1ー1 「いつかペンと制度の力で」
拳を振るわずとも諍いを解決できる!
そういう景色を目指して、歩む方角を決めたのである。
「だから! 払いが三〇〇ゲール少ない、つったんだ!」
二人の男どもが言い合う。
そんな目前の揉め事とて、解決手段はまた同じのはずだ。
「代わりに売れる土地があるんだって! 何度言ったらわかんだこの」
「――まァまァまァまァッ」
市街、道端、薄い亜麻色の髪が振り乱れるのも構わずに、掴み掛からんと競り合う二つの胸板に割って入った。
そして見下ろす、二つの顔がある。
「両者の言い分、お聞きしますよ」
刺さった視線に臆するところは一つもなく、きりりと眼差しに力を込める。
「私はアンリエッタ・ベルジェ。公書士です。契約に関するトラブルであればきっと御力に――って、え?」
口上を止めて疑問を呈す。上目に見据えていた目線を下げて、男に掴まれた肩を見た。
「紙書きが、しゃしゃンじゃねえ!」
ぐいと左へ肩を押される。強く横へ振られる感覚と共に、アンリエッタの体は浮力を得た。
税、財産、貸借、身分、婚姻……。
それら法制度におけるあらゆる証明と表明に公書士は立ち会う。些細なものから大きなことまで。ヒトの住処に生きていれば避けては通れぬ手続きを、差し障りの起こらぬよう処理するのだ。
「つまり? 頼まれもしない仲裁を引き受けようとした結果? 君は到着早々に怪我と遅刻をしたわけか」
「う」
端的に因果をまとめた言葉でなじられ、机の前に立たされたアンリエッタは声を詰まらせる。目の前には、これから教官兼雇い主として世話になるところの男性が座っていた。公書士見習いとして修練を積むべく、トーリア地方は都市マティルドに移住したアンリエッタは、彼の下で働くことになっている。
ロラン・シュタルン。それが、目の前の男の名前である。
「突き飛ばされ肩から倒れて強打、うずくまって医者に担ぎ込まれる間に鞄をなくし、治療費を私に立て替えさせた、と。全く結構な営業成果だ」
「うう」
明らかに非難する口調で先ほど話して聞かせた事情を繰り返されて、アンリエッタは居た堪れなく呻いた。
「その、利き腕は無事です。なのでペンは」
「耳障りだから黙っていてもらえるか」
三十三の歳若さで一等公書士の資格を有し、日々精力的に依頼をこなす彼はさて、決して愉快とは言えない佇まいで机に肘を付く。頭痛を治めるようにこめかみにぐりぐりと指の節を押し付けて、その様を見るにつけ、アンリエッタは腕を吊って庇った左肩がじくじくと痛むのを感じた。
本日は、正確に言えばただの顔見せで、実際の就業は翌日からの予定であった。そのため遅刻とはいえ業務に影響は出ていないのだが、与えた印象はすこぶる悪い。
「金庫を出してくれ」
居心地悪く唇をむぐむぐとさせていたアンリエッタに一つため息をつくと、ロランはそう言った。指示はもちろんアンリエッタにではなく、事務所に在室する別の女性へのものだ。ロラン公書士事務所唯一のスタッフであるアニー嬢は、準備の良いことに既に手提げ金庫を手にしていて、がちゃんと音を立ててロランの前へと置いた。
紙幣を掴み出し、数え始める。
「一〇〇ゲールもあれば当座は凌げるかね。銀行に預金はあるんだろう」
確かに地元で手続きは済ませてあるので、数日もすれば口座情報は共有され、生活資金の目処は立つ。降って湧いた手厚さに、アンリエッタは繰り返し瞬きをした。
「よろしいんですか」
「むしろ他に当てはなかろう。クーポンで我慢してもらうがね」
