を剥くのを続けて駄目にしてしまったと、そうレームは話す。申し訳なさに沈む表情には自身の怪我への動揺も苦悶もまるで見当たらなくて、アンリエッタはそこで初めて、彼の危うさというものを肌で感じる。
「なんで」
物思いに耽っていた耳に、ふいにレームの声が飛び込む。顔を向ければ、逸らされていた少年の瞳がアンリエッタの方に向いていた。
「アンリエッタはこんなに、僕らに良くしてくれるの?」
訊かれたもののぱっと出てくる答えはなくて、少しの間考え込む。アンリエッタはただただ自分がそうすべきと思って彼らと関わった。だから具体的な理由とか目的というものはそこにはなくて、そうなると、気持ちを表現するくらいしかできることがない。
「……ほっとけなかったから、かな」
やがて絞り出してみた言葉は実際、自分の胸中をしっくりと表すものではあった。けれどもどうもレームの共感は得られない様子で、意図を探るふうに目を凝らしてきた。
「二人みたいに辛い境遇にいる人が世の中にはいて、私はその助けになりたい。あなたたちが安心した姿を見ると私も安心するの。だから」
「……アンリエッタには、何か不安なことがあるの?」
「え?」
差し挟まれた問いに虚をつかれ、言葉に詰まる。
「安心する、って言ったから」
「ああ。えっと、それは言葉の綾というか」
言って、少し考え込む。ざわざわとした胸の内側のあの感触について、考える。かつて草はらの中で嗅いだ匂い。ぴんと張り詰めたこめかみと心臓の痛みが、わずかにぶり返す。
ふるふると首を振って、アンリエッタは耽りかけた追憶を打ち消した。
「……うん、そうだね。あなた達が辛い目に遭うのはいけないな、って思う。もしそうなっちゃったらって考えると、不安だよ」
そう言ったアンリエッタの言葉を咀嚼するふうに、レームはひと時目を閉じた。
「僕も――ルウィヒが辛くしているのを見るのは、嫌だ」
前方、どこか遠くを見つめながら、少年は口を動かす。
「怪我したらとか、一人にしたらとか。そういうもしもを考えちゃうと、あの時のことを思い出すんだ」
「あの時?」
「ルウィヒが、喋れなくなった時」
首を傾げてした問いかけに返された答えは、息を呑むのに十分なものだった。抱えた膝に鼻先を埋めたレームの手を、アンリエッタは握ってやる。
「……別に、何か、変わった日じゃなかった」
呟く声は響きを持たなくて、夜の中で消え入りそうに聞こえた。暑いと言っていた割に指先の熱は冷めていて、まだ小さい彼のその手の甲を、アンリエッタは繰り返しさする。
「実験があって、勉強があって。終わった後ルウィヒはなんだか眠そうで、気が付いたら居眠りをしてた。それでもうすぐ晩御飯っていう時間になって――起き上がったルウィヒが、僕を見て『まど』って言ったんだ。僕は外に何かあるのかと思ってそっちを見て、それから『くつした、そうでもない』って言った。……何かの遊びなんだろうって、思った。今よりも小さい時だったし、いきなり置いてけぼりに思い付いたことを言うことだって、別によくあった。でもその時は、なんだか、ルウィヒは普通の感じで。くつしたってなんだって訊いたら目をぱちぱちして。それから、『くものす』って不思議そうに言った。本当に何だかわかってないみたいで、僕も、何を言ったら良いのかわからなくなった。ルウィヒも変だって思ったんだと思う。ゆっくり声を出して、自分で自分の声を聞こうとしてた。それで首を曲げてまた喋って、もう一回こっちを見た。何か僕に話しながらそばまで来て、ばらばらの言葉で話そうとした。怒ってるみたいに声がだんだん大きくなって、聞いていられなくなって手で口を塞いだら、泣いて、叫び始めたからせんせいたちが来て」
つらつらと語る声は、アンリエッタが頭を抱き寄せた拍子に止まった。不思議そうに頭を動かしたレームの背中を、ゆっくりと繰り返し撫で下ろす。
「こわかったね」
そう声を掛ける。レームは打ち解けた獣みたいに一瞬こちらへ体を沈めて、それから弾かれるように身を離した。
「――ちがう、ちがうよ」
「?」
「こわくなんてなかった、ほんとだ」
「……レーム」
「だって、だってそんな、ルウィヒは妹だ。怖いなんて」
「レーム」
急き立って首を振った彼の名前を、アンリエッタは呼びかける。かつての感情を否定しようと歪むレームの頬を両手に包んで、まっすぐに見下ろした。
「大事な人がどうかなってしまうって思ったら、誰だって怖いの。私だって、あなただって、ルウィヒだってそう」
レームが倒れたり怪我をした時にルウィヒが怯えるのは、傷付いた兄の姿を怖がっているわけではない。ただ心配だからで、そんなのは当たり前のことだ。
「ルウィヒのことを怖いと感じてしまったなんて、あなたは思わなくって良い。そんなことは全然なかったんだから」
「でも、僕は」
「大丈夫、平気だよ。平気だから」
腕の中のレームをもう一度抱き締める。
「――へいき」
念じるようにアンリエッタは再び唱える。ずしりと、こちらに体重がかかる。細い体が強張りを解いて、柔らかくこちらへもたれかかっている。
少年の背中、薄く冷たい肌が熱を持ってくれたら良いと、アンリエッタは思う。




