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「ふーむ、こんなもんか?」
ぐにゃぐにゃ線の図案と自身の描いた平面図を数枚見比べつつ、アニーは言う。建物周囲の状況までをも簡明に書き表した図面を渡され、アンリエッタは声にならない感嘆を漏らした。
「完璧ですっ……こんなにもしっかりと」
「や、つっても丸と四角と線だけだけどね」
「私なら、定規を使ってもこんな綺麗には描けません」
言い募ったが、アニーは称賛を受け止めた様子もなく視線を明後日に逸らす。
「褒められた感じしないなあ……ま、確かに、字はあんな上手いのにこっちはなんで? って感じではあるねえ」
元の図案を掲げ唇を歪めるアニー。
午前中早速ロランの指示の通り、物件の区分所有に係る平面図の作成に着手したアンリエッタであったが、壊滅的な絵心のなさによりこれは早々に挫折した。逃げるように他の案件に取り組んで、昼下がりになって再び対峙する。あまりの難題に実際に呻いて根を上げていたところで、救世主アニーから再び声がかかったというあらましだった。写しの作業を依頼するようロランが言うだけあって、この敏腕事務員は、アンリエッタの説明と均整さのかけらも持たない図案から理想通りの図面を描いてみせた。その絵の下手さ加減で母親を絶望させた過去のある自分と比べれば、アニーの腕前は「恐るべき」と言って差し支えない。
「ていうかちびすけ共に刺繍を教えてるって話だったじゃん。あんなの、それこそ絵が描けないとダメでしょ」
「知ってる紋様なら描かなくてもなんとかなるんです。糸目を辿っていけば良いというのもありますし」
下絵が必要であれば型枠を使うという手もある。ただ母はそれでは満足しなくて、色々と技法を授けたもののそっくり自分の跡を継がせることは諦めたようだった。癪だが、母の反応はアンリエッタにも理解できる。まともに描けるようにと目指した時期もあったが、それでむしろ酷くなっていったのだから困りものだ。一本引くのでも考え込むようになると線は歪さを増して、結果苦手意識が加速して取り組めない。まさに悪循環と言えた。
「ま、いいや。詰まってた所はそんで終わりだよね? 今日はもう帰ろうぜえー」
「まだ定時には早いです」
「昨日はちょっと遅かったんだし、ちょっと早くなったって良いじゃん」
画期的な労働形態ではあった。が、その辺りの裁量権はアンリエッタの手の上にはない。短い方にも長い方にも、である。雇い入れられて早ひと月余りが経つが、当然というべきかまだアンリエッタに事務所の鍵は渡されていないのだった。そうなると職場での滞在が許されるのはロランかアニーがいる時だけということになるわけで、(そもそも家に遅く帰るわけにはいかないという前提があるにせよ)貴重な勤務時間をいたずらに失くすことはできないのである。いつ不測の事態で仕事を進められなくなるかわからないというのもあって、常々進捗には余裕を持っておきたかった。
断固として早退に首を振ったアンリエッタに、アニーはひょうきんに唇を尖らせ息をついてみせる。
「仕方がない、もう一枚描いとくか。写し、作るんだって話だったよね?」
「そうです。本当に助かります」
お礼は必ず……と神妙に唱えれば、ペンを片手に肩を竦めるアニーがいる。それからちょっと思い付いたふうに顔と目線を上げた。ペンの頭を軽く突き付け、アニーは覗き込むようにしてアンリエッタを見る。
「そんじゃさっそく、今日してもらおっか?」
「へ――?」