と言って机上に置かれたのは、市場での商品交換に利用できる金券だった。使用前後の署名が必要であったり、釣銭が多いと取り引きを断られたりといった面倒さはあるが、市内では概ね貨幣と変わらずに使用できるという代物だ。個人間の取引や報酬にも代用されるなど本来の用途を超えた利用のされ方をしているところが特徴的でありかつ便利な点で、アンリエッタも、道中の列車内にて、やや有利な額で交換できるとの販促に乗せられて手持ち金の一部を替えている。
ロランが一言断ってきたのに、アンリエッタは大いに首を振り頭を下げた。
「ぜ、全然全然っ。どうもありがとうございます!」
恭しく取り上げようとしたところで、券面にロランの手が伏せられた。即座に意図を掴めなかったアンリエッタは、つるりと髭の剃り上げられた彼の顔を眺める。
「君は公書士だな? 金品の貸し借りが生じた場合、君は何を用意する?」
出し抜けに職務に係る問いかけをされて、アンリエッタは努めて畏まる。
「貸借契約書です、ボス」
「ん。今回は念書でいい。起案しろ」
手のひら二つ並べた程度の大きさの紙を寄越される。アニー、とロランが短く呼ぶと事務員はアンリエッタの隣に立って、彼女の片腕の代わりに用紙を押さえた。
二人に視線を注がれつつ、条項を書き連ねる。途中アニーから提案があって、初回に四〇ゲールを借り、後は日給として一〇ゲールずつ受け取る内容に変更した。
「ふむ」
アンリエッタが素案を書き上げると、ロランは目線の位置までそれを持ち上げ、素早く目を通す。
「いかがでしょうか」
「綴りに間違いは見られない。字も均整で読みやすい。しかし重要な項目が抜けている」
「ええと……?」
「利率だよ。当然だろう。週当たり五%で設定したまえ」
「……高いのでは」
ぱさりと机に放られた念書を見つめつつ、言う。暴利ということもないが、実家ではあまり聞かない数字だった。
こちらが滲ませた難色に、ロランは表情にさしたる感情を浮かばせないまま、考えるふうに瞳を上向ける。
「確かに、協議は大事か。しかし君と私に大した縁はなく、私自身の本職も金貸しではない上に少額だ。さらに言えば、君の報酬は月払いである分やや高く取り決めてあるわけで、それを前借りにすれば多少の差額は発生する。つまり、妥当だよ」
次々と根拠をあげつらってきたのに、アンリエッタは口を挟めない。
「それに、いちいち謝礼について考える必要がないのは君にとっても利点だろう」
ロランはそう付け加えると、用紙の空白部分をトントンと叩いた。アンリエッタは促されるままに利率の条件を追記する。
「うむ。正書を作る必要はなかろう、サインを」
指示を受け、署名。
完成した念書を受け取ってひと目確認すると、ロランはそれを手提げ金庫の中へと放り込む。一ゲールと五ゲール相当の金券を十数枚選り分け、こちらへ渡した。アンリエッタは平身低頭でそれを受け取り、そそくさと仕舞う。
向かいから、聞こえよがしにため息が落ちた。
「嫁に行って子供を育てて、それから始めても良かったんじゃないかね?」
顔を上げれば、深く椅子に腰かけたロランが、いかにもつまらなさそうに眉を歪めている。
「それは。少々、時代に逆行した御意見かと」
硬い声音で発した抗弁には、見立て違いをするなと返される。
「私個人の考えで言えば、女性が身を立てるのは大いに結構なことだ。そも高名な公書士の中には御婦人も数多くおられる。しかしね、君の迂闊さは家庭に縛られるくらいでちょうど良い塩梅でなかろうかと、そう言ったまでだ」
「……」
性別由来の文句を言われたのだと早合点をしていたアンリエッタは、過失を絡めて放たれた嫌みに口を噤む。
「まあ――安心していい、顔を合わせて早々金の無心を行った部下は君が初めてではない。これは、前代未聞の失態ではないというわけだ」
残った紙幣を揃えて収めながら、言う。
がちゃんとうるさく、金庫の蓋が閉じられた。
「いずれの人間も、長続きはしなかったがね